夏休みに入る直前、先生は教壇に立つとにこやかな顔をして左手を教室にいる生徒に向けて見せた。

「先生、結婚しました。事後報告になっちゃったけど、これからもよろしくお願いします」

 クラスメイトは驚きつつもみんな祝福の言葉を投げかけていた。いつも通りに夏休みの課題を黒板に書いたり、配ったりを始める。あたしにとっての最悪な先生は、生徒から慕われるくらいに人気のある先生だった。誰も、生徒に手を出して弄んでいただなんて、気が付きもしないし、信じないんだろうな。少し卑屈になった気持ちで廊下側一番前へと視線を送ると、陽太の横顔に驚いた。

 ……なんで?

 顎に置いていた手から顔を少し上げて、あたしはじっと陽太を見つめる。陽太の瞳は、すぐ目の前にいる森谷先生のことを鋭く睨んでいた。
 それは、その目をしなきゃいけないのは、あたしのはずなのに。なんであんたがそれをしてくれるの?
 ほんとうに、変な奴だ。
 あたしはまた、窓の外へと視線を戻した。外は夏日。真上へと上がる太陽の熱が暑すぎる。今日は炭酸が飲みたいな。頭の中でぼんやり考えた。

「水瀬さんは、夏休みなにか予定あるんですか?」

 いつもの屋上で陽太が聞いてくるけれど、あたしは首を傾げただけ。予定なんて、夏休みだろうがなんだろうが、別になにもないけど、そういえば──

「あー、美月が泊まりに来るって言ってたな」

 この前また荷物が届いて、美月と彼氏が作ってくれたおかずがいくつか入っていた。その中にあった手紙に、泊まりに行くからねと書いてあった。なにも語らないあたしの近況が知りたいのかもしれない。

「へぇ、お姉さんが。僕、水瀬さんのお姉さんに会ってみたいな」
「……は?」
「だって、一番水瀬さんのことを分かっている人ってことでしょう? 色々聞いてみたいです」
「……え、色々って? なにを聞く気よ?」
「え──……と、色々?」

 なんっだそれ!
 首を傾げて、あたしの方を見て悩みはじめた陽太に呆れ返りながら、ここへ来る前に買ってきたレモンサイダーを開けた。プシュッと勢いよく炭酸の弾ける音がして、乾いた喉を通るシュワシュワに一気に潤いをもらうと、あたしは満足してぷはぁっと息を吐き出した。

「……っ、はは、水瀬さんって豪快だよね」

 隣で屈託なく笑う陽太に、あたしは自分の行為に恥ずかしくなってそっぽをむいた。

「あ、あれ? ごめんなさい。最近、水瀬さんの色んな表情が見れてなんだか嬉しくて。だからかな、もっと色々知りたくなっているんだと思います。お姉さんに、ぜひ会わせてくださいね」

 微笑んだ陽太は、空高く腕を突き上げて伸びをした。

「そう言えば、さっき、先生のこと睨んでくれて、ありがとう」
「……え?」

 伸ばした腕をそのままに、陽太は顔だけあたしの方を見る。それは、いつもの間抜けな表情。

「は? もしかして、無自覚だったの?」
「……え? 睨んでた? 僕……」

 見る見る青ざめていく表情に、あたしは思わず笑ってしまう。
 なんなんだろう、陽太って。でも、あたしはあの時の陽太の顔を見て、嬉しかった。あたしがあの表情を顔に出さなくても、代わりに陽太がしてくれたおかげで、なんだかあの時、少しだけ気持ちが軽くなった気がしたから。

 あたしが青ざめている陽太に笑いが止まらずにいると、スマホが鳴った。陽太のスマホが鳴るのは、一緒にいて初めてかもしれない。
 いつもはイヤホンをして音楽を聴いているから、着信を聞くことはなかった。
 無言のままスマホを操作し終えた陽太は、立ち上がってズボンの埃を払うとスマホをお尻のポケットにしまった。

「先、行きますね」
「……うん」

 歩き出した陽太は数歩進んで立ち止まってから、振り返って戸惑うようにあたしを見てくる。

「……夏休み中、連絡しても良いですか?」
「うん、良いよ」
「……良かった。じゃあ、また」

 戸惑う表情は変わらなくて、下がった眉のまま笑う陽太が寂しげで少し心配になった。
 急に、どうしたんだろう。後ろ姿が見えなくなるまで、あたしは陽太を見送ってから、空へと視線を上げた。
 入道雲が高く高く湧き上がっていく。雨の気配などまったく無くなった空に、あたしの心まで晴れ渡るような、そんな気がした。

────
 都内から車で少し外れた病院の待合室で、僕は一点を見つめたまま座り込んでいた。

「陽太、大丈夫?」

 そっと、背中に優しく手を添えて母が心配そうに顔を覗き込んでくる。

「……あ、うん。大丈夫」
「お父さんのお迎えもう着くみたいだから、外で待っていましょう」
「……うん」

 定期検診の結果はいつもの通り変わりなしだった。しかし、いつ病状が悪化するかは分からないから、無理だけはしてはいけないと主治医の先生から念を押された。
 夏休み中に手術を受けないかと提案もされた。だけど、ようやく水瀬さんと打ち解けられたばかりだったから、もっと水瀬さんの事を知りたくなっていた。ようやく笑顔を取り戻してきた水瀬さんのそばにいたくて、水瀬さんが寂しくならないように、僕のできる限りのことをしてあげたい。そう強く、望んでしまう。

