今日はあいにくの雨。
 朝から憂鬱で学校にも行きたくなくて、パジャマのまま付けっ放しのテレビを見ていた。今年の花火大会の話題が上がっていて、あたしは画面をただ、ぼうっと眺めていた。
 花火大会ってことは、もうすぐ夏休みか。頭の片隅でぼんやり思った。学校が休みになるなら、それに越した事はない。
 だけど、あたしは別に学校が嫌いなわけじゃない。友達はいないけれど、騒つく教室や、聞こえてくるクラスメイトの話し声、騒ぎ声も嫌じゃない。外を眺めてなにも考えていないように見えているかもしれないけれど、あたしはそんな空間が、部屋で一人っきりでいる時間よりもずっとずっと心地がいいと思っている。
 誰も話しかけてくれなくてもいい。あたしのことなんていないと思われていてもいい。ただ、そこに居るだけで、あたしはなんとなくそれで良かった。一人だけど、一人じゃないと思えたから。

 夏休みに入ったら、一人の時間が増えるな。ふと、そんなことを思って、あたしは徐ろに置きっぱなしにしてあったスマホを手にして検索をかける。
 短期アルバイトの募集。今までバイトなんてしたこともないし、人と関わることが苦手なあたしに、バイトなんて出来るのだろうか。たくさんの求人が並ぶ画面を流し見したはいいけれど、途端に指の動きが止まった。
 「無理……かな」ため息と一緒に呟いてスマホをテーブルへと置いて、朝ごはんを食べる。
 『ちゃんと食べること』美月の言いつけ通りに、毎日しっかり食事をしている。昼間は食べたり食べなかったりするけれど、陽太がたまにいつものあんぱんを買ってきてくれて、それを食べたりしている。
 あいつ、あんぱん以外に興味ないのか? そう思うくらいに、いつも買ってきてくれるのはあんぱんで、あの日から、陽太は勝手にあたしがこしあん派だと思っている。だって、渡されるのはいつもこしあんだ。別にこしあんが好きでも嫌いでもないけれど、つぶあんが推しなんだったら、あたしにも同じつぶあんを買ってきてくれればいいのに。そもそも、あのパン屋って、どこにあるんだろう。考えながら時計に目を向けると、時刻はとっくに学校の始まる時間を過ぎていた。
 もはや焦ることもせずに、あたしは食べ終えた食器を洗って片付けると、テレビのリモコンをオフにして制服に着替えた。
 準備が整ってスマホを確認すると、メッセージが届いている。

》今日はお休みですか? 体調悪いんですか? 大丈夫ですか? お見舞い行ってもいいですか?

 陽太からのメッセージが届いていた。いつもよりも長く昼休みを過ごしたあの日、あたしは陽太と連絡先を交換した。

『これで、水瀬さんと僕は友達ですね!』

 嬉しそうに喜ぶ陽太に、あたしは不思議と嫌な気はしなかった。〝友達〟そう言われて、心の奥がほんのり、あったかくなった気もした。

「……ですか? ですか? って、ウザ」

 ため息を吐き出しつつも、あたしの口元は自然と緩んでしまう。

》昼には行く

 一言だけ返信して、あたしは外へと出る。さっきまで降っていた雨は止んでいて、水溜まりを避けて歩き出す。
 公園の前、見上げた空は明るい太陽の日差しが数本の線を描いて、その向こう、まだどんよりと暗い雲の上に、ビルに阻まれ半分だけ鮮やかな虹が浮かび上がっていた。
 鮮明に色を映し出している狭い空に、思わず「綺麗」と呟いて、スマホをかざす。濃い七色はあたしのスマホの画面の中にくっきりと映り込んだ。
 写真なんて、いつぶりに撮ったかな。この綺麗な虹を、誰かと共有したい。無意識にあたしは、先ほどやりとりをしていた陽太のメッセージ画面を開いた。と、同時に、そこへ写真が添付されたメッセージが届く。

》水瀬さん! 外見てください! めちゃくちゃきれい!!

