気まずい夕食を終えて、名無しとヨハンとクロエの三人はベッドに入った。しかし、名無しはぐっすりと眠れるはずもなかった。

「……駄目だ」

 名無しはベッドを出ると、家の外に出た。犬小屋で眠っていたラロが名無しを見つけて尻尾を振って近づいて来る。

「わふっ」
「しっ……」

 名無しはラロを落ち着かせようと牽制して、畑の前にしゃがみ込んだ。夜の冷たい澄んだ空気と月明かりに浮かぶ麦畑を見ていると少し気分が落ち着いてきたような感じがした。

「アル、こんな所でどうしたのですか」
「……エミリア?」

 そんな名無しに声をかけたのはエミリアだった。ランプを片手に道の向こうかやってきた彼女は畑に座り込んでいる名無しを見て驚いた顔をしていた。

「あんたこそこんな時間に何してるんだ。危ないぞ」
「ちょっと散歩を……」

 エミリアはそう答えてしばし押し黙った。そして首を振るとこう言った。

「アル、あなたのことが気になって……様子を見に来たのです」
「それなら……」
「とても平気には見えませんでした。何があったのですか?」
「……」

 エミリアは薄く微笑みながら名無しの隣に座った。ランプと月明かりだけが二人を照らしている。

「……じゃあ、少し二人で晩酌でもしましょう」

 エミリアはマントの中からワインの瓶を取りだした。

「おい……」
「たまになら神様も目を瞑ってくれます。ふふふ」

 ちゃっかりカップまで持って来たエミリアは名無しにカップを持たせるとワインを注いだ。

「……酒は……苦手だ」
「今日はいいんじゃないですか。お酒は大人の特権です。辛い事を忘れる魔法のお水、ってね」

 そう言ってエミリアもカップにワインを注いで飲み干した。繊細な印象の彼女からは意外なほどの飲みっぷりだった。

「……ふん」

 名無しはそのワインをグッと飲み干した。

「こんなものじゃ、何も忘れはしないさ」
「それじゃまだ足りないのかも」

 エミリアは名無しのカップにまたワインを注いだ。

「アル。良かったら話してください。ここには誰もいませんし、そして私は尼僧です。心の内をさらしても誰も聞いていないのと同じです」
「……あんた、なんで……」
「理由が必要ですか? あなたは理由があって私をあの盗賊達から救ってくれたのですか」
「それは……」
「話す事できっと心は軽くなります」

 名無しはしばし考えた。エミリアに気持ちを話せないのは秘密保持の為ではない。名無しは基本的に人を頼ることが苦手だった。でも今回は……名無しは一人で抱えながらそれを隠してクロエやヨハンと接することが苦痛でしかたなかった。

「あのさ」

 ふいに口を開いた名無しを、エミリアはじっと見つめた。無理に次の言葉を促す事もなく名無しを見守っている。

「いつだったか話したろ。俺に生きる術を教えてくれた人は死んだって」
「ええ」
「……俺のせいだった」
「え?」
「俺のせいでそいつは死んだ……らしい」

 名無しはまたぐいとワインを呷った。慣れないアルコールの刺激が喉を通過する。

「アルのせいだとどうして思ったんですか」
「……昔の仲間からそう聞いたんだ。今日……」

 エミリアは黙って空になったカップにまたワインを注いだ。

「俺が居なければ……あのジジイは死なないですんだ。ジジイだけじゃない。仲間達も……クロエの父親も……」
「クロエちゃんの……?」
「ああ。クロエの父親は仕事仲間だったんだ。……まぁほとんど面識はなかったんだが……」

 名無しは唇を噛みしめた。

「エミリア……俺が人殺しなのは分かってるだろ」
「……ええ」
「人殺しが俺の仕事だった。物心ついてから何人殺したか……分からんくらいな。人知れず依頼された奴を葬るのが俺の……そんな奴を表で生かそうとしてジジイは死んだ……」
「アル……」
「馬鹿な奴だ。そんな事できる訳ないのに。影で生きる者は影で生きるしかないって自分で何度も言っていたのに!」

 酒のせいだろうか。それとも寄り添ってくれているエミリアのせいだろうか。名無しは喉元につかえていた言葉を吐き出してしまっていた。

「無理だろ……そんな……」
「無理を通したかったんじゃないんですか。アル、あなたの為に」
「俺の為に……」
「私には詳しい事は分かりません。でも、人は愛するものの為に時に信念を曲げる事もあります」
「愛する……?」

 名無しは思わずエミリアに聞き返した。

「愛してなんて……愛されてなんて……」
「そうじゃなきゃ、アル。あなたはこんなに苦しんだりしないでしょう」
「……頼んでない! そんな俺の為に死ぬなんて」
「死んで……欲しくは無かったのですね、アルはその人に」

 エミリアにそう言われて名無しは驚いて彼女を見た。

「あ……あ……」

 死んで欲しかったかと言われればそんな事はなかった。いつだって首領が名無しにふさわしい仕事を与えて、名無しはそれを見事にこなしてみせる。そんな日々がずっと続くと勝手に名無しは思っていたのだ。そこに愛はあったのか……。一般的な親子とはまったく違うが、それに近いものがそこにはあったのだ。

「……アル」

 エミリアは名無しの頬を拭った。

「……あ?」

 そこで名無しははじめて、自分が涙を流している事に気づいた。

「俺……泣いて……?」
「いいんですよ、泣いても。親しい人が死んだら人は泣くものです」

 そういってエミリアは名無しをそっと抱きしめた。

「うっ……」
「……こうしていれば私からも見えませんから……泣きなさい。そして残されたものは生きていくのです。死んだものの為にも頑張って生き抜くのです」
「くっ……ふっ……」

 名無しの凍っていた涙腺が、エミリアの温かさで溶かされていく。名無しは声もなくはらはらとこぼれる涙の流れるまま……。

「エミリア……」

 自分を抱きしめる女の名を呼んだ。