並木に囲まれた公園の空は、そびえ立つビルやマンションから少しだけ外れていた。
街灯が少なくて、煌めく街の明かりを和らげていた。唯一見上げた狭い狭い空に、わずかな星の見える場所だった。
そこから夕暮れ時に現れる一番星を見つけるのが、小さな頃のあたしの楽しみだった。
『いつか、満天の星を見に行こうか』
遊んでいたあたしを迎えに来た父が言ってくれた。
『まんてんの、ほし?』
『那月が今見えている星は、この狭い空のほんの一つ。空はもっともっと広くて高くて、星は何千、何億と輝いているんだよ』
『……へぇ』
頷いては見たものの、あたしは父の言うことの意味を理解などしていなかった。だけど、あの時あたしに微笑んでくれた父の笑顔は、今も忘れられない。
そんな話をした日からすぐに、父のお母さんが帰らぬ人となった。
『那月、おばあちゃんが星になった。あそこは星空が綺麗だ。前に言っていた満天の星が見れるかもしれない』
まだ幼かったあたしには、疎遠だった祖母の存在がよく分からなかった。母は祖母のことを良く思っていなかった。だから、葬儀には父と二人で行くことになった。
『おねえちゃんは、いかないの?』
『美月はお母さんを一人には出来ないから残ってくれるって。美月の分もおばあちゃんに那月がさよならを言ってくれるか?』
『うん、いいよ』
元気に頷いて見せたあたしに、父は優しく悲しげに微笑んでくれた。
黒い服を着た人たちは皆悲しそうにしていて、とても静かだった。たくさんの人がいるのに、全然楽しい雰囲気なんてなくて、あたしにはつまらない空間だった。
『帰ろうか、那月』
父はあたしの手を取ると、ずっと悲しそうに眉間に寄せていた皺を緩めて、微笑んでくれた。
しとしと、まるで悲しむかのように空から雨が落ちてくる。傘はまださす程ではない。濃い灰色が厚くなる空を見上げた。
『まんてんのほし、みれる?』
車の後部座席に乗り込んだあたしは、運転席の父を見つめた。フロントガラス越しに空を見上げた父が、ため息と共に困った顔でこちらに振り向いた。無言のままエンジンをかけると、ワイパーが雨粒を拭う。小さな雨粒が何度拭っても落ちてくるのを見て、父は期待の眼差しを向けるあたしと空を交互に見て、もう一度困った顔をして笑った。
『今日は見れないと思う。また今度来よう』
『ヤダ‼︎ みたい‼︎ まんてんのほしみるまで、かえらないっ!』
『那月、でも……』
『おばあちゃんにさようならしたよ! おばあちゃんもほしになったんでしょ? いつもよりもおほしさま、ふえているんでしょ?』
死んじゃうとお空へと昇った魂がお星様になるって、絵本で読んだことがあった。満天の星はすぐそこなんだ。
おばあちゃんとは生まれてから会ったことは一度もなくて、どんな人だったのかなんて分からない。だから、悲しいとか、辛いとか、そんな気持ちはあたしには分からなかった。
ただ、きっとこれからはもうここへ来ることはなくなるんじゃないかと、小さいながらに感じて、このままでは帰りたくはなかった。
唇を噛み締めて泣きそうになる涙腺に、ぎゅっと力を込めた。
『見えなくても、文句言うなよ?』
『いわない』
『じゃあ、せっかくだし行こうか』
あたしの必死の表情に呆れたように、でも、仕方がないなと優しく微笑んでくれた父の顔を、今でも覚えている。
父に満天の星を見たいと駄々をこねたあの日、雨で視界の悪い中、山奥の【星空日本一】と称される場所へ車で目指していた。ワクワクしながら見ていた、厚い雲に反射するわずかな夕陽の朱。空と交わって紫に濃くなっていく様を、ゆっくり見届けていたはずだった。
ふと、道路の脇に農作業を終えて帰路につこうとしていた老人の運転する自転車が見え始めた。雨でバランスを崩したかと思ったら、突然道路へとはみ出してきた。
記憶に、あたしの耳に残っているのは『那月ごめん────』焦るように聞こえた父の悲痛な叫び声。
全ての時が止まっているかのようにゆっくりと感じて、目を閉じても耳鳴りが鳴り止まなくて。
次に目を開いたあたしの瞳が映し出たのは、満天の星の見える空なんかじゃなくて、真っ白な天井だった。
『那月……?』
耳元で呟かれた名前と共に周りが騒がしくなった。バタバタと駆ける足音、響く機械音、たくさんの人の声。朦朧とする頭のすぐ横ですすり泣きが聞こえてきた。
『おばあちゃんがパパを連れて行っちゃったって、ママ、泣き崩れて、おかしくなっちゃった』
『……み……つ、き……』
顔が見えていなくても、その声が美月のものだと分かった。
『那月が目を覚ましてくれて良かった……あたし、一人ぼっちになるところだったんだよ。本当に、本当に……良かった』
あたしの手を強く握ったまま、美月は泣き続けた。どうしてそんなに泣いているのか、まだ五歳だったあたしには、よく分からなかった。
運悪く等間隔で並ぶ電信柱に車で激突した父は、即死だったらしい。自転車の老人は転んだ時に負った傷はあるものの、軽傷。後部座席にいたあたしは運良く命が助かり、怪我もかすり傷程度だったけれど、衝撃の強さで目覚めるまでに数ヶ月かかっていた。
これを全て理解出来るような歳になった時、あたしは自分がしてしまった事の重大さに気がついてしまった。そこから、ずっと何年も苦しんでいた。
自分がわがままを言ったから、父は亡くなった。
あの時父はまた今度来ようと言ったのに。ただ、父の言う〝満天の星〟を見たかっただけだったのに。