 興奮している陽太が目に見えるような言葉が並んでいて、一緒に送られて来たのは、今まさにあたしが見ている虹とおんなじ。だけど、陽太の写真はなんだかピントが合っていなくてブレている気がして惜しい。

》写真撮るの下手だねー

 あたしは思わず笑ってしまいながら一言返して、自分の撮った写真を添付した。

》うわ、僕と水瀬さんおんなじ空見てるってことですよね⁉︎ なんか運命感じるー

「……なんだ、そりゃ」

 外見てみてって言っておいて。運命とかロマンチストか。まぁ、きっと見ていたタイミングはおんなじだったのかもしれないけれど。陽太の言動にあたしはおかしくて一人、笑いを堪える。

》え、やば。水瀬さん写真撮るのめちゃ上手いじゃないですか! うわ、これ待ち受けにしよう

 陽太の返信に嬉しくなって、あたしは軽やかになっていく足取りのまま学校へ向かった。
 そのまま屋上へと上がって、入り口の濡れていないコンクリートに座り込む。
 すっかり晴れ渡った空は青が広く、高く、太陽が天辺まで昇っていた。雨が太陽の熱で蒸発する時に、コンクリートの上から湿度を高く舞い上げる。日陰に入ってその熱から逃れて、あたしは深呼吸をした。アスファルトの独特な匂いが、爽やかな風に中和されて嫌な気分にはならない。むしろ、この匂いは好きだ。

「いた! おはよう、水瀬さん」

 急に現れた陽太に驚きながらも、冷静に言葉を返す。

「……おはようって、もう昼だけど?」
「相変わらず冷めてますねー。今日初めて会ったんだから、おはようでいいんですよ」
「あっそ、じゃあ、おはよう」

 あたしが素直に挨拶を返すと、陽太は目を見開いてから目一杯緩ませて目尻を下げる。ニヤけているその表情に、あたしは呆れた視線を送った。

「嬉しいなぁー、最近水瀬さんが素直でなんだか怖いくらいですよ」

 笑いながら水溜まりを避けて前に行く陽太を目で追う。

「……水瀬さん」

 あたしに背を向けたまま、陽太は小さくあたしの名前を呼ぶ。
 なにも答えずにその背中を見つめていると、振り返った陽太が気まずそうに笑った。

「どうして、僕が水瀬さんのスニーカーを持っていたのか、聞かないんですか?」

 あの日、陽太から受け取った紙袋の中に入っていたスニーカー。あれは、あたしと先生しか知っていてはいけないこと。陽太がなんでそれを持っていたのか、不安にはなった。どうしてなのか、知りたくもあった。だけど、知りたくない気もしていた。

「聞いて欲しいの?」
「え⁉︎ ……う、あ、いや……」

 狼狽え過ぎだろう。目の前であからさまに慌てている陽太を見て、思わず笑いが込み上げてきた。

「なにそれ、狼狽えすぎでしょ。いいよ、別に聞かない。それに、あんたあの時言ってたじゃん。知っていたって」

 それって、あたしと先生の関係に気がついていたってことだと思う。
 あたしに関心のある人間なんて、この世の中にはたった一人、美月だけしかいないんだと思っていた。こうも毎日毎日飽きずにあたしの前に現れてくれる陽太は、その名前の通りに太陽みたいに笑顔が眩しくて元気で、のんびりマイペースで、あたしのペースを乱してくるんだけど、なんだかそれが、最近では心地がいい。

「思ってる通り、見た通りだよ」

 あたしは立ち上がって、陽太の横を通り過ぎて立ち止まると、空を見上げた。

「先生に、もう会えないって言われた時、怒りが真っ先に湧き上がって、スニーカーを投げつけたんだ。一時的な衝動。あたし、知ってたから」
「……え」

 先生の左手薬指。
 なにもないその指に、先生は無意識に触れていることが何度もあった。ただの癖なんだろうなと、そこまでなにも疑わなかったけれど、一度だけ、その指にはまっている指輪を見たことがあった。

 先生と一緒にいることがなによりも心地いいと感じてきていたあたしは、朝、早めに登校して先生に会いに行こうと職員室へ向かった。職員室前のドアの前、入る直前でまだあたしの存在に気が付いていない先生は、なにかを思い出したかのように立ち止まって、左手薬指からそれを外した。そして、手にしていた自分のペンケースへとしまい込む。
 何事もなかったかのように職員室へと入った先生に、あたしは頭の中で、沸々と湧き上がってくる最悪の結末が過ぎった。あれがなにを意味するものなのか、あたしにはすぐに分かった。だけど、それでも、真実を知るまでは、先生の手を離したりは出来なかった。

