先生と別れて、美月が離れて行って、その代わりに名前も知らなかったクラスメイトの陽太が現れた。
先生の存在で孤独だった寂しさを埋めていたあたしは、今度は陽太の優しさに手を伸ばそうとしているのかもしれない。
だけど、それって、良いことなのかな? 陽太は、どうしてあたしなんかに優しくしてくれるんだろう。頭の中でいろんな考えが駆け巡ってしまうと、伸ばしかけた手をぎゅっと握りしめて、陽太の後ろをついて行く。
Sunny dayのすぐ横の坂道を登り始めた陽太は、少し歩いてからすぐに立ち止まった。
気温は徐々に上がっては来ているが、今日はどちらかと言うとまだ涼しい方だ。なのに、陽太を見ると首元と額に大きな汗の粒が光っている。水でも浴びたように髪の毛が濡れていた。呼吸も乱れているように感じる。
「陽太、大丈夫?」
思わず肩に手を添えて陽太の顔を覗き見ると、苦しそうに眉を下げて笑った。
「……ごめん……少しずつ、進んでも良いですか?」
普通の坂より急なのは確かだけれど、普段運動なんか全くしないあたしでも、息が上がることも、汗を大量にかくこともなくここまで来れた。
もしかしたら、陽太は体調が良く無いのに今日来てくれたんじゃないか。そう思って心配になる。
「……今日どっか具合悪いの? 大丈夫?」
「大丈夫……昨日、お風呂上がりに髪乾かさないで計画立ててたから、風邪ひいちゃったかな。夏に風邪引くとかないですよね。バカですよね」
辛そうに笑う陽太は泣きそうに顔を歪める。あたしは見兼ねて陽太に手を貸すと、そばにあった段差にゆっくりと座らせた。
「これ、汗ふいて」
ハンカチを取り出して陽太へ渡すと、笑顔で受け取って静かに汗を拭う。呼吸が少しずつ穏やかになって、俯いていた陽太は先ほどまで真っ青だった顔色が、いくらか血色を取り戻したように戻ってきた。
普段から、男の子にしては綺麗な血色の薄い透き通る肌をしているとは感じていたけれど、こうも真っ青になられると心配になってしまう。だけど、陽太はいつもの笑顔で笑うから、どうしたらいいのか分からなくなる。
「落ち着きました、ハンカチ、洗って返しますね」
ふらつくことなくゆっくり立ち上がると、歩き出す陽太の背中にあたしはまた付いていく。そこからほんの少しだけ登った先に、鮮やかな緑と広い空が目に飛び込んできた。そして、奥には東屋が見えた。
「ここ、さっき話してた碧斗と僕の秘密基地」
「……秘密基地?」
街が正面にわずかだけど一望できて、高くそびえるビルも周りには無くて、空が少しだけ遠く感じる。こんな素敵な場所に連れてきてもらえるなんて、考えもしなかった。
「知ってますか? 星ってね、今見えているだけじゃ無いんですよ。目に見えていないだけで、本当は無限に、どこまでも遠くにたくさんあるんです」
急に、星空が見えるわけでもないのに、陽太が空を仰いでそんなことを言い始めるから、あたしはどうしたって思い出してしまう。
あの並木公園から見上げていた狭い狭い空。そして、あたしを迎えに来てくれていた父の言葉。どうしたって、思い出してしまう。
「だからね、見れるのかはわからないんだけど、ここから水瀬さんといつか一緒に満天の星を見れたらなって……えっ……」
見上げていた空から陽太が振り返ると、慌ててあたしに駆け寄ってくる。
そんな陽太の行動がまだよくわからなくて、でも、目の前に立った陽太の表情が悲しげで、苦しそうで、頬を伝った涙がぽたりと落ちる感覚に、自分が泣いていることに気が付いた。溢れてくる涙が止まらなくて、あの日のことを思い出す。無理なわがままを言ったあの日、父を亡くしたこと。
満天の星なんて、見えなくてもよかった。父がいてくれればそれでよかった。それなのに、あたしのわがままで、父は死んだ。思い出したくないのに、頭の中に鮮明に残る父の叫びが、昨日のことのように聞こえてくる気がして、頭を抱えた。
『ごめん、那月──』
謝らないで。謝らなきゃいけないのは、あたしの方なんだよ。だからお願い、謝ったりしないで、お父さん……
ギュッと目を瞑って俯いたあたしの肩に、優しく温かいものがそっと触れる。
あたしは涙を拭って陽太を見上げると、力無く笑った。陽太が置いてくれた手の温もりに、安心する。陽太もせつなそうな瞳で微笑んでくれた。
東屋に二人で座ると、そこからわずかに見える街を眺めたまましばらく無言でいた。ようやく口を開いたのは陽太だった。戸惑うように不安げな声で聞いてくる。
「水瀬さんは、なにを抱えているんですか? どうして、辛そうに泣くんですか?」
そんなの聞かれたって、どうしようもない。誰かに、あたしのこの悲しみをどうにかしてもらおうなんて、考えたこともない。どうにかなんて出来るわけがないんだし。あたしだって、どうしたら良いのかなんて、分からない。
