それからは、地獄の様な毎日だった。
腕立て腹筋は勿論の事。遂には木刀の素振り等もさせられて、毎日筋肉痛である。
コルは四歳児の限界とやらを弁えていないのか、遠慮なく鍛えさせる。
ダイアに対しては遠慮を知っているのだが、俺に対してはまるで知らない。
全く困った物だが、だからと言って抗える程俺は未だ強く無い。
強くなりたい……とも思うが、そもそも年齢が年齢なのだ。
我慢するしか無いと割り切っている。
ちなみにティリムはと言うと。
その様を側から見てニコニコしているのだ。
俺の中身が四歳で無いと分かった時から、もう俺の事を子供と扱わなくなった。
まぁティリムの前で演技しなくても良くなったと考えれば良いが、もうティリムから子供の様な扱いを受ける事は叶わなくなる。
つまり、毎日のスキンシップも無くなるのだ。
頬へのキスや、ハグなども無くなってしまった。
何とも寂しい。
毎日の楽しみが、消失したのだ。
とても悲しい。
その日は激しい寂寥の念に苛まれ、一人ベッドで泣いたものだ。
あ、それまでは同じベッドで寝ていたが、その日から俺は俺専用の部屋を貰い、そこで一人で過ごす事となったのだ。
なので当然寝る時隣にティリムはおらず。
寂しい。
◆
そうして約一年が経過した。
俺は五歳。
ダイアは四歳である。
ダイアも結構喋れるようになってきた。
今までは「ちゃちつちぇちょ」と発音していたのも、しっかりと「さしすせそ」と発音出来るようになった。
前の発音も可愛い事この上無しであったが、今の発音もそれはそれで可愛い。
まぁダイアは何していても可愛いのだ。
ずっとそのままでいて欲しいものである。
俺はずっと木刀の素振りと模擬刀で刀の稽古であったが。
ダイアはと言うと、木刀で俺の真似をして居た時、何故か突きが上手かったのでコルが試しに細剣のレプリカを持たせてみたら、これが大成功だったのだ。
今や、模擬戦でもしようものなら惨敗してしまうだろう。
それ程までに、ダイアは才能に恵まれていた。
実に羨ましい限りだが、悔しくは無い。
それでもダイアは俺を慕ってくれている。
何ならコルよりも慕ってくれているかもしれない。
だからこそ、悔しさより先に嬉しさがくるのだ。
しかしながら俺もダイアも、真剣を握った事は無い。
コルは握らせようとするが、ティリムが猛反対するおかげで未だ誰も傷つけずに済んでいる。
たった一年しかまだ刀を触っていないのだ。
それに未だ五歳と四歳の幼児なのだ。
そんな子供の真剣を触らせてはいけない。
それは当然であり、これに関してはティリムの方が正しい。
そんなこんなで、刀やレイピアの稽古は、趣味の範疇で行われた。
◇
そしていつもの様に朝起きて食卓のある一階へ降りた時。
「ティリム! 至急来てくれ!」
いつも来ている筈の食卓に居なかったコルが、突然そう叫んだ。
その声に、余裕は無い。
「――アイジス。貴方も来なさい」
「分かりました」
何故かは分からないが、俺も呼ばれたので着いて行く。
そして着いたは書斎。
コルはそこにある机の上に、世界地図を広げて待機していた。
「……どうしたの?」
神妙な面持ちで、ティリムは訊ねた。
「あぁ、アイジスも来たのか…………まぁ良い。アイジスも何れ通る道だろうしな。聞いておくと良い」
コルも、いつもと違い真面目な表情で俺の存在を容認した。
「――――皇国が、宣戦を布告した」
「なっ…………!」
ティリムが目を見開く。
「兵数は単純計算で通常の五倍」
「………………え?」
「その上もう既に進軍を続けていて、交戦の予定地には恐らく一週間後には到着するだろう」
ティリムは突然の出来事に無言を貫く。
何も言葉が出てこないのだ。
「その予定地は……何処なの?」
取り敢えず領主として確認しなければならないのはそこだ。
交戦地を把握し、それを元に避難計画を立てる。
それこそが領民を守る領主としての義務であるのだ。
「予定地は……ここだ」
この世界は、大陸一つで形成されている、と前述した。
そして西半分がガイムーン王国。
東半分がライア=ヴァルヘルム皇国。
ちなみに領主ロメオの支配するこの領地は、特に名前が無く、一般にロメオ領と呼称されている。
そして、皇国との国境付近に位置している土地の一つでもあるのだ。
そして本題だが。
今回の予定地は、ロメオ領より十数キロ北に離れた国境付近。
ここへ戦禍の及ぶ事は無いと見える。
「そう…………」
ティリムも少し胸を撫で下ろした。
流石にこの距離。
戦禍がこちらへと飛び火する事は無いだろう。
「なら問題は……」
「領民に公表するか否か…………」
先ずティリムとコルが考えあぐねるは、それ。
「……え? 公表しないんですか?」
もし為政者が、知っていたのに公表しないなど、考えられない。
信用問題に関わる重要な案件なのだ。
逆に公表しないなど、あるのか?
「――若し公表したとして、それは民にとってストレスとなる」
「……はい」
「民の持つ心の不安とは、時に何を仕出かすかわからないのだ。況してやその不安の起因が、領主のものだったとすれば、その矛先は私に向く」
それは……どうなのだろうか。
もし言わなかったら言わなかったで、それに起因した何か暴動等が起こる気もする。
何か……そうならない確証が、コルにはあるのか…………?
「ですがお父様。若し言わなくて、人伝に宣戦があった事が民の耳に入った時。それこそ――――」
「アイジス」
「…………何でしょうか」
「この王国は無敗なのだ。これまでも、これからも」
「ですが、皇国側は兵力を五倍に増強させたのでしょう? なら今までとは話が――」
「アイジス‼︎」
突然、コルの怒号が飛んだ。
「ならお前は……我等が王への信心を無くせというのか?」
「いえ、そういう訳では――」
「我等が王を信じるのが、末席であれど臣下である我が役目なのだから……それだけは譲れない」
そうだ。コルは昔からそういう人だった。
兎に角王が大好きで。
人一倍の信心を抱いていた。
だからこそ、王国が勝利する事を絶対条件と考えている。
だからこそこの戦争を領民に秘匿するという考えに至るのだ。
――こうなると、俺には何も出来ない。
だからこそ何時もはティリムに頼っていたのだが、そのティリムでさえ王に心酔しているのだ。
なので今俺が何を言おうと、全ては水泡に帰すどころか、見限られてしまうかも知れない。
仕方無い、合わせるしか無いか…………
「――そうですね。要らぬ心配を掛けるのも、民にとっても不快でしか無いでしょうし」
「だろ。だから、万一の事があった時の為の避難経路を考えよう」
そうしてコルとティリムは、地図と睨めっこしながら、詳しい対策を抗議し始めた。
◇
妙な胸騒ぎがする。
何か、拭えない不穏が、心の中で蠢いている。
この心配が杞憂で終われば良いが。
だが現実は、そうはいかない。