「……母さん」

 出口へ向かって歩き出す母を、僕は立ち止まって引き止めた。

「夏休みに、やりたいことがあるんだ。だから、手術は夏休みが終わってからにして欲しい。わがままだけど、そうしたいんだ」

 握りしめた両手の拳が震える。
 立ち止まって振り向いた母は、ゆっくり僕の前まで戻ってきて、肩にそっと手を置いた。母よりとっくに越してしまった身長だから、母は覗き込むように僕の俯いた顔を見上げて、にっこりと笑ってくれた。

「陽太の好きなようにしなさい。わがままだなんて思わないで。だって、陽太の人生だもの。やりたいように、好きにして良いに決まってる。ねっ」

 肩から頭へと少し背伸びをして腕を上げると、優しく撫でてくれるその手の温もりに、熱いものが胸の奥、喉元を通って鼻筋にツンと込み上げてくる。

「ただ、無茶だけはしないでほしい。それだけは、お願いしたいかな」
「……うん、約束する」

 真っ直ぐに母の目を見つめて、陽太は頷いて強く誓う。待っていた父の車に乗り込んで、外を眺めた。この、狭くて入り組んだ中で過ごしてきた日常が、もしかしたらもう送れなくなってしまうのかもしれない。
 大きな橋を渡る時に見えた、沈み始めの夕陽がとても綺麗で、久しぶりに見た大きな夕陽をスマホを取り出して写真に納めた。
 きっとこの世界には、まだ僕の見たことのない景色が、たくさんあるんだと思う。
 狭い枠の中での日常が楽しくて、充実していて、毎日毎日、ただ不満もなにも無く過ごせていた。そんな日常が、もしかしたら、もう二度と送れなくなってしまうのかもしれない。そう思うと、怖くて、苦しくて、だけど、どうしようもなくて。周りなんて見えなくなる。
 走行中の車内から窓越しに撮った夕陽は、やっぱり少しブレていて、自分のカメラワークにガッカリしてしまう。だけど、この写真を見た時に水瀬さんがどんな反応をするのか想像がついて、嬉しくもなる。
 『写真撮るの下手だねー』って、きっと笑ってくれるんだろう。僕は迷わずに、ブレた夕陽の写真を水瀬さん宛へと送信した。
 
 青い空も、虹も、夕陽も、星空だって、一緒に共有したい。
 今、水瀬さんは、どんな空を見ているのかな。こんな都会の狭い空じゃ、星なんて見えやしない。だけど、僕は君と出逢えて、仲良くなれて、少しだけどん底から見上げた空に、一点、小さな小さな星を見つけたような、そんな気持ちになっている。
 水瀬さんは、僕の一番星だ。
 決して、届くことはないけれど、いつも見つめていたいし、見ていて欲しい。

 歪んで波打つ視界のまま、また、視線を空へと移した。一瞬のうちに沈んだ夕陽。濃紺色の空に、輝く一番星を見つけて、僕の心は少しだけ、温かくなった。

────

 夕飯の支度をしていたあたしは、スマホが鳴る音が聞こえてテーブルのほうに振り返った。今まで、誰かからのメッセージが嬉しいと思ったことなど一度もなかった。だって、メッセージを送り合える友達なんて誰も居なかったから。だから、今のメッセージが届いた音が、誰からのものなのかなんて、瞬時に分かってしまう。絶対に、陽太からだ。
 そう確信して、あたしは急いで温めた肉じゃがをお皿へと移した。
 ご飯を茶碗によそい、お椀にお湯を注いだ。椅子に座ると、箸を持つよりも先にスマホを手に取って画面を確認する。やっぱり陽太からだ。開いたメッセージには、夕陽の写真。

「……まっ、たブレてんじゃん」

 思わず吹き出してしまう。ほんと写真撮るの下手だなあいつ。
 そう思いながらも、画面の写真をよく見てみる。ガラス越しに映り込んでしまっていた陽太の顔に、一瞬ドキッとした。スマホでほぼ隠れているのだけれど、片方だけ見えている瞳が、苦しくなるくらいに切なく見えた。

「……どこからの夕陽だろう」

 呟いてみたものの、それよりも陽太のことが少し、心配になった。
 陽太の写真は、あたしの知らない場所のような気がした。そもそも、この辺りでこんなに綺麗にはっきりと夕陽を眺められる場所なんて何処にもない……と、思う。
 明らかにこの写真はガラス越しだし、車なのかビルなのか。何処かへ出かけていたその先で撮ったんだろうなと思った。

「……いつか、あたしも見てみたい」

 こんな綺麗な夕陽。
 陽太の下手くそな写真でさえも美しいと感じるその夕陽は、あたしは今まで一度も見たことがない。立ち上がって窓から外を見上げてみても、周りのネオンや街頭で空自体が狭くて見渡すことも出来ない。
 小さくため息を吐いてから、作ってくれた美月に感謝を込めて、あたしは「いただきます」と呟いてからご飯を食べ始めた。