着信が来ている。またあの番号から。

「……はい」
『あー! 水瀬さん? ごめんなさい。僕迷ってしまって。水瀬さんちってどこですか?』

 しんみりした気持ちも吹き飛んでしまうほどに、スマホ越しから楽観的な声が飛び出した。困っているにしてはどこか楽しそうに聞こえる。

「……ほんとに来たの?」

 そして、あんたは誰なの?

『来ましたよ! だって届けたいものありますから。で、僕今並木公園にいるんですけど、こっから近いですか?』

 あたしは盛大なため息を吐き出した。並木公園はうちのすぐ目の前だ。なんなら、窓を開けたらこちらも見えるんじゃないかと思うほどに近い。思わず、そっと窓を数センチ開けて外を覗き見た。

 公園の入り口付近でスマホを耳に当てている男子学生が一人。買い物でもして来たのか、ビニールの袋と紙袋を片手に重たそうにぶら下げている。
 制服をキッチリと着こなし、黒髪にピンと伸びた背筋。見るからに真面目な雰囲気を醸し出している姿に、やっぱり見覚えなんかないと思った。ただ、同じ学校の制服を着ている、と言うことくらいしか分からない。

「……誰なの? あんた。そんなに大荷物で」
『え⁉︎ だから、僕は水瀬さんの同級生で同じクラスの山中陽太です! ってか、迎え来てください。僕のこと見えてるんですよね?』
「は? 見えてないし」

 何言ってんの?

『今、大荷物でって言いましたよね? それって、これが見えてるってことじゃないんですか?』

 陽太が重そうな袋を持ち上げて見せながら、キョロキョロとしている。
 一瞬、こちらを見た気がしたから、すぐにあたしは窓から離れた。

『じゃあ、ここで来るまで待ってますから』
「は⁉︎ え、ちょっ……」

 返答を待たずに通話は終了してしまった。なんて勝手な奴なの? って言うか、ほんと誰?

 チラッと見えた顔にも、やっぱり見覚えなんかない。教室にいても他人なんて見ることもないし、いつも窓の外ばかり眺めていた。たまに先生と目が合って、自分は特別なんだと勝手に思い込んで、舞い上がっていた日々だったから、先生がいれば他にはなにもいらないって。そう思っていたから……。
 思い出してツンとする鼻を抑えた。また泣きそうになってる。ほんと、もう嫌だ。

「水瀬さーん」

 突然、聞こえてきたあたしの名前を呼ぶ声。さっきスマホ越しに聞こえていた声とほぼ一緒の声が、何故か窓のすぐ外から聞こえてくる。

「みー、なー、せー、さんっ!」

 一応ここはアパートで、空きもないはずで、みんながみんな出かけたり仕事に行っているわけではないはずだ。そんな大きな声で名前を呼んだりしたら迷惑だと思わないのか? 呆れてしまうけれど、出ていかなきゃないじゃないか。
 半分怒りを持って窓から姿を確認しようと覗き見ると、不覚にも見事にあたしの名前を呼ぶ男の子と目が合ってしまった。
 途端に、キラキラと輝く瞳はなにも言わずに走り去っていく。
 あれは、きっとここへ来る。そう思って玄関前に立って身構えていたけれど、一向にチャイムは鳴らない。
 そぉっと玄関のドアを開いて、隙間から外を探ってみる。途端に、声が聞こえてきた。

「うちの子お昼寝したばっかりなんだから! うるさくしないでちょうだいっ! 水瀬さんちは隣!」
「あ! す、すみませんっ! 失礼しました‼︎」
「しーっ!」
「あ、あ……」

 怒られて閉まった玄関のドアの前で慌てふためく姿。一部始終を見ていたあたしに気が付いたそいつと、目が合ってしまった。
 恥ずかしいのか、耳まで真っ赤になっている。

「……間違っちゃった……」

 あはっとごまかすその顔があまりに脳天気で、あたしは呆れるのを通り越して、なにも見なかった事にしようと無言でドアを閉めようとした。

「ちょ! 待っ……」

 滑り込んできた手と足が、ドアが閉まるのを必死に食い止める。苦笑いする顔にあたしはとうとう呆れた。

「ごめん、ちょっとだけ話せない?」

 あたしは話すことなどない。しかし、ここでまた騒いでいたら、お隣に迷惑になってしまう。仕方なく、あたしは玄関へと引き入れると腕を組んで目の前の身覚えのないクラスメイトを睨んだ。

「そ、そんな怖い顔しないでくださいよ」

 怯みながらもあたしの方へと向き直って、手にしていたビニール袋を突き出してくる。

「これ、お見舞いです」
「……あたし別に病気とかじゃないし」

 あからさまに嫌な顔をして見せても、差し出した手を引っ込める気もない彼の様子に、あたしは仕方なしにそれを受け取った。

「重っ」

 ズシっと下がるビニール袋の口から覗くのは、スポーツ飲料のペットボトルが二本。
それにバナナやりんごが見える。そりゃ重いわけだ。あたしは床にそっと置いた。

「あと、これ……」

 もう一つ、手にしていた紙袋を差し出されて、心の中でもうなにも要らないんだけど、と呟きつつ、あたしは渋々受け取る。その紙袋の中身に、驚いた。
 なんで?
 またしても、紙袋の口からチラリと見えている中身。頭の中が、真っ白になる。

「……なんで?」

 それしか出てこない。どうして、これをあんたが持っているの? どうして、あたしにわざわざ返しにきたの?

