「パパ! 早くこっちにきてよ!」
「待てって」

 愛しい声が彼を呼び、夏の風が麦を揺らす。鄙びた村に広がる緑の麦の穂達。名無しはすうっとその青臭い香りを吸い込んだ。

「田舎でのんびり暮らしたい……まったくその通りだ」

 名無しは自分の手を握る、その小さな手をきゅっと握り返した。


 ***


その者に名前を付けるものは居なかった――。暗殺、諜報、破壊活動など、あらゆる汚れ仕事を引き受けるその男の通称は『名無し』。暗殺組織の中でも随一の仕事の早さ、正確さを持つその男は今、魔王の黒い皮膚を長剣で刺し貫いていた。
 その瞬間、名無しの心に冷たい炎のような感覚が走る。その熱さだけが名無しに生きている実感を与えてくれる。

「お……の……れ……どこから」
「お前の死角から。基本だ」

 その剣は魔王の心臓を貫き、息の根を止めた。名無しが剣を引き抜くと血が噴水のように噴き出したが、名無しの全身黒い装いを染める事は出来なかった。

「さあ、これを」
「ひっ……」

 名無しは魔王の玉座の前で腰を抜かしている第二王子のアーロイスに血の滴る剣を手渡した。これで第二王子を国王に据える手はずは整う。人々を襲う邪悪な魔物を従える魔王を倒した、となれば第一王子の廃嫡も可能――、そう側近達は考えて居た。

「血、血が……」
「はい、この血が討伐の証です」

 腰を抜かしているアーロイスに無理矢理剣を握らせると、名無しは踵を返した。

「これで任務は完了です」
「ご苦労であった」

 名無しは側近にそう報告するとその場を後にする。強い血の匂いに誘われて、魔物が何匹が現れたが、それを一撃で屠る。
 夜の闇の中、名無しの静かな足音が森の中を駆けていった。


***


 数日後、名無しは王都にたどり着いた。すぐに王都の下町の裏通りにある拠点に向かう。今は月の初めなので二番目の拠点に仲間は居るはずである。

「……」

 そこで名無しはふと足を止めた。なにかがおかしい、と名無しの本能がそう告げる。人の気配は無い。そう、人の気配が無いのだ。名無しは慎重に拠点の扉を開けた。

「これは……」

 そこは一面の血の海だった。ここにいる者は名無しほどではないにしろ、手練れの者達である。それがこうも……。

「お、ま……え……名無しか……」

 誰も生きてる者などいない、と思ったが名無しに語りかける者がいた。名無しはその男をじっと見つめる。組織の下働きをしていた男だった。

「これは……なにがあった」
「クソ王子の仕業だ……、あいつら目的を果たしたら俺達を消しに来やがった……」
「仕事が早いな」
「仮にも王族だ。通信魔法でも使ったんだろ」
「そうか……」

 名無しは男の腹部を見た。深くえぐれ、話しているのが不思議な位である。

「名無し、復讐なんて考えるんじゃないぞ」
「復讐……」
「首領の遺言だ。お前が帰って……来たら……」
「もう喋るな」

 名無しは男の側に跪いた。男は弱々しく首を振ると言葉を続けた。

「なんか喋ってないと……ああ……寒い……。畜生、都で一旗揚げてやろうと思ったらこんな裏通りでおっちぬ羽目になるのか……。ああ、田舎でのんびり暮らしていればよかった」
「田舎で……」
「そう、俺の故郷はハーフェンってなんもない辺境の村なんだけどよ、畑耕していればあとは……ああ……寒い……帰りたい……頼む、名無し。俺をあの村の土に葬ってくれ……」

 そう言って男はこと切れた。

「……組織は、もうないのか」

 とりあえず名無しには一刻も早くやることがある。ここを離れることである。そして――その先の指示が来る事はない。

「田舎でのんびり、か……」

 死んだ名も知らぬ男の最後の言葉が名無しの中に妙に残っていた。もう、名無しを縛るものはない。任務も、組織も。

「土に葬る……」

 名無しはしばし考えて男の指輪を填めた()を切り落とし、懐にしまった。

「ハーフェン……行って見るか」

 王都の裏通りからも見える王城。それを見上げながら、そう名無しは呟くと辺境の村に向かって駆けだした。