この壁を回れば先の花壇が見える。だが彼女の姿より先に叫び声が聞こえる。

「やめて!」

 ミーンだ。ハロルは慌てて走り出す。
 花壇の横にはミーンが居た。それを見下ろすような形で、小太りの少年が腕を組んでいた。先ほどハロルを睨み、濡れ衣を掛けてきた少年だ。彼は花壇の上に立っている。周りには少年の仲間と思しき少年が二人居た。

「なんでだよ」

 小太りの少年は花を踏みにじりながらニヤニヤと笑っている。

「お花がかわいそうだから」

 ミーンは土の上でぐちゃぐちゃになった花を手で撫ぜる。

「はあ? なんだよそれ。花は人間じゃあないんだぞ? さっきも花としゃべってたし、お前騙言症(へんげんしょう)なんじゃあねえの?」

 なにがどうしてこうなったか、だいたいのことは察しがついた。ハロルは腰にぶら下げた創筆(そうひつ)に手を掛けた。

『君がここで虚構術を使って彼を黙らせたら、周りの人はどう思うでしょう?』

(くっ……そぉ!)

 虚構術で捻じ伏せることは容易い。正直、こんなやつらにどれだけ嫌われ怖がられようが関係ないとは思うのだが、師匠の教えは絶対である。

 ミーンは震えている。それが夢見子(ゆめみご)であることを見抜かれたことによる恐怖心からなのか、怒りからなのか、或いは花を思う悲しみからなのかはわからない。
 ハロルが近づいていくが、誰もこちらには気付いていないようだ。

「おい、なんとか言えよ!」

 小太りの少年はミーンの指に靴底を押し付けてぐりっと捩じった。

「痛っ——!」
「おいテメェ!!」

 ハロルは瞳を見開いて怒号を発していた。

「ああ? お前はさっきの虚構士じゃねえか! やっぱりお前ら仲間だったんだな」
「え! あ、う……」

 ミーンはおどおどしながらハロルから目を逸らして俯いた。

「ミーンは虚構士じゃあねえよ。だからその足をどけろよ」
「嫌だね。虚構士の言うことなんか信じられるか。さっきお前と話してたからこいつも虚構士なんだよ!」

 少年はミーンの頭に向かって唾を吐きかけた。それを感じたはずのミーンだが、身じろぎもせず、俯いたまま震えている。

 ブチブチと頭の中でなにかが切れていくのを感じた。その瞬間にはもう体が動いていた。ハロルは勢いよく跳び上がり、蹴りを放った。こめかみを正確に捉えた足は、弧を描くように振り抜かれる。少年はそのまま地面にひれ伏した。「ひっ」周りの少年の息を呑む音。着地の直後に地面を蹴り詰め寄る。踵を振り上げ、眼下に彼の顔を捉える。ブーツの重みが加われば体重の軽いハロルでも充分なダメージを期待できる。まして狙いを定めたのは顎。このまま骨を砕く。

「ダメッ!」

 しかしミーンに後ろから抱き着かれて、ハロルの強襲は止められた。

「こんなことやられて悔しくないのかよ!」
「わたしはいいの! でも、ハロルがブロン君みたいになっちゃうのは嫌なの!」

 その言葉を聞いて、ようやく頭に上っていた血が降りてきた。焼けるように熱かった背中にミーンの涙がじわじわと染みて、温度が奪われていく。

 周りの二人が倒れたブロンの傍に立ち、こちらを見ている。彼を心配しているから近くに寄って来たのだろうが、それ以上にハロルへの恐怖が勝《まさ》ってか、膝を突いて彼の介抱にあたる様子はない。

 ハロルは忌々しげに舌打ちをした。

「お前ら仲間なんだったらよ、その食うことにしか意味を見出せなくなった家畜を連れて帰れよ。……早く失せろ、ゴミども」

 ミーンに止められたものの、ハロルの怒りは収まったわけではない。十分な迫力を持って放たれた言葉に、二人は息を呑んでブロンを担いで逃げて行った。

 ミーンの髪を水道で洗ってから、ハロルはハンカチと創筆を取り出した。
 ハンカチの上で創筆が躍る。

【熱と風を持つ。糸の内側から溢れ出る。すべての物を素早く乾かす。乾かしたとき。役目は終わる】

 ハンカチを広げてミーンの頭を撫ぜると温かな風が巻き上がり、肩まである髪も見る見るうちに乾いて行った。トゥルンとした潤いを残したところで、ハンカチから熱と風が消えた。

「ハロル、凄いね