陽太の体調は落ち着いていて、無理のない様に休憩をとりながらあたし達は父の生まれ故郷の衣星区を目指した。
サチコさんが運転する車の助手席に碧斗くんが乗り、あたしと陽太は後部座席に乗っている。後ろから、陽太のお父さんとお母さんの乗った車が付いてくる。
高速道路に乗り、しばらく走った。
周りの景色から徐々にビルや高い建物がなくなっていく。ふと、隣の陽太に目を向けると、あたしに気が付いたその瞳が優しく微笑んだ。
膝の上に置かれた手が小さく震えているのに気が付いて、そっと陽太の手を握る。
震えが止まって、陽太の温かい手があたしの手をしっかりと握りしめてくれた。
大丈夫。言わなくても伝わってくる。陽太の瞳に安心して、そのまま車の中では手を繋いで離さずにいた。
パーキングエリアに立ち寄って、休憩とお昼ご飯をとることにした。
「陽太大丈夫? 辛くない?」
車から降りてから、車中の陽太の状態が分からないからか、ユミさんが陽太のそばでずっと心配そうな顔で聞いている。
「そんなに心配なら、次から陽太くんそっちに乗せる?」
ざるそばを啜りながら、サチコさんがそう言うとすぐに陽太が首を振った。
「いえ、僕はサチコさんの車で行きます」
「そう? あたしは嬉しいけど、ユミちゃんいいの?」
一瞬、チラリとあたしのことを見たユミさんが困ったように笑うから、あたしまで困ってしまう。
一番陽太のそばにいたいのは、お母さんであるユミさんなのかもしれない。
それはそうだ。自分の子供が辛かったり苦しんでいるのを放っとけはしないだろうから。陽太は、向こうの車に乗るべきなのかもしれない。
「僕は、水瀬さんと一緒がいい。大丈夫だよ。そばにいてくれて嬉しいよ。少しでも辛くなったら、すぐに母さんに言うから。だから安心して?」
「……陽太、うん。分かったわ」
「ありがとう」
穏やかに話す二人のことを眺めていると、突然目の前に何かが現れた。
「これ見て! あんぱんストラップ」
碧斗くんが満面の笑みでぶら下げているのは、スクイーズの大きめのあんぱん。かじりかけで中からあんこがはみ出ているデザイン。
「……これ、こしあんじゃん」
不服そうに陽太は目を細める。
「え?! まじ? うわ、本当だ! 陽太よく気がついたね」
ケラケラと笑う碧斗くんにため息をついて、陽太が立ち上がった。
「どこにあったの?」
「ほら、入り口んとこのクレーンゲーム」
碧斗くんの指さす方には〝パンのスクイーズ〟と看板のあるクレーンゲームの機械が見えた。
「行ってくる」
「はは、いってら。水瀬ちゃんも行ってみよ。陽太ね、俺の次にあれ取るの上手いから」
へぇ。半信半疑で残りの蕎麦を啜って食べ終わると、食器を片付けて碧斗くんの背中を追う。
「うわ……陽太、それ取りすぎじゃない?」
驚く碧斗くんの影から陽太の姿を見ると、この短時間で左手にすでに四つ景品を手にしている。それでも陽太の目はまだ次の獲物を狙って真剣に機械の中を見つめている。
「よっし」
小さく聞こえた言葉にアームが掴んでいるのは、一目瞭然な粒々感を見事に再現したつぶあんパン。景品取り出し口へと落下した瞬間に、碧斗くんが歓喜の雄叫びを上げた。
「スッゲー!! さすが陽太! まじ天才!」
周りにいた人たちがそんな碧斗くんを振り返って見ているけれど、本人は全然気にしていないようで、むしろ陽太の方が恥ずかしそうに顔を赤くして俯いてしまっている。
「碧斗、声でかいから」
「え? そう? うわ、まじつぶあんじゃん、ウケんね。じゃあこしあんは水瀬ちゃんにあげるよ。残りは俺がもらおう」
