今日も眠れずに朝が来た。
八重畳の上で寝返りを打ち、庭に背を向ける。部屋の四隅の暗い影に消えてしまいたいくらい、まだ心の染みは消えない。
好きな人を失って、私の時間はすっかり止まってしまった。悲しみの雪が心に降り積もり、しんしんと泣いているのだ。春に目覚めた庭の若葉も、柔らかい日差しも、私の心を溶かすことはできない。世界が黒く沈んだように、歌を詠もうにも何も見えないのだ。
「千早様、お食事を」
お膳を運んできた侍女に、私は「要らない」とポツリと呟く。
「食べないとお体壊しますよ⋯?」
「いいわ。私なんてどうなっても」
「千早様⋯辛いのは解りますが、体に毒でございます」
「もう、ほっておいて⋯」
私が心底、好いた男だ。簡単では無い。
だって急に失ってしまったのだ。政略結婚だった前の夫には一度たりとも抱かなかった好きという感情を、簡単に忘れられるわけが無い。
「千早様、ここに置いておきますね」
侍女はお膳を置くと小さく会釈をし、下がって行った。
粥が湯気を立てている。
のそりと体を起こし、お膳の前に座ってはみるがやはり食欲は湧かない。あれ程までに気丈に振舞ったメンタルも、今や見る影もない。
ぼんやりと見つめる塀の上の草も青々としてきた。誰も目に留めないだろうその雑草にさえも、私のようなしみじみとした哀れみを感じる。また、男を喪った夏の季節がやってくる。サッと人影が視界の隅を掠め、垣根越しに私はその影の主を見つけた。どこかで見覚えのある顔だ。私はハッと思い出した。男に仕えていた小舎人童の少年に違いない。その少年は幼い顔の口をギュッと結び、こちらの様子を伺っていた。懐かしい顔を見て、久しぶりに好きな男を近くに感じた私は侍女を呼びつけ「ねぇ、あの者を連れてきて」と、伝えた。
「お久しぶりです。千早様、お元気でしたか?」
少年は丁寧に頭を下げた。
「久しぶりね。ずっと会っていなかったから⋯背も伸びたし少し大人びたんじゃない?あなたに会うと皇子様を思い出せるわ。ちょうど誰かと話したかったの」
「千早様の事はずっと気がかりでした。あれほど皇子様を慕われていたので⋯僕が用事もないのに伺うのはあまりにも馴れ馴れしいのではと不安で⋯」
「いいのよ。君は皇子様をよく知る貴重な存在よ?また気軽に訪ねていらっしゃいね。今は何をしているの?行く宛はあるの?」
「実は皇子様の弟君の帥様に使えております」
「そう⋯安心したわ。よかったわね。でも弟君はプライドが高くて近寄り難い印象じゃなかった?あなたも大変ね⋯」
「傍から見たらそうでしょうね。でも中身はすごく優しい御方なんですよ。今日だって、千早様の所に伺うと言ったらこれをと⋯」
少年は橘の花を差し出すと「帥様からです。どうご覧になりますか?」と私に問う。
橘の花の香りが鼻を掠め、私の頭をスっと抜けた。
あぁ、あの人の香りだ。
白く小さい花弁が風に揺れる度、また香る。
甘酸っぱい記憶。
「五月待つ花橘の香をかげば昔の人の袖の香ぞする⋯」
あの古歌を思い出し、私は思わず口ずさんだ。
不意に頬を涙が濡らす。「あなたも恋しく思いませんか?」と弟君に問われているようで、深く頷いてしまう。そうだ、私は今もずっと、あの男を想っている。
「千早様⋯?」
少年は不安な目で、涙する私を見つめていた。
「ごめんね⋯皇子様を思い出しちゃって。やっぱり⋯ずっと忘れられないのね。今もあの庭で笑っていらっしゃる様に思えて」
「皇子様も、この花を大変好いておられましたね⋯」
「うん。知ってる⋯よく知ってる」