「ごめん。僕、知っていたんだ」

 は?
 唖然としているあたしの顔の目の前で、泣きそうに辛そうに、どうしてあんたはそんな表情をしているの? 知っているって、何を?

 混乱する頭になにも言えずにいると、「それ、返しにきただけですから」と言って、玄関から出ていく彼の姿がやけにスローモーションに見えた。全身の力が抜けていく様な気がしたて、手にしていた紙袋を落っことした。中から転がり出てきたのは、あの時怒って先生に投げつけた、あたしのスニーカー。

 なんで? 誰なの? 何を知っているの? なんで、これを持っていたの?

 スニーカーと一緒に出てきた一枚の紙に目が止まった。ゆっくりとそれに手を伸ばして拾い上げると、並んだ文字を読む。
【山中陽太です。水瀬さんと同じクラスです。明日、また学校で会いましょう。】
 だから、誰なのよ?
 深いため息を吐き出しながら、あたしは重たいビニール袋を持ち上げて部屋へと向かった。
 あいつ、山中陽太はなんなんだ?
 翌朝、早起きをして身支度を整える。美月の作ってくれた肉じゃがをレンジで温めてご飯を食べると、家を出た。向かうのは、学校。先生とは必然的に会わなくてはならない。何故なら担任だから。本当は会いたくない。顔も見たくない。でも、あたしのあの時の行動で、少しでもあたしのことを考えていてくれていたら……なんて思ったりしている自分が、本当に嫌になる。
 家に居たって頭の中は先生とのことしか考えられなくて、深く落ち込むばかりだ。
 だったら、あのざわざわと騒がしい空間に身を置いていた方が、いくらか気持ちも紛れるのかもしれない。
 いつも通りに誰とも挨拶を交わすことなく、教室の自分の席へと真っ直ぐに向かって席に着いた。すぐに、窓へと視線を移して頬杖をつくあたしの前に、影が出来る。

「おはよう、水瀬さん」

 明るい声の挨拶が聞こえて、あたしは一瞬肩を震わせた。誰かに声をかけられる事なんて、入学初日以来なかったから。思わずその声の主を見上げて、無言のまますぐに窓へと視線を戻した。

「……挨拶くらいは返してくださいよ」

 悲しそうに呟く声に、あたしは小さなため息をついた。

「……はよ」

 ため息と一緒に吐き出した挨拶。窓の景色を捉えていたあたしの瞳に、満面の笑みを浮かべてそいつは飛び込んできた。

「おはようっ! 来てくれて嬉しいです。お昼って弁当? 学食? 良かったら一緒に食べましょう」
「……は?」
「あ、チャイム! じゃ、また後でっ」

 響き渡る授業開始のチャイムに敏感に反応すると、陽太は即座に自分の席へと帰っていった。あたしの席は窓際一番後ろ。あいつの席は、廊下側一番前。見事に対角線上。
 誰も近寄らないあたしの周りと違って、あいつの周りにはすぐに数人の男子や女子が取り囲んでいる。きっと、あたしに話しかけたことでも聞かれているんだろう。目を背けようとした瞬間に、話していた陽太がチラリと一瞬だけこちらを見て目を細めて笑った。
 すぐに視線は周りの友人たちへと戻されて、あたしも窓の方へと向き直った。
 変なやつ。
 晴れ渡る青空を眺めながら、あたしはそう思った。

 昼休み、屋上へ向かっていたあたしは途中の自販機でカフェオレを買った。今日は晴れていて気持ちがいいだろうな。さっき見上げた空が青いのを思い出して、立ち入り禁止の緩々のロープを慣れたように飛び越える。鍵はずっと前に、先生が内緒で貸してくれていた。

────

『屋上って気持ちいいんだよな。なんか、色々嫌なこととか忘れられる。晴れた日なんか特に最高だよ。一回行ってみるか?』

 悩んでいたあたしを誘い出す言葉が向けられた。立ち入り禁止の場所に生徒を連れて行くとか、この先生ヤバいだろ。その時に不信感を持って思った。
 でも、その後に連れて来られた屋上からの広い空に、あたしは感動してしまうんだ。

 いつも見上げていた空は狭くて、近くて、背が大きくなる度に、歳を重ねる度に、余計に窮屈さを感じていた。こんな狭い空じゃ、星なんて一つも見えなくなってしまう。そう思って、悲しくなっていた。
 だけど、屋上のドアを開けてそこに広がった空に、あたしは涙が出るほどに心が揺らいだ。

『気に入ってくれた? 鍵は水瀬に任せるよ。実際屋上はほとんど誰も使わないし、鍵なんてあるのかないのか分からないくらいのもんだし。あ、ただ、飛び降りとか考えるのだけはやめて? 俺、そこは責任とれないから』
『……大丈夫です。あたし、死にたいとは思ったことないので』
『そう。なら良かった』