「どうすんの?」
「友達に配る」
「あー、そう。いいよ、はい」
すんなりクロワッサンとサンドイッチとフランスパンとイチゴのドーナツは碧斗くんの手に渡って、あたしの手元にこしあんのあんぱんが手渡された。
フニっとなんとも言えない感触に、三人で笑った。
目的地近くまでたどり着いた頃には夕陽が傾いていた。車窓から真正面にオレンジ色の夕陽が大きく眩しく見える。置いていた陽太の手に添えていた手を、より強く握りしめた。
「……綺麗……」
「……うん」
空が広い。どこまでも限りなく続いているんじゃないかと思うほどに遠く、家が所々に小さく見える。夕陽は思ったよりも沈むのが早い。
途中、山々に遮られて何度も見えなくなった陽の光を懸命に追い続けた。
目を瞑るとそこに夕陽の残像が映る。
煌々と燃える様な夕陽はやがてゆっくりと空に溶けていった。
オレンジと赤が濃紺と黒に混じる。
その狭間に、キラリと一際輝く星が見えた。
「あ! 一番星みーっけ!」
同じ様に窓から空を見上げていた碧斗くんが元気よく言った。
「ほら、見える?」
「……うん」
高速道路を降りて国道を走る。目的地はすでに近い。刻々と夜の闇が夕焼け空を飲み込んでいくのを眺めていると、後ろにぼんやりと月が現れた。
「……水瀬さん……」
振り返ってその空を見つめていると、陽太も気が付いてあたしの名前を呼んだ。
「……月って、あんなに輝くんだ……」
「……うん、なんか、不思議……あたし達を追いかけて来ているみたい」
車は走っていて、月は動かないはずなのに、月との距離は離れることはない。
いつまでも追いかけてくる。
「みなせちゃん、ここで合ってる?」
運転席のサチコさんがハザードを付けて車を一旦止めた。
あたりは外灯はあるものの、すっかり闇に包まれてしまっていた。すぐ道路横にある古びた看板に、〝星空日本一〟と書かれているのを見つけた。しかし、それが現在のことではない様に山から伸びている蔦が絡みつき、看板の色も剥げて文字も飛び飛びになっていた。
「なーんだか、熊でも出そうね」
「あ、さっき熊の書いた標識あったよ?」
「マジ? 大丈夫かなぁ?」
サチコさんが不安そうにしていると、スマホが鳴ってそれに応える。
「あ、ユミちゃん? うん、そうそう」
サチコさんがユミさんと話しているのを聞きながら、あたしは看板をもう一度見上げた。
──満点の星空が見える場所にはな、遊具なんかは何もないけれど、ここよりももっともっと広い公園があるんだ
「……お父さん……」
──いつか一緒に行きたいな
空を見ればもうすでにいつも見ている空とは全く違う、澄んだ濃い青が見える。
「あ……」
ポケットに入れていたスマホが鳴った。見れば、そこには知らない番号。
「……どうしたの?」
「あ、なんか、知らない番号から……」
鳴り止まないコールに、恐る恐る出て見る。
「……はい」
──あ! 那月ちゃん? 衣星のおばちゃんだけど……って言っても、分かんないよな
スマホ越しに聞こえて来たのは、少し訛りのある女の人の声。
──あのね、那月ちゃんのお父さんの姉のミホって言うんだけどね、さっき、美月ちゃんから連絡が来て、那月ちゃんがこっちに向かってるって聞いたから。どこまで来たの?
お父さんの、お姉さん?
「……星空、日本一って看板がある場所です」
──ああ、そこね。分かった。今から行くから、一人なの?
「……ううん。何人かいますけど」
──今晩泊まるとことかあるの?
