状況は劣悪だった。
 不意に足下に視線を落とせば、雨に濡れたアスファルトは黒々しく光り輝いていて、雨粒がいくつも跳ね返ってはあたしの足を濡らしてくる。手放して来た靴は片方しか履いていなくて、もう片方の足は黒のハイソックスが水溜まりの雨を吸い込んで、重さを増す。
 冷たさなんて、アスファルトに落ちる小石やゴミを踏む痛さなんて、微塵も感じない。ただ、心だけが、酷く息苦しく締め付けられるように、痛い。
 傘もささずに立ち尽くす。濡れる髪も顔も制服も、全部何もかもが無になる。いや、そうじゃない。無になりたい。そう思っていただけだった。
 ようやく踏み出した足に、小石を踏む痛さを感じて、雨を受けた頬を冷たい雫と一緒に、生ぬるい涙が伝った。

「え⁉︎ どうしたの、那月(なつき)。傘、なかったの? 電話くれたら迎えに行ったのに」

 家に着いて玄関に入ると、ずぶ濡れのあたしを見て、姉の美月(みつき)は驚いて怒りながらも、優しく微笑んだ。
 バスルームへ入ってから戻ってきた美月に、ふわふわのお気に入りの柔軟剤の香りのする柔らかなタオルで頭から包まれた。

「寒くない? お風呂入っちゃいな。風邪ひいちゃう」

 足下にもタオルを敷いてくれて、その上に濡れた靴下を脱いで足を落とした。白いタオルに、汚れと一緒に滲む赤。そう言えば、途中からズキズキと足に痛みを感じていた。無言のままのあたしに、また着替えを手に戻ってきてくれた美月は驚いている。

「足、怪我しているんじゃない? 大丈夫? お風呂でよく洗って。上がったら消毒してあげるから」

 美月の心配する言葉に素直になれずに、あたしは急いで足を拭いた。

「大丈夫。お風呂行く」

 美月の手から着替えを取ると、爪先立ちしながらゆっくりバスルームへと移動した。
 湯気で曇っている室内に入り、体を洗ってから湯船に浸かった。怪我をした足はタオルに血が滲むほどだったのに、洗ってみればヒリヒリとはするけれど、すでに血も止まっていて大したことはなかった。水面に広がる波紋をぼんやりと眺めていると、ようやく気持ちが落ち着いてきた様な気がした。
 片方しか履いてこなかったスニーカー。もう片方はきっと、あの人が持っている。買ったばかりのお気に入りだったのに。だけど、もう取りになんて行けない。ゆらゆらと漂う蒸気の中に、大きなため息が零れた。

 お風呂から上がると、救急セットと温かいココアがテーブルの上に用意されていた。あたしはまだ半乾きの髪をタオルで押さえながら、ゆっくりとソファーに座った。

「ほら、足見せてごらん」

 あたしの前にしゃがみ込んだ美月は、優しくあたしの足を手に乗せた。

「もう血は止まってるっぽいし、大丈夫だよ」
「本当? 痛くないの?」
「うん、平気」

 あたしの言葉に、美月は足の裏をジッと見つめてから頷いて微笑んだ。

「ほんとだ、下手になにか貼ったりするよりも、そのままの方が良いかもね。良かった」

 安心したように救急セットの蓋を閉めると、美月はゆっくりと立ち上がった。

「……あの、ありがと」

 本当は、美月にはいつも感謝でいっぱいなんだ。それなのに、いざ本人を目の前にすると、なかなか素直になれずにいた。

「ふふ、どういたしまして」

 嬉しそうに微笑む美月は、きっとあたしの性格なんてお見通しなんだろう。
 ちゃんと伝わったかどうかは分からないけれど、今少しだけ素直になれたのは〝大好きな〟美月が結婚秒読みの彼氏と明日にはここから出て行く予定だからだと思う。絶対に本人には言えないけれど。

