数日後、美月から連絡があって、あたしは着せ替え人形になっていた。
「あー、いいね! これがいいかも」
満面の笑みで鏡の前にあたしを立たせたのは純くん。
「美月ー、やっぱこれにしよ?」
「きゃーっ、可愛い那月!」
「でしょ? これをつけて、と。完璧っ」
軽くアップに結ばれた髪に、星型の簪を刺してくれた純くんが微笑んで頷く。
「当日はプロがメイクもしてくれるからね。陽太くんとは何時に待ち合わせてるの?」
「……え、あ、いや。まだ全然」
「え⁉︎ 花火大会明日だよ?」
美月が泊まりにきた日、陽太と花火大会に行くことを盛り上がるおしゃべりの中で話していた。純くんの家は美容室を営んでいるらしく、浴衣もお姉さんのが何着かあるし、貸してあげるから試着会をしようという流れになった。張り切って現れた二人の手によって、あたしは今の現状に至る。陽太のしたいことの中にあった、花火大会に行くの項目を思い出す。
だけど、あの日から、陽太からの連絡が来ていない。こちらから花火大会のことを誘うのも、なんだか気が引けてなにも出来ずにいた。
なにも伝えないままあたしのこの姿を見たら、陽太は驚くかな。そう思うと、ワクワクしてしまう。そんな気持ちのままスマホを持つと、思い切って陽太へメッセージを送った。
》花火大会、どうする?
まさか、浴衣の準備も万端で、行く気満々に待っています、とはとても言えなくて、あたしは陽太の反応を探るようにそれだけメッセージを送った。
すぐに既読がついた。だけど、画面を見つめていてもいつまで経っても返信は来なかった。
美月と純くんとファミレスでお昼を食べて、明日の予定が分かったら連絡するようにと言われて別れると、帰り道、あたしはふと駅へと向かって歩き出した。
夏休みに入ってしまったから、陽太に連れて行ってもらったあの日以来、あんぱんは食べていない。なんとなく、陽太のあんぱんが恋しくなってしまって、【Sunny day】へと向かった。
たぶん、お昼をとっくに過ぎた今の時間に行っても、あんぱんはもう売りきれだろうな。そんなことが頭によぎったけれど、乗り込んだ電車のひんやりとした冷房を体に受けて、空いていた席に座ると窓の外を眺めた。
陽太の家ってどこなんだろう。
朝早くあんぱんを買ってから学校に来ることと、パン屋の息子と仲が良いことから、あの駅がきっと陽太の家の最寄駅なんだろうとは思うけれど。
目的の駅について電車を降りると、ブワッと生温い空気が纏わりついて、せっかく電車内で冷えていた体が一気に熱をまとう。額に汗がじんわり滲み出した。
耳を塞ぎたくなるくらいに騒がしい蝉の声。
今日はこの夏一番の暑さかもしれない。ジリジリと焼けつく日差しを体で感じながら、なるべく日陰を探して歩みを進めた。
赤いとんがり屋根が見えてきて、あたしの足取りが早くなる。だけど。
《定休日》
ガラス扉に掛けられたプレートの文字に、愕然としてしまった。
あー、休みとか聞いてなかったし。まじか。
側から見たら、きっと絵に描いたようにガッカリとあたしは肩を落とした。あんぱんが特別食べたかったわけではないけれど、この暑さの中、久しぶりにたどり着いた場所で、拒絶されたようなこの現状に、なんだか脱力してしまった。
「帰ろう」
力なく朦朧とする思考の中で踵を返すと、颯爽とあたしの横を走り抜けて行く男の子。真っ直ぐに《定休日》と書かれた扉を躊躇なく開けて、パン屋の中へと入って行った。
あれ? パン屋さん、休みだけど?
不思議に思ってじっとドアを見てしまう。すると、先ほど入って行った男の子が、斜め掛けにして持っていたスポーツバックがなくなった代わりに、手にスマホを握りしめて慌てる様子でまたあたしの横を走って行った。
男の子の通った瞬間に巻き起こった風が涼しくて、でも、すぐに照り返す太陽の熱にジリジリと肌を焼かれる感覚になり、あたしは小さくため息をついた。
「……帰ろ」
蝉が忙しなく鳴く。見上げた先の木の幹に、止まって羽を震わせる蝉を見つけた。そんなに鳴いているのは、きっと残りの命が短いのを、知っているからだろう。生い茂る緑の葉の隙間から、細かい空色が見えた。だけど、どうもがいたって、決められた寿命を伸ばすことなど叶わないし、きっと、蝉は鳴き続けることしか出来ないんだろうな。
蝉の気持ちは、あたしには分からない。だけど、それって切ないし、儚いなって思う。あたしは、蝉に生まれなくてよかったな。流れる汗を拭って、あたしは家へと向かった。
家に帰ってから早めの夕食の支度をしていると、スマホが震えた。
》明日、六時半。並木公園で待ち合わせ。
陽太からのメッセージが届いた。だけど、なんだか開いた文面が陽太らしくない、というか。なんだか業務連絡みたいな、そんな感じで違和感を持った。だけど、そんなの別に気にしない。
明日陽太に会ったら言ってやれば良いんだ。「なんだよ、あの業務連絡みたいなメッセージは」って。思わずニヤけてしまう口元をスマホで隠して、あたしは眠りについた。
****
落ちる毎日
もう這い上がることなど
望んでは行けない
誰も期待していない
誰も応えない
目の前の暗闇が
僕を飲み込む
いつからか忘れてる感情
湧き上がることのない閑情
それならいっそ
あの果てまで
たった一人きりで