優しい顔で少年は微笑んだ。
「千早様、僕はそろそろあちらに戻ります。帥の宮様には何とお伝えしましょうか?」
「そうね⋯少しだけ待ってもらえる?素敵な贈り物だから、私もちゃんとお返しするわ」
傍に橘の花を置いて筆を取る。
─薫る香によそふるよりはほととぎす聞かばや同じ声やしたると
花橘の香はあの人を思い出させる。目を閉じて皇子様を想うけれども、やっぱり寂しさは拭えない。せめて皇子様の声だけでも聞けたら⋯もう一度、あのお声で私の名前を呼んでもらえたら。そんな甲斐のない望みを抱いてしまう。弟君⋯あなたのお声は皇子様とそっくりなのかな?亡き皇子様への追慕の心を誘うような、まわりくどい近づき方よりも⋯私は直接、貴方様と話したいでず⋯。
「これを帥の宮様に⋯」
私はしたためた手紙を少年に渡した。
「ちゃんとお渡し致します」
深深と頭を下げた少年に、私は「また来てね」と見送った。
僕は橘の花の枝を手に持ち、物思いにふけっている。
このすっぽりと空いた心の侘しさは、兄を亡くした悲しみによる寂しさなのか?ただ、人恋しい寂しさなのか?解らない。だから僕は試すことにした。兄が慕った人がどんな人なのか、この目で見たくなったのだ。落ち着かない様子でぼんやりと庭を見ては、遣いの帰りを待つ。門の傍に少年の姿を見つけるとすぐに呼び止めた。
「どうだった?千早殿は喜んでくれたかな」
「おふたりはどこか似てますね⋯」
少年は小声でそう呟く。
「ん?何か言ったか?それで千早殿は何と?」
急かすように尋ねる僕に、少年は嬉しそうに手紙を差し出した。
「こちらを⋯」
待ちわびたように手紙を開くと、頬が紅く熱を帯びた。
「手紙には何と?」
少年は覗き込むように僕に尋ねる。
僕は手紙を胸にしまうように押し付けて隠した。
「やっぱり兄上が心底惚れた人だ。すぐに千早殿へ返事を書く。すまないが、また届けてくれるか?」
僕はさっと筆を取り、つらつらと走らせた。
─同じ枝に鳴きつつをりしほととぎす声は変はらぬものと知らずや
千早殿は兄の声が聞きたいと言っている。きっと、おなじ母から生まれ一緒に育った僕の声も亡き兄と変わりないはず。貴女は僕の声もまだ知らないだろう。訪ねて、貴女に僕の声を聞かせたい。
「これを千早殿に⋯くれぐれもこんな事をしてるなんて誰にも言うなよ?僕が千早殿に気があると誤解されては困るから」
少年は手紙を渡され、首を横に傾げた。
「好きでは無いのなら、なぜ手紙を?」
「ほら、兄の事を⋯兄をよく知る数少ない人だからだ」
「本当にそれだけですか?」
「あぁ⋯ほら早く行け。すぐに届けろ?いいな?」
少年はくるりと背を向け「すぐに噂になるだろうな⋯」と呟いた。
少年の背中を見送りながら、僕は急に恥ずかしくなった。
可愛らしい文字と、詠まれた歌に。そしてまだ見ぬ貴女に心がときめいてしまったのだ。君はどんな声をしているのだろうか。君はどんな姿をしているのだろうか。
侍女に急かされて顔を出すとまた少年が立っている。
「こんなに早く訪ねて来るなんて⋯どうしたの?」
「千早様、帥の宮様からのお手紙をお届けに参りました」
「えっ⋯こんなに早く?」
「なにやら嬉しかったみたいで、すぐに返事を書いておられました」
したためられた歌は、私の心を優しく擽った。あぁ、やはりあの人の弟君だ。どこか似ている。でも⋯。
「ありがとう。確かに受けとったわ。今回はお返事はご遠慮するわ。そう何度も送るのは失礼だから」
「いいのですか?」