 自分の部屋に入ったあたしはベッドに倒れ込んで天井を見つめた。今思えば、あんなに慌てることなんてなかった。靴を片方だけ履いて土砂降りの雨の中、ずぶ濡れで歩く女子高校生なんて、周りから見れば恐怖でしかない。日が落ちた後で顔が見えなかったのが、せめてもの救いだった。
 目をギュッと閉じて、思い出す。さっき聞いた言葉、伝えられたこと、知りたくなかった事実を。

****

『那月、今日は用事があるから先に帰っていていいよ』
『え、そうなの? そっか……』

 放課後の音楽室。薄暗くなった窓の外を眺めていた。開いた窓から湿った風が吹き込むのを肌に感じて、あたしは風になびく長い髪を抑えながら窓を閉めた。

『雨、降りそうだなぁ』

 ポツリと呟いたあたしに、カーテンを閉めながら先生が近付く。外から見えない様にあたしと一緒に巻きつくと、そっと顎に手を添えて自分の方へと向けた。そして、ゆっくりとキスを落としてくれる。いつものこと。だけど、離れた後の先生の顔が酷く眉が下がっていて、影を作る。

『……先生?』
『……ごめん、那月。もう那月とはここで会えない』
『え? なに、それ』
『来月結婚する。もう決まったことなんだ。だから、もう那月とは会えない。那月もここへは来ないでほしい』
『……どういうこと? 意味が分かんない』

 謝るみたいに頭を下げてくる先生の姿。降りた腕の先、握られた左手に目が止まる。薬指に光るもの。

『那月のこと、可哀想だと思って側にいただけなんだ。キミはただの生徒。それなのに、手を出してしまったこと、本当に申し訳ないと思っている』

 ひたすらに頭を下げて謝る先生。目の前の光景に身が震えた。
 息をすることだけで精一杯の開いた口から、吐き出したい言葉が上手く出てこない。震えが止まらない。自分の感情が、よく分からない。やっと出せたのは、本当は聞きたくない言葉。

『……遊ばれていたって、こと?』

先生の頭が上下に動く。

『好きだって……言ってくれたよね?』

今度は首が左右に振られる。

『一緒にいる時はそうだった。だけど、本気じゃなかった』
『……約束は?』
『え』
『ずっと一緒にいようって、約束……したじゃん』
『……ごめん……』

 潤んだ瞳を伏せる先生の姿に、分からなかったあたしの感情がはっきりと色濃くなる。悲しみよりも怒りが勝った。
 泣きたいのはこっちだ! あんたがあたしに同情して優しくするから! 自分の不甲斐なさに涙しているならやめてほしい。そんな劣等感、吐き気がする。

『ふざけんなっ!!』

 思わず履いていた上靴のスニーカーを片方脱いで、あたしはそれを先生に向かって思い切り数回叩きつけた後に、投げ捨てた。そして、そのまま学校から飛び出して来たんだ。

****

 両親が亡くなってから、姉の美月とアパートで二人暮らしをしていた。
 高校に上がったあたしが、最近は頼れる存在の先生と出会って、恋をして、順調に幸せオーラを纏っていたから、先生に恋しているだなんて、話したことも相談したこともなかったけれど、きっと美月はそんなあたしを見て、安心して出て行くことを決めたんだと思う。
 なのに、昨日の事で荷物をまとめた美月が、心配そうに「大丈夫?」と何度も聞いてくるから、どうしたって、あたしは明るく振る舞うことしか出来なかった。

 美月の幸せまで奪えない。今までたくさん我慢をしてきたはずだ。だったら、美月にはあたしのことなんて気にしないでたくさん幸せになってほしい。
 本当は、まだ一緒にいてほしかった。でも、それは、言えない。幸せいっぱいの笑顔で去って行く美月を、引き戻す権利はあたしにはない。
 美月は予定通りに彼氏と家を出て行った。ひとりぼっちになったアパートはやけに広々して見えた。

「この部屋、こんな広かったんだ……」

 呟いたら、ポロリと涙が頬を伝った。みんな失った。一人になった。わずかに輝いていた星は、消えてしまった。もう、星なんてひとつもない。真っ暗闇な夜空に、願いをかけられる星なんてどこにもなくなった。