ワイヤレスイヤホンを耳にして布団に入っていた僕は、真っ白な天井を見つめていた。開けることの出来ない窓からは、青い空が見えた。きっと、外は暑いんだと思うけれど、空調の管理されたこの場所にいると、その感覚が分からなくなる。
自分の体に繋がれた管と、一定間隔で落ちる液体をじっと眺めて、そんなことを考えていると、カラカラと静かにドアの開く音が聞こえた。
カーテンが開いて、勢いよく現れたのは、僕の親友。
「おい、大丈夫か?」
息が上がっているのと、額から流れて髪の毛が濡れるほどに吹き出している汗に、先ほどわからなかった外の暑さが、どのくらいのものなのかを教えてくれているように感じた。
「走っちゃダメでしょ、碧斗」
「は⁉︎ 走ってねぇし。病院の中は早足で歩いてきた!」
「碧斗の早足って、走るに近そうだけどな」
「バカ言ってんじゃねーよ。お前が倒れたって聞いたら急いでくんだろーが!」
わ、怒らせてしまった。いくら個室とはいえ、外に響いてしまうんじゃないかと思うくらいに大きな声で怒鳴る碧斗に、よほど心配をかけてしまったんだと思うと、胸が苦しくなった。
「ごめん……」
「で? どうなんだよ。大丈夫なのか?」
僕の腕と繋がれた点滴を眺めながら、視線はまだ戸惑うように揺れ動いて、僕の顔色を伺っている。
「この暑さにやられただけ。ただの貧血だって」
「……ならいーけどよ。陽太は普段から血がたりねぇからな。俺のをわけてやりてぇよ」
窓際に寄りかかる碧斗は、日焼けした肌に程よい筋肉で健康的だ。
「いーよ、碧斗みたいになったら大変だし」
「あ? なんだよそれ。そだ、これ持ってきた」
手にはスマホしか持っていないように見えたが、ズボンのポケットから碧斗はなにやら取り出して、僕の目の前に広げた。
【花火大会観覧券】と、あきらかに碧斗の字で書かれたノートの切れ端のような紙切れに、思わず吹き出してしまった。
「要らねーの?」
「っはは、いや、要る要る」
碧斗に頼んでいたのは、花火大会の日に水瀬さんとあの東屋で花火を見たいということ。体調が最近良くなくて、もしも帰りに水瀬さんのことを送っていけなくなってしまったら、碧斗に頼みたいということ。だから、水瀬さんには碧斗に会ってもらう必要があった。こんな図々しい頼み事を出来るのは、親友の碧斗しかいない。
病気のことを話した時も、泣いてくれた。僕の方が呆れて慰めてしまうくらいに。
碧斗を信頼しているから、水瀬さんのことも、全部話した。
「あそこはな、俺と陽太だけの秘密基地なんだからな。イチャつくための場所じゃねえってことだけは覚えておけよ」
いや、たぶん、水瀬さんは僕に対してそんな感情は持っていないだろうから。
「……分かってるよ」
「なんだよ、今の間は」
「いや、イチャついたりは、しないけど……明日で終わりにしようと、思ってる」
「……え? なにを?」
「水瀬さんと、会うこと」
ずっと考えていた。僕のしたいことを全部しようと言ってくれた瞬間から、僕は水瀬さんのことが好きなんだと自分の気持ちに気がついてしまった。そばにいてくれることが、そばに入れることがなによりも嬉しくて。水瀬さんを希望にしてきてしまった。そんな希望が大きくなりすぎて、手の届くところにまで来てしまっていて。もっと、そばにいたい。一緒に笑い合いたい。毎日、毎日、考えてしまうんだ、水瀬さんに会いたいと。
だけど、倒れてしまって気が付いた。
僕にその希望を掴むことは出来ないと。ずっと、遠いままの存在で良かったんだ。関わりあうことなんてしなくて良かったんだ。本当なら、出逢わなきゃよかったのに。苦しくて、辛くて、だから、もう会うことをやめようって。決心、したはずだったんだけど、な。
「……っ……うっ……」
溢れてくる涙が止められなくて、横向きになって碧斗に背を向けた。
「……それで、良いのかよ」
戸惑うように聞こえてきた碧斗の言葉に、頷いた。
「これ、水瀬さんにメッセージ……明日、六時半に並木公園でって、送ってくれないか」
涙で滲んだ画面に、なんとか水瀬さん宛のメッセージを開くと、震える手で碧斗にスマホを差し出した。
「……分かった」
思ったよりも自分が動けないことを知った。
写真が上手く撮れないのは、スマホさえも重たく感じてしまう筋力のなさ。少し歩くだけで汗ばむ僕が、炎天下の下を歩いたお墓参りはだいぶ体にこたえたらしい。たったわずかな時間だったのに。
嬉しくて、楽しくて、美味しくて、たくさんいただいたご飯も、結局は家に帰ってから全部吐いて戻してしまった。
あの日から、ずっとベッドの上だ。不甲斐ない自分が情けなくて、悔しくて、弱くて。気持ちが落ち込むばかりでなにもする気力も湧かずに、ついに貧血になってしまった。意識を失って倒れて、気が付いたら、病院の白い空間の中にいた。
だから、花火大会が最後。もう、それも、行けるのかも分からない。
「やりたいこと、全部は無理だったな……」
碧斗が帰って静まり返った病室がとても寂しく感じて、湧き上がってくる涙を抑えることもできずに泣いた。残り少ない自分の体の限界を感じる。そう思うと、もう、泣くことしか出来ない。
どう足掻いたって、僕には時間がない。
だったら、今は泣くだけ泣いて、明日水瀬さんにお別れを言おう。水瀬さんにまで、心配をかけたくないから。