「うん。いいの。少しでも皇子様を近くに感じれただけで私は幸せよ。お礼だけ伝えてくれる?」
去りゆく少年の背中を見送りながら、私は切なくなった。
優しい文字と、優しい歌に。そしてまだ見ぬ貴方様に、ときめきそうになった私は後ろめたさを感じたの。皇子様を忘れてしまいそうで怖くなった。でも⋯貴方様はどんな声をしているのかな。
僕は焦っていた。感じたことの無い焦燥感と、返事のない僅か数日にどこか虫の居所が悪い。
「なぜ返事がないんだ⋯?」
何か気を悪くすることを言ってしまったのか?いやそんなはずは無い。僕は無意識に筆を手に取り、墨をすった。
─うち出ででもありにしものをなかなかに苦しきまでも嘆く今日かな
はっきり言葉にして思いを打ち明けずとも良かったものを、どうして打ち明けてしまったのだろう。あなたにそうしたことで、かえって苦しいほどに思い嘆いている今日の僕だ。
出来上がった和歌を見つめ、僕は溜息をつく。この行動そのものが恋なのだ。衝動的に、恥ずかしげもなく手紙を贈ってしまう程に、まだ見ぬ貴女に焦がれている。この手紙に返事がなければ最後にしよう。彼女には、どれだけの男が言い寄っているかわからない。僕もきっと、その一人に過ぎないのだから。僕は少年を呼びつけると手紙を託した。
予想に反して、返事の手紙はすぐに来た。
─今日のまの心にかへて思ひやれながめつつのみ過ぐす心を
貴方は苦しいまでに嘆いているとおっしゃいますが、僅か今日一日の嘆きと比べて想像してみて。私が皇子様を亡くして以来ずっと物思いに沈んだままで過ごしている苦しい心を。出掛けることさえも億劫なのに。
「なんで世の中は彼女を軽々しい女だと言うのか⋯これ程までに一途に兄を想っているのに」
僕は、また溜息を吐き出した。
八重畳の上で寝返りを打ち、庭に背を向ける。部屋の四隅の暗い影に消えてしまいたいくらい、まだ心の染みは消えない。
好きな人を失って、私の時間はすっかり止まってしまった。悲しみの雪が心に降り積もり、しんしんと泣いているのだ。春に目覚めた庭の若葉も、柔らかい日差しも、私の心を溶かすことはできない。世界が黒く沈んだように、歌を詠もうにも何も見えないのだ。
「千早様、お食事を」
お膳を運んできた侍女に、私は「要らない」とポツリと呟く。
「食べないとお体壊しますよ⋯?」
「いいわ。私なんてどうなっても」
「千早様⋯辛いのは解りますが、体に毒でございます」
「もう、ほっておいて⋯」
私が心底、好いた男だ。簡単では無い。
だって急に失ってしまったのだ。政略結婚だった前の夫には一度たりとも抱かなかった好きという感情を、簡単に忘れられるわけが無い。
「千早様、ここに置いておきますね」
侍女はお膳を置くと小さく会釈をし、下がって行った。
粥が湯気を立てている。
のそりと体を起こし、お膳の前に座ってはみるがやはり食欲は湧かない。あれ程までに気丈に振舞ったメンタルも、今や見る影もない。
ぼんやりと見つめる塀の上の草も青々としてきた。誰も目に留めないだろうその雑草にさえも、私のようなしみじみとした哀れみを感じる。また、男を喪った夏の季節がやってくる。サッと人影が視界の隅を掠め、垣根越しに私はその影の主を見つけた。どこかで見覚えのある顔だ。私はハッと思い出した。男に仕えていた小舎人童の少年に違いない。その少年は幼い顔の口をギュッと結び、こちらの様子を伺っていた。懐かしい顔を見て、久しぶりに好きな男を近くに感じた私は侍女を呼びつけ「ねぇ、あの者を連れてきて」と、伝えた。