 父が守ってくれた命だ。そんな簡単に寂しいくらいの気持ちでなんて死ねない。なんなら、あたしは満天の星空を見れる日までは生き続けていたい。
 ここなら、見れるのかな?
 そうは思っても、さすがに夜まで学校には居れなかった。暗くなっても帰らなければ美月が心配するだろうし、あの過保護さだから警察に届けられてもあたしが困る。立ち入り禁止の屋上にいることがバレたら、この緩々のロープも厳重にされてしまう。鍵だって持ち出し禁止になるかもしれない。こんなに最高な場所、誰にも奪われたくない。ここは、あたしの居場所。それがなくなるのは嫌だ。
 気分の乗らない日や嫌なことがあった時は、自分だけの秘密の場所として、あたしはここへ来るようにしていた。
 先生と別れたからって、これまで返す必要はないだろう。もう、あたしに鍵を渡したことなど、忘れてしまっているかもしれないし。
 手のひらの上に乗った銀色の古びた鍵を見つめた。

 コンクリートのだだっ広い屋上の真ん中に立って、あたしは空を見上げた。高く昇った太陽が眩しくて、とても近くに感じる。嫌なことも全て、忘れられそうだ。目をとじて、遠くに聞こえる学生の笑い声や車の走行音に集中する。
 ──と、開かれるはずのないさっきあたしが入ってきたドアの開く音がして、瞬時にそちらを振り返った。

「あ、いたいた」

 片手を軽く上げて、こちらに笑顔を向けてくるのは、昨日から訳のわからない行動をあたしの周りで繰り広げている、クラスメイトの……。

「陽太! 名前覚えてくれました?」

 あたしが怪訝な顔をしていたんだろう。何回自分の名前を言うんだ、と少々呆れてしまう。

「お昼一緒しようって言ったのに。置いてくのヒドくないです?」

 別に誘いにオッケーは出していないし。
 そう思ってなにも答えずに無視していると、目の前にぶら下げられたパンの袋に思わず目が寄る。

「はい、どうぞ」

 有無を言わさずにあたしの手にそれを乗せると、胡座をかいてその場に座ってしまった。
 自分の分のパンの袋を開けて、中からパンを取り出してかぶりつこうとして、動きがピタリと止まる。こちらをチラリと見た後に一度口を閉じると、あたしの持っているパンの袋を凝視し始めた。

「あ‼︎」

 いきなり叫ぶと、自分のパンをまじまじと見て、あたしのパンの袋ももう一度見てくる。もう、その行動の意味が分からなすぎて怖いんだけど。なんなのマジで。

「……水瀬さんって、こしあん派? つぶあん派?」
「……は?」
「こっち、こしあんだった……間違って渡しちゃった。あ、でも、水瀬さんがつぶあん派なら遠慮なくそっちをどうぞ。ここのあんぱんめちゃくちゃうまいから。水瀬さんがどっち派か分かんないからどっちも買ってきたんですよね」

 一旦自分の持っていたあんぱんをビニール袋に戻しながら、一生懸命に説明をされて、あたしはますます混乱する。
 え、それって、今日は初めからあたしとお昼食べようと思っていたってこと? 学校でお昼を誰かと食べるなんて、したことがないし。あたしとお昼を食べようと思ってくれる人がいたことに驚きだよ。だからあたしからしたらさ。

「別に、どっちでもいいけど」
「ほんと? じゃあ、交換していいですか? 僕、断然つぶあん派なんですよね」

 ニコニコとビニール袋に戻したあんぱんの交換を求めてくる。あたしは素直に持っているあんぱんを差し出した。
 なんだ、このやりとり。あたしはため息をついて、陽太から少し離れて座った。黙々と食べ始めた陽太に、あたしは膝を抱えてそこに顔を埋める。カサカサとビニールの擦れる音しかそこに音は無くなった。
 それも聞こえなくなって、あまりに静かになった隣が気になったあたしは、少しだけ顔を上げて陽太の様子を伺った。
 両手を後ろについて、空を首が落っこちてしまうんじゃないかってくらいに見上げている。サラリと長めの前髪が重力に逆らわずに流れ落ちる耳元。そこに、ワイヤレスイヤホン。
 なんだ、あたしと話をする気はないんだ。それで音楽かなにかを聞いているんだろうと思って、あたしは再び目を伏せた。
 しばらくすると、「またね」と言って陽太は屋上から去っていった。

 結局、一緒にあんぱんが食べたかっただけなのか?
 去っていく後ろ姿に呆れて、あたしは横に置いていたあんぱんを手に取った。取り出して、一口食べてみる。

「うん、あんぱんだ」

 ぽつり、思わずこぼしてしまう当たり前な感想に、自分を笑ってしまう。
 だけど、陽太のくれたあんぱんは至って普通なのに、あたしにはなんだか特別な気がした。陽太が買ってきてくれたあんぱんは、自分で買って食べる菓子パンの何十倍も美味しく感じて、思わず涙が込み上げてきた。