「母様――‼︎‼︎」
 

 ――夢の浮橋、と言う言葉がある。
 

「ダイア! そっちの瓦礫持って!」
 

 ――夢の中にある通い路を表す言葉であるが。

 
「持ち上げるぞ! せーのォ!」
 

 ――転じて、儚い夢、儚い事の喩えとなった。

 
「よし、次は向こうの瓦礫をどかそう! せーのッ!」

 
 ――元は夢の中で両思いの男女が出逢う為の路で。

 
「――ッ! 重い‼︎」
 

 ――しかしそれは夢で、その恋は大概成就しないのだと。


「お母様! 大丈夫ですか!」


 ――だからこそ、夢の浮橋は、すぐ破綻する。


「お母様………!」


 ――正に今。



  破綻した。



















 ――夢の浮橋――  ――――



















「――――アイ……ジ…ス――?」
「母様‼︎」

 瓦礫の中から、顔だけ出して。
 今にも消えそうな掠れた声で、ティリムは愛息子の名前を呼ぶ。
 その目は虚ろで、意思が体に追いつかず、そこに小さな蹉跌が生じていた。
 アイジスはティリムの上に乗っている小さな瓦礫を退かして行く。
 だが、直径五十センチメートルもありそうな大きな柱も乗っている為、これ以上は退かせそうに無い。

「お母様……出られそうですか……?」

 一縷の望みに全てを賭けて、そう訊いてみるが。

「……ごめんね…………」

 現実とはいつも無情なものだ。

「――ごめんね…………」

 口を押さえ、必死に、涙を堪えた。
 しかし溢れ出れば、もう止まらない。
 ティリムの瞳から、大粒の涙が頬を伝った。

「何で…………何で‼︎」

 俺はそう叫ぶが、だからと言って何も変わらない。

「……お母様…………?」

 ダイアはこの現実を、動揺のあまり完全に理解出来ていない。

 背後で、爆音が鳴り響いた。
 スレイヴと異形が飛んでいった方向からである。
 木材の割れる音、それらが地面に散らばる音、家が倒壊して行く音。泣き声、叫び声。
 阿鼻叫喚の地獄が、背後では繰り広げられているのだろう。

 しかしそれすらもうどうでもいい。
 守るべき領民なのに。
 コルが、ティリムが大切にしてきた人達なのに、その人たちの死は、今の俺にとってはこの上ない些事の様に感じられた。
 その轟音も聞こえず。
 叫び声も泣き声も、聞こえない。
 どうでも良い。

「どうすれば……どうすれば…………!」

 どうにかしてティリムを助けなければ。
 どうすれば良い? 先ずこの柱を退かさなければ。どうすれば良い? 俺とダイアの力だけでは不可能だ。なら領民を連れてくるか? いや、論外だ。そもそもここにティリムを放置する事は愚行以外の何物でもない。なら()()を使うか。()()でどうにかしてこの柱を持ち上げないと。何を使えば? 木材は沢山あるがどれも倒壊時にバラバラになっているのでこの柱を浮かすほどの強度は持ち合わせていない。ならばどうする? 何で持ち上げる? 辺りを見渡す。しかしその()()に利用できそうなものは無い。考えろ、考えろ。普段どうでも良い事ばかり必死に考えやがって。回れよ、頭。働けよ、脳味噌。ここで働かなくてどうするんだよ! 早く! 早く! どうすれば良い! 思いつけ! どうでも良い事は直ぐに思いつく癖に! クソが! 動けよ! 動けよ! どうせ凡愚なんだから! なら凡愚なりにもっと努めろよ! 今のままじゃ愚物以下だ。ただの愚者だ。身勝手な正義感振り翳して。自力を過信してティリムを守るとか馬鹿みたいな事ほざいて。そんでティリムに庇ってもらった? 巫山戯るなよ! 何が『守る』だよ! 何にも守れてねぇじゃねぇか! 美辞麗句並べてそれが正義だと勝手に思い込んで結局有言不実行で、その上自分のケツ他人(ひと)に拭いて貰って。最高にカッコ悪いな、お前! 死ぬべきはお前だ! ティリムじゃ無い。お前みたいなクズは、死んで仕舞えばいい。そうだ、死んで仕舞えば――



「アイジス」



 はっきりと。さっきと同じ弱々しい声ではあるものの、芯のある声で、俺の名を呼んだ。
 そこには、“ティリム”が居た。
 今までずっと人生を共に過ごし。
 俺が他人であった事を知っても、それでも忌避せずに育ててくれた、掛け替えのない恩人。
 ずっと真摯に向き合ってくれて。
 俺をしっかりと愛すべき子供の様に扱ってくれて。
 何より、優しかった。
 その優しさが、ティリムがティリムである所以なのだ。
 嬉しい。
 心底、その優しさが嬉しかった。
 時折見せてくれる可憐な笑顔が、とても愛おしかった。
 これからも、ずっと、ずっと。
 一緒に生きて行くのだと信じて疑わなかった。
 その点に一切の懐疑心を抱かなかった。