「お久しぶりです。千早様、お元気でしたか?」
少年は丁寧に頭を下げた。
「久しぶりね。ずっと会っていなかったから⋯背も伸びたし少し大人びたんじゃない?あなたに会うと皇子様を思い出せるわ。ちょうど誰かと話したかったの」
「千早様の事はずっと気がかりでした。あれほど皇子様を慕われていたので⋯僕が用事もないのに伺うのはあまりにも馴れ馴れしいのではと不安で⋯」
「いいのよ。君は皇子様をよく知る貴重な存在よ?また気軽に訪ねていらっしゃいね。今は何をしているの?行く宛はあるの?」
「実は皇子様の弟君の帥様に使えております」
「そう⋯安心したわ。よかったわね。でも弟君はプライドが高くて近寄り難い印象じゃなかった?あなたも大変ね⋯」
「傍から見たらそうでしょうね。でも中身はすごく優しい御方なんですよ。今日だって、千早様の所に伺うと言ったらこれをと⋯」
少年は橘の花を差し出すと「帥様からです。どうご覧になりますか?」と私に問う。
橘の花の香りが鼻を掠め、私の頭をスっと抜けた。
あぁ、あの人の香りだ。
白く小さい花弁が風に揺れる度、また香る。
甘酸っぱい記憶。
「五月待つ花橘の香をかげば昔の人の袖の香ぞする⋯」
あの古歌を思い出し、私は思わず口ずさんだ。
不意に頬を涙が濡らす。「あなたも恋しく思いませんか?」と弟君に問われているようで、深く頷いてしまう。そうだ、私は今もずっと、あの男を想っている。
「千早様⋯?」
少年は不安な目で、涙する私を見つめていた。
「ごめんね⋯皇子様を思い出しちゃって。やっぱり⋯ずっと忘れられないのね。今もあの庭で笑っていらっしゃる様に思えて」
「皇子様も、この花を大変好いておられましたね⋯」
「うん。知ってる⋯よく知ってる」
優しい顔で少年は微笑んだ。
「千早様、僕はそろそろあちらに戻ります。帥の宮様には何とお伝えしましょうか?」
「そうね⋯少しだけ待ってもらえる?素敵な贈り物だから、私もちゃんとお返しするわ」
傍に橘の花を置いて筆を取る。
─薫る香によそふるよりはほととぎす聞かばや同じ声やしたると
花橘の香はあの人を思い出させる。目を閉じて皇子様を想うけれども、やっぱり寂しさは拭えない。せめて皇子様の声だけでも聞けたら⋯もう一度、あのお声で私の名前を呼んでもらえたら。そんな甲斐のない望みを抱いてしまう。弟君⋯あなたのお声は皇子様とそっくりなのかな?亡き皇子様への追慕の心を誘うような、まわりくどい近づき方よりも⋯私は直接、貴方様と話したいでず⋯。
「これを帥の宮様に⋯」
私はしたためた手紙を少年に渡した。
「ちゃんとお渡し致します」
深深と頭を下げた少年に、私は「また来てね」と見送った。
僕は橘の花の枝を手に持ち、物思いにふけっている。
このすっぽりと空いた心の侘しさは、兄を亡くした悲しみによる寂しさなのか?ただ、人恋しい寂しさなのか?解らない。だから僕は試すことにした。兄が慕った人がどんな人なのか、この目で見たくなったのだ。落ち着かない様子でぼんやりと庭を見ては、遣いの帰りを待つ。門の傍に少年の姿を見つけるとすぐに呼び止めた。
「どうだった?千早殿は喜んでくれたかな」
「おふたりはどこか似てますね⋯」
少年は小声でそう呟く。
「ん?何か言ったか?それで千早殿は何と?」
急かすように尋ねる僕に、少年は嬉しそうに手紙を差し出した。
「こちらを⋯」
待ちわびたように手紙を開くと、頬が紅く熱を帯びた。
「手紙には何と?」
少年は覗き込むように僕に尋ねる。