「あ、はい。一応近くに旅館は取ってもらってます」
──そう。とりあえず、今から行くからね。待ってて。
通話が終了して、あたしは思わずため息をついた。
「……誰だった?」
心配そうに陽太が覗き込んでくるから、笑顔を向ける。
「お父さんのお姉さんだって。あたしからみたら、おばさん? でも会ったこともないし、全然分からないんだけど……今から来てくれるって」
「え?! こっちに知り合いいたの?」
サチコさんがいつの間にかユミさんとの通話を終えてこちらを振り返った。
「いえ、あたしは知らないんですが……」
美月が連絡を取ってくれたんだ。
「まぁ、でもよかった。土地勘ないと怖くて進めないからさ。地元の人が来てくれるなら安心ね」
「……すみません。無茶なこと頼んでしまって」
「いや、謝ることないわよ。あたし、もうすでに感動してるし」
「……え?」
にっこり笑うサチコさんはシートベルトを外してあたしの方を向く。
「こんな素敵な風景今まで見たことなかったから。店閉めて旦那も連れてくればよかったって思ってるくらい」
「まじ、俺も感動してる! 東京じゃこんなん見れねーよな。熊も出て来たらめっちゃレアじゃない?」
「いや、碧斗怖いこと言わないで。それは会わない方がいいやつ」
「えー、どうせなら会っていきたいじゃん!」
車の中が一気に賑やかになる。
サチコさんと碧斗くんは本当に仲がいい。
あたしのお母さんも、こんな風に元気でなんでも言い合える人だったら良かったのに。
「あれ、ちょ、待って!? あれ!」
急に青ざめてフロントガラスの向こうをじっと見つめている碧斗くんに、一斉にその方向を向いた。
のっそりと動く黒い影。月明かりだけではその全貌が見えずに、一同息を呑んで先程の賑やかさが嘘の様に車の中は静まり返った。
徐々に縮まるその距離に恐怖を感じていると、私側の窓ガラスがノックされた。
「那月ちゃんか?」
その問いかけに、熊ではなく人だと分かって車内は安堵の空気に包まれた。
そして、サチコさんはようやく水瀬は苗字であって、名前ではないことを、ここで知ることになった。
あたしのお父さんは背は高かったけど、大柄ではなくヒョロリとしていたから、まさかお父さんのお姉さんが熊みたいな……いや、ふくよかな方だとは思いもしなかった。
ミホさんに誘導してもらって、あたし達は曲がりくねった山道を上り、拓けた場所まで辿り着いていた。
車から降りるとそこは、別世界にでもきてしまった様な感覚に陥るほどに無数の星が光り輝いている。
「うっはぁ──、何これ、やば……」
空を見上げて碧斗くんはそれ以上何も言わなくなった。
「……これが、星空日本一の空……」
「昔の話ね、今はぜーんっぜんっ。周りに建物は建ってしまったし、外灯も増えて昔より星も見えなくなったわ」
「え?! これで?! まじか! 全然十分なんだけどっ。てか、ちょっと向こうとかも見てきません? 俺一人怖いから大人たち着いてきて!」
ミホさんの言葉に、碧斗くんが騒いでいたかと思ったら、みんなを引き連れて向こうへ行ってしまった。
何してんだ? と呆れてしまう。
横にいた陽太へ視線を移すと、頭が落っこちてしまうんじゃないかと思うほどに空を見上げている。
「凄いね」
「……うん」
小さく答える陽太と同じ様に、あたしも空を見上げる。今にも降り注いできそうな星屑。あたしの見ていた、たった一つの星がどこかも分からないくらいに広くて、全身が空に浮いているんじゃないかと思うほどに近い。
手を伸ばしたら、掴めるんじゃないかと。
「……あ」
無意識に伸ばした手の横から、陽太の手も伸びていた。
陽太も気が付いて、あたしの方に視線をくれた。
「掴めそう……ですよね」
「うん」
そっと手のひらで、空を掬うように拳に握りしめた。掴めるはずのない星を、掴んだ気になって、あたしは陽太に微笑んだ。
その手を、陽太が優しく包み込んでくれる。
「……水瀬さん、僕、本当はまだまだ生きていたいです。死にたくなんてないです」
「うん」