 あたしの話を聞いてくれて、頷いてくれて、優しくしてくれて、どうしようもなくそれが嬉しくて、気持ちが満たされて幸せで。先生といる時は、孤独だとは思わなかった。

「たとえ、全てが嘘偽りだったとしても、あたしは救われていたのかもしれない。ヤバいかな? あたし。最低で、最悪で、あんなやつ絶対許せないんだけど、なんでだろね、憎めない……」

 思わず、涙腺が熱くなってしまって、あたしは込み上げてくる熱いものを必死で止めようと両手を握りしめて、口を硬く結んだ。

「憎むことなんてしなくて良いと思います。水瀬さんの心が荒むだけだから。あんな奴のために心を汚すなんて、もったいないと思う」

 ゆっくり、陽太はそう言いながらあたしの前まで来ると、「ねっ」と笑顔で笑いかけてくれる。
 けれど、その顔は笑顔なのに怒っているような、泣いているような、そんな表情にも見えてしまって、気がついたらあたしの留めていたはずの涙が、次から次へと溢れ出してきて、止まらなくなった。

 あの日、あたしにスニーカーを届けにきた時にも、陽太はそんな顔をしていた。
 あたしなんかのために、そんな表情をしてくれているのかと思うと、やっぱり陽太がそばにいてくれることが嬉しいと感じる。
 先生との関係を、誰にも言えずに悩んだ時もあった。全部知っていて、だから、そんな表情をしてくれているんだと思ったら、なんだか泣けてきて仕方がない。
 涙を何度も拭いながら、あたしは思い切り泣いた。誰かの前でこうやって泣くことなんて、今までなかった。一人でいる時でさえ、誰かに聞かれていてはいけないと、こんな風には泣けなかった。
 陽太は不思議だ。突然現れて、しつこく自分をアピールしてきて、ただあたしのそばにいて、なにを話すでもなく音楽を聴いていただけなのに、その存在があたしの中でいつの間にか安心できるものになっていた。
 しゃっくりをあげるほどに泣いたあたしは、ぼうっとする頭に酸素を送り込むためにゆっくりと気持ちを落ち着かせて息を吸い込む。
 目の前にいた陽太が動きはじめて、あたしはそれをチラリと視線で追った。

「ここ、乾いてる。座ってこれ、一緒に食べませんか?」

 少し離れたところに座り込むと、手にしていた紙袋からお決まりのあんぱんを取り出して、陽太は手招きする。
 あたしは制服の袖で涙を拭って、顔を半分隠しながら陽太の隣に座り込んだ。

「あんたは、あんぱんしか知らないのか」

 あたしがボソリと言うと、あぐらをかいて座った陽太が落ち込んだような声を出す。

「飽きちゃいました?」

 ため息まで混じるその言葉に、あたしは首を横に振った。

「飽きないよ。でもさ、毎回こしあんばっかじゃなくて、つぶあんも食べさせてよ。陽太はつぶあん推しなんでしょ?」

 両手で顔を半分隠したままあたしは陽太の方を向くと、その顔が驚いたような間抜けな顔になっている。

「……今、陽太って……」
「は? 陽太でしょ? しつこいくらいに何回も名前教えてきたじゃん。いい加減覚えるって」
「……もう一回、呼んでください」
「……は?」

 急に真面目な顔をしたかと思うと、あぐらから正座に座り直す。体ごとあたしの方を向くと、真剣な顔でそう言われる。わくわくと期待の眼差しを向けてくる陽太に、当たり前に出た先ほどの名前が言いづらくなってしまった。

「……つぶあん!」
「え⁉︎」
「今日はあたしがつぶあんね!」
「……僕の名前、つぶあんじゃない……です」

 しゅんと、あからさまに落ち込む陽太は大きなため息を吐き出す。足を崩してまたあぐらをかくと、紙袋からパンを取り出した。

「はい、どうぞ」
「ありがと、陽太」

 差し出されたパンをサッと受け取って、あたしはすぐにそれに食いついた。
 その瞬間、陽太の顔がすごく嬉しそうに、照れくさそうに微笑んでいたのが見えて、あたしまで照れてしまいそうになった。
 どこまでも高い空に、嫌なことは全部吸い取って貰えば良い。
 そうして、今あるこんな毎日を幸せだと思えたなら、それでいい。そう思った。