僕は手紙を胸にしまうように押し付けて隠した。
「やっぱり兄上が心底惚れた人だ。すぐに千早殿へ返事を書く。すまないが、また届けてくれるか?」
僕はさっと筆を取り、つらつらと走らせた。
─同じ枝に鳴きつつをりしほととぎす声は変はらぬものと知らずや
千早殿は兄の声が聞きたいと言っている。きっと、おなじ母から生まれ一緒に育った僕の声も亡き兄と変わりないはず。貴女は僕の声もまだ知らないだろう。訪ねて、貴女に僕の声を聞かせたい。
「これを千早殿に⋯くれぐれもこんな事をしてるなんて誰にも言うなよ?僕が千早殿に気があると誤解されては困るから」
少年は手紙を渡され、首を横に傾げた。
「好きでは無いのなら、なぜ手紙を?」
「ほら、兄の事を⋯兄をよく知る数少ない人だからだ」
「本当にそれだけですか?」
「あぁ⋯ほら早く行け。すぐに届けろ?いいな?」
少年はくるりと背を向け「すぐに噂になるだろうな⋯」と呟いた。
少年の背中を見送りながら、僕は急に恥ずかしくなった。
可愛らしい文字と、詠まれた歌に。そしてまだ見ぬ貴女に心がときめいてしまったのだ。君はどんな声をしているのだろうか。君はどんな姿をしているのだろうか。
侍女に急かされて顔を出すとまた少年が立っている。
「こんなに早く訪ねて来るなんて⋯どうしたの?」
「千早様、帥の宮様からのお手紙をお届けに参りました」
「えっ⋯こんなに早く?」
「なにやら嬉しかったみたいで、すぐに返事を書いておられました」
したためられた歌は、私の心を優しく擽った。あぁ、やはりあの人の弟君だ。どこか似ている。でも⋯。
「ありがとう。確かに受けとったわ。今回はお返事はご遠慮するわ。そう何度も送るのは失礼だから」
「いいのですか?」
「うん。いいの。少しでも皇子様を近くに感じれただけで私は幸せよ。お礼だけ伝えてくれる?」
去りゆく少年の背中を見送りながら、私は切なくなった。
優しい文字と、優しい歌に。そしてまだ見ぬ貴方様に、ときめきそうになった私は後ろめたさを感じたの。皇子様を忘れてしまいそうで怖くなった。でも⋯貴方様はどんな声をしているのかな。
僕は焦っていた。感じたことの無い焦燥感と、返事のない僅か数日にどこか虫の居所が悪い。
「なぜ返事がないんだ⋯?」
何か気を悪くすることを言ってしまったのか?いやそんなはずは無い。僕は無意識に筆を手に取り、墨をすった。
─うち出ででもありにしものをなかなかに苦しきまでも嘆く今日かな
はっきり言葉にして思いを打ち明けずとも良かったものを、どうして打ち明けてしまったのだろう。あなたにそうしたことで、かえって苦しいほどに思い嘆いている今日の僕だ。
出来上がった和歌を見つめ、僕は溜息をつく。この行動そのものが恋なのだ。衝動的に、恥ずかしげもなく手紙を贈ってしまう程に、まだ見ぬ貴女に焦がれている。この手紙に返事がなければ最後にしよう。彼女には、どれだけの男が言い寄っているかわからない。僕もきっと、その一人に過ぎないのだから。僕は少年を呼びつけると手紙を託した。
予想に反して、返事の手紙はすぐに来た。
─今日のまの心にかへて思ひやれながめつつのみ過ぐす心を
貴方は苦しいまでに嘆いているとおっしゃいますが、僅か今日一日の嘆きと比べて想像してみて。私が皇子様を亡くして以来ずっと物思いに沈んだままで過ごしている苦しい心を。出掛けることさえも億劫なのに。
「なんで世の中は彼女を軽々しい女だと言うのか⋯これ程までに一途に兄を想っているのに」
僕は、また溜息を吐き出した。