 だからこそ、日常が(いと)も簡単に瓦解して行く現状に、ただ放心するしかできなかった。
 ずっと、ずっと。
 盛者必衰とは、この事なのだろうと。
 有為転変とは、この事なのだろうと。
 勧善懲悪だと? 巫山戯るな。
 それこそただの美辞麗句でしか無い戯言だ。

 不変の幸せが、欲しい。
 瓦解しない、安定した、幸福が。

「……アイジス」

 ティリムは再び俺の名を呼んだ。
 その目は少し燻んでいた。
 視線も中々合わなくなってきた。

「……ごめんね。ずっと」

 それでも、喉の底から、必死に言葉を紡ぎ出した。

「お母さんなのに。ちゃんと、お母さん、出来て無かった、から」

 そんな事ない。
 そう言おうとしたが。

「ごめんね、アイジス」

 憚られた。

「ごめんね――」

 代わりに、別の言葉を発してしまった。

「――俺はアイジスじゃありません」

 言ってはいけない。
 わかっていたのに。

「貴女の愛したアイジスでは、ありません。寧ろ貴女の愛したアイジスを殺した張本人なのですから、俺を憎悪するのが、普通だと思います」

 心の奥底に沈澱していた(わだかま)りが、流れ出す。

「だから、貴女の愛すべき人は、俺では無い」

 一番言ってはいけない事を、言った。

「ダイアや、他の領民を愛し――」
「アイジス!」

 喉を壊す事を一切厭わず。
 ティリムは叫ぶ。

「アイジス……いや。“君”」
「“君”……?」
「そう、“君”」

 “君”とは、誰を指すのか。

「“君”にとって、私は何?」

 “君”とは、まさか中の俺の事か……

「……お母様」
「でしょう? だから“君”も、私にとっては愛すべき息子なの」

 激しい息切れをしながら、語った。

「勿論、“アイジス”について、何も思う所が無い訳じゃ無い」

 寸断されかけている浮橋を。

「でもね」

 必死に繋げ止めんと。

「私の知ってるアイジスは、“君”なのよ」

 結局途絶えたとしても。

「アイジスの中なんて、関係ない。私の知っているアイジスは、“君”なのよ」

 そこに“在った”事を、覚えておきたかった。

 しっかりと、思い出の中で、繋ぎ止めておきたかった。





























「愛しているわ。“君”(アイジス)





























 優しいあの笑顔が、脳裏に反芻された。
 輝かしい、いつも煌めいていた、あの笑顔が。
 月光の様で、陽光の様で。
 はたまた真珠星(スピカ)か、天狼星(シリウス)か。
 ただ爛然と、ただ煌々と。
 ずっと輝煌する、あの笑顔が。

「ダイアもね。大好きよ」

 ダイアが、大粒の涙を溢した。

「お母様…………お母様ぁ…………!」

 ずっと、ティリムはお母様の側で、泣きじゃくっている。

「アイジス。ダイアを、よろしくね」

 また、家が軋んだ。

「――うん。分かりました」

 そう言うと、お母様は安心した様に微笑んだ。

「…………ありがとう」

 嗚呼やはり。
 喪いたく無いよ…………
 ずっと一緒に居たいよ…………

 ――軋む。

 だからこそ。
 ――だからこそ!

「…………ありがとうございました」

 そう言うと、また優しく微笑んだ。
 
 今までずっと。

 ――軋む。

 ここまで共に生きてくれて。

 ――軋む。

 ありがとうございました。


 ――倒れた ―― ――――


 再び、倒れ切れていなかった柱が、幾重にも幾重にも、お母様の所へと倒れ込んだ。
 轟音と大量の砂埃を伴って。
 俺の、家族の、大切な家は、瓦解した。

 ――瓦礫の山からの鮮血が足元に流れてきた。

 守れなかった。
 守れなかった。
 守ってくれた。
 守れなかった。

 だが、お母様の想いは守る事ができる。

「ダイア」

 俺は、目を真っ赤にして涙を流す妹の肩に手を置いた。

「一緒に生きよう」

 最後の家族。
 ただ一人の、愛すべき家族。
 せめて、ダイアだけでも、守れる様に。

 もうこの様な惨劇は、二度と起こさせない。
 少なくとも、ダイアだけは殺させない。

「……うん」

 少し裏返った声で、ダイアは返事をした。
 二人で、この世界を生き残ろう。
 この日俺は、そう、強く心に誓ったのだ。


 ◇


 その時、急に音が止んだ。
 異形の暴れていた音が、急に消え去った。

 ――異形は、殺されたのか。

 こうして、ロメオ領での異形襲来は、静かに幕を閉じたのだ。