「手術を受けること、本当に怖い……怖くてたまらない……僕は、これは僕自身だけの問題で、一人で抱えて悩まなければいけないんだと、勝手に思っていました。だけど、みんながこうして僕の為に励ましてくれていることを、ようやく分かった……」
真っ直ぐに、陽太があたしを見つめる。
あたしも真っ直ぐに、陽太のことを見つめた。
「僕、手術頑張ります。正直、怖さはまだあるけど、水瀬さんがいてくれるのなら、頑張れる気がする。だから、これからもずっと、僕のそばに居てくれませんか?」
繋がれた手が僅かに震えているのが伝わってくる。その手をギュッと握りしめて、あたしは頷いた。
「絶対にそばにいるから。だから、安心して。ね」
あたしの言葉に、ぷつりと緊張の糸が切れた様に、陽太の表情が歪んでいく。
怖かったんだよね、一人で抱えていた時間。
不安だったんだよね、どうなるかもわからない未来。
大丈夫。
陽太にはたくさんの人たちが付いている。支えている。
あたしはその中の一人になりたい。
「それって、なんだが愛の告白みたいだな?」
ニヤニヤと何も知らないミホさんが空気も読まずにあたしと陽太のすぐ目の前に来ていた。
「ここまでわざわざプロポーズしにきたのか? えらいロマンチックなことしにきたごど! 兄貴ーー! 那月ちゃんプロポーズされてっけど! あたしここに立ち合わせてもらえて幸せだ」
ハイテンションに空へ手を振り始めたミホさんに、あたしと陽太は呆然としてしまった。
「あ! 見で見で! 流れ星!」
ミホさんが空高く腕を上げると、一点を指差してる。全員の視線はそちらへと向いた。
漆黒の夜空、瞬く星屑の中を長く尾を引く星が流れていく。ずいぶん長い間見ていた様な気がする。スッと消えたあとに、頭の中は真っ白になった。
「願い事言えたが? あたしはちゃんと願ったからな、二人が幸せになりますようにって」
「え?! あの短時間で? マジかよ、俺頭真っ白なってなんも出てこなかったー!」
碧斗くんがまたしても騒ぎ出す。
ミホさんが高笑いをしてこちらに来ると、あたしに微笑んでくれた。
「本当だよ。那月ちゃんは幸せになりなさい。兄貴の分もしっかりと」
繋いだあたしと陽太の手に、ミホさんの大きくて分厚い手のひらが温かく包み込む。
その目には、涙が光っていた。
あの後、ミホさんは陽太の両親と話をしていた。そんな姿を見て思った。
たぶん、おばあちゃんのお葬式の時に一度会っていたのかもしれない。だけど、あたしの記憶にはミホさんの姿は残っていなかった。ただ、突然やってきた兄の娘を自分の子供の様に接してくれている気がして、その優しさに胸の奥がギュッとなった。
「明日また見送るからね」と、ミホさんは車で自宅へ帰っていき、あたし達は見飽きることのない星空を惜しみながら旅館へと向かった。
夕飯は途中で買ったコンビニ弁当だったけれど、それもみんなで食べると特別に美味しく感じた。
温泉に浸かって部屋に戻ると、一気に力が抜けてしまう。なんだか、長い長い旅をしてきた様にゆっくりと流れる時間が、このままいつまでも続けばいいのにと、思ってしまう。
疲れたんだろう。手前の布団にはすでに陽太が気持ち良さげに眠っていた。大部屋に皆んなで並んで寝た。場所が変わって眠れないんじゃないかと不安だったけれど、あたしもずっと気を張っていたからか案外知らないうちに眠ってしまっていた。
翌朝旅館から出ると、ミホさんが見送りに来てくれていて、「いつでもまたおいで、今度はうちに泊まっていいからね」と言ってくれた。
もうすぐ夏休みも終わる。
陽太の手術は、きっと上手くいく。流れ星にそう願いをかければ良かったと、少しだけ後悔したけれど、陽太と見れた満天の星は、今は違うと言われていても、あたしの中では星空日本一だった。
きっと、陽太の中でもそうだったと思う。
帰りは行きよりも早く感じる。三角屋根のSunnydayに帰って来たあたしは、車中ずっと繋いでいた陽太の手を離したくないと思った。
だけど、陽太が頑張れる様にあたしが強くならなくちゃと、そっと両手で包み込み、祈りを込めた。
陽太の両親、サチコさんと旦那さん、そして碧斗くんにもお礼を言って、家へと帰った。