村人達はとうとう森の中に入った。ここからぐんと危険度が上がる。名無しはどこかに異変がないか気を配っていた。

「エミリア、大丈夫か」
「ええ、アル」

 少し遅れながら、エミリアも名無しの後ろをついてきていた。長期間旅を続けてきただけあって一時は病に倒れたものの、女性でありながらエミリアには体力があった。
 その時である。冬の曇った空に、細い狼煙が上がって行くのが見えた。

「あっちだ!」

 名無しは雪の斜面を滑るようにして狼煙の方向に向かった。慌ててその後ろをエミリアが追う。

「光の翼よ!」

 エミリアが杖を振り上げると、光の筋がエミリアを宙に浮かべた。

「アル、掴まってください」

 エミリアの伸ばした手を名無しが掴むと名無しの体もふわりと浮かんだ。

「……便利だな」
「急ぎます! 舌を噛みますよ」

 そのままエミリアと名無しは木々の上を加速し、狼煙の場所へと向かう。するとパンッ
と魔法石の作動音が聞こえて光がほとばしるのが見えた。

「いけない、襲われてるわ!」

 二人はその場所に急降下した。

「あわわわわ……」

 そこには腰を抜かしたリックがいた。そしてその視線の先には……濃い紫色の体毛の巨大な熊が蹲っていた。その体は通常の熊の三倍ほどもあり、するどい鉤爪で興奮気味に地面を掻いていた。

「リック!」
「あああ、アル。エミリアさん……」
「こいつはただの熊じゃない。魔物か……!」

 その熊の魔物、狂乱熊はしばらく蠢いていたが、やがてこちらにゆっくりと振り向くと咆吼した。

「ガアアアアアアア!!」
「ひいっ」
「リック、下がれ」

 名無しは襲撃に備え双剣を構えた。 名無しは狂乱熊に向かって突進した。足下は雪に埋もれた森の中。名無しの持ち前の俊敏性はいつもの半分も発揮出来ない。

「神の光よ、邪なるものの動きを封じよ! 『天縛』」

 エミリアが光の呪縛を放つと、狂乱熊の動きが鈍った。しかし完全に動きを封じた訳ではない。

「くっ……強い……」
「エミリア、十分だ」

 名無しは狂乱熊の振り下ろした爪をすんでの所でかいくぐり、その懐に入ると小剣を突き立てた。そしてすぐに離れる。

「グアアアアアア!!」
「アル、そんなもんじゃ熊は死なないぞ!」
「分かってる、リック。だから対策はしてある」

 狂乱熊は血を流しながらしばらくエミリアの呪縛を振り切ろうと暴れていたがやがてヒクヒクと痙攣しだした。

「アル!? 何したんだ?」
「毒を塗っておいた。馬鹿でかいからやはり時間がかかるな」

 そう言って名無しはもう一度狂乱熊に飛びかかると、そののど笛をかっさばいた。

「グ……グ……」

 やがて泡を吹いて狂乱熊は倒れ、動かなくなった。

「すげぇ……」

 リックはその手さばきに思わず呟いたが、次の瞬間振り向いた名無しの顔を見て息を飲んだ。

「もう死んだ」
「あ、ああ……」

 そこにはリックの知る、ちょっと不器用でいつも無愛想な男は居なかった。獣の様に目をぎらつかせ、息を荒げている名無しにリックは恐ろしさを感じた。

「リック、大丈夫ですか?」
「へ!? あ、はい!」

 そんなリックにエミリアは優しく声をかけた。

「もういいですね」

 そう言ってエミリアは魔法を解き、変わりに光の玉を空に飛ばした。

「もうすぐみんながやって来ます。この熊を運ぶのは大変そうですね」
「ああ、予想外にデカいからな」
「それにしても勝手に毒なんか使って! お肉がその分駄目になっちゃったじゃないですか」
「……すまん」

 エミリアと話している名無しは、もうすでにリックの知っている『アル』だった。リックは先程のは見間違いかと目をこすった。



「そーれ、そーれ!」
「森を出たらソリがあるから、それまでがんばれ!」

 それからエミリアの光の合図を見て駆けつけた村人達の手によって、熊は村まで運ばれた。

「いやあ、良かった。こんなのが村にやってきたかと思うと……」
「俺達じゃ太刀打ちできんな」
「アルとエミリアさんが居てくれて助かった」

 そう口々に言いながら熊の解体作業に取りかかる。

「わふわふっ」
「パパー!」

 ヨハンとクロエ達も広場にやってきた。村の広場に運びこまれた狂乱熊を見てクロエはぎょっとした顔をした。

「パパ……これをやっつけたの?」
「でかいよな」
「なに呑気な事を言ってるんですか!?」

 名無しがクロエに適当な返事をしていると、エミリアがつかつかと名無しの元にやってきた。

「まさか魔物だったなんて! アル、一人で行っていたら大怪我では済みませんでしたよ」
「そうだろうか。まぁあんたが居てくれて助かった」
「……まぁいいでしょう。さぁお肉の分配がはじまりましたからあちらに並んでください」

 熊は毛皮を剥がされ、毒を受けた周囲の肉をえぐり取られて肉にされた。村のおかみさん達はそれぞれボウルを抱えてその肉を受け取る。

「くださーい!」
「おお、クロエ。これはおまけだ。アルは大活躍だったからな」

 ひたすら肉の解体をしていたリックはクロエの差し出したボウルに肉を入れてやり、さらに熊の掌をポンと渡した。

「うわぁ、怖い!」
「珍味だぞ。皮をはいでよーく煮込むと美味い」
「わふっ」

 クロエは巨大な熊の掌に怯え、ラロは獣臭いそのにおいに興奮していた。村人達に肉の分配が終わると、残りの肉は教会の大鍋でぐつぐつと煮られてシチューになった。

「熊は食ったことないな」

 名無しは差し出されたシチューに入った肉にかじり付いた。

「ん、うまい」
「柔らかくて美味しい」
「コクがあって脂ものってるの」
「わふわふ」

 狂乱熊の肉はその巨体から想像もつかないほど柔らかく、ほろほろと崩れるほどだった。
ラロは骨についた肉にかじり付いている。
 村人達はこの日、お腹いっぱいに熊を食べて大満足で家路についた。

「まったく逞しいな」

 名無しはそんな村のみんなの様子を眺めながらそう呟いた。