質問に答えずに黙り込んでいると、陽太が「はい」とワイヤレスイヤホンの片方を差し出してくる。
「これ、聞いてみてください」
「……ドン底までってやつ?」
受け取ったあたしの返しに、陽太は目を見開いたかと思うと、楽しそうに笑う。
「いや、けっこう良い歌なんですよ? 最後まで聞いてみてください。ちゃんと、希望の《《き》》くらいは持てるような気がしますから」
疑うような視線を向けたまま、あたしはイヤホンを耳にする。それを確認すると、陽太はスマホを操作して、聞こえてきたのはピアノの旋律。この前とはまた違った、静かな始まり。だけど、弾むようなそのリズムが耳に心地良い。低音だけど、優しい男の人の声で聞こえてくる歌詞は、すんなりあたしの心へ入り込んできた。
きっと出逢えたことに意味はなくて、
あなたと重ねていく日々の中に、意味があるんだと僕は思う。
だから泣かないで
今を精一杯、生き続ければ良い
後悔なんて、してからでもまだ間に合う
通り過ぎた日々を嘆くよりも
これから始まる明日へ
未来はどうにでも変えられる
動き出せ、僕がそれを証明してみせる
「良い歌ですよね」
微笑む陽太に、あたしは何度も頷いた。その反動で、また涙がポロポロと溢れていく。だけど、この涙は決して悲しみなんかじゃなくて、あたしの冷えた心が温まって溶けたものが流れ出してきたような、そんな感覚で、気持ちがとても軽くなった気がした。
「あたしのお父さんがね、あたしが五歳の時に事故で亡くなったの」
「……あ」
「大丈夫。陽太に聞いてもらえるなら、聞いてほしい。ずっと、あたしが抱えてきたこと。本当は、誰かに話したかったんだと思う。だけど、誰にも言えなくて、まぁ、言える様な友達もいなかったんだけどね」
あたしが、はははと情けなく笑うと、陽太はしっかりとあたしの方を向いた。
「僕で良いなら聞きます。話してほしい。水瀬さんの悲しみ。僕に話して少しでも軽くなるのなら、吐き出してほしい。適当になんてしない、ちゃんと、全部受け止めるから」
真剣な眼差しの陽太に、「大袈裟だよ」と笑ってしまったけど、その言葉がなにより嬉しかった。
本当に、ただ聞いてくれるだけで良かった。それだけで、あたしの気持ちは半分も、それ以上にも、軽くなった気がした。
「美月とね、お墓参りに行くんだ。陽太のことも会わせたいな、お父さんに」
今までのことを真剣に聞いてくれた陽太に、あたしは思わずそんなことを言ってしまっていて、自分の言葉にハッとした。目の前の陽太の表情もいつもの驚いた間抜け顔で、やっぱり笑ってしまう。
「ほ、ほら! 初めてできた友達だし! お父さんいつもひとりぼっちでいるあたしのこと、けっこう心配してたりしたし、そんなあたしでも、友達出来たよーって報告に……」
あたしが慌てて言い訳を並べていると、陽太の顔が照れたように赤みを帯びていく。白い肌が照れると分かりやすすぎて、こちらまで恥ずかしくなってしまう。
「……うん。僕も水瀬さんのお父さんに挨拶に行きたいです」
「……挨拶……」
「え⁉︎ あ、いや、挨拶って、変な意味じゃなくって、それも、友達ですってことを……」
慌て出す陽太を鎮める様に、あたしは頷いた。
「分かってるよ。本当、ありがとう。あたし陽太に出逢えて毎日楽しい。最高の友達だよ」
「……うん……僕の方こそ、ありがとう。僕にとっても、水瀬さんは最高の友達」
何故か陽太まで涙を浮かべるから、二人で誰もいないのをいい事に、思いっきり笑いながら泣いた。スマホをスピーカーに切り替えて、さっきの歌を音量マックスで流して、二人で歌った。
「あ、そう言えば、ここ秘密基地だって言ってたよね?」
「あ、はい」
「いいの? そんな大事な場所に。その碧斗って人に怒られないの?」
「碧斗には、水瀬さんを連れてくることは了承済みです」
「え?」
「水瀬さんと会わせろと条件付きですけど。だから、ニ番は絶対に実行しなきゃいけなくなりましたよ?」
「はぁ⁉︎ なにそれっ! そんなこと知らないし、知っていたらあたしここに来てないし!」
「だから、なにも言わずに連れてきたんですよ」
イタズラに微笑む陽太に、あたしはなにも言えなくなった。
それって、元からニ番をあたしが断ると知っていたみたいに言っている。完全に確信犯じゃないか。誰だよ碧斗って。知らないやつと会わなきゃないとか、気が重い以外のなんでもない。
「碧斗は良いやつだから。大丈夫ですよ」
優しく微笑まれると、そうなのかと妙に納得してしまうのは、すっかりあたしが陽太のことを信用しているからなんだと思った。陽太との距離が縮んだ気がして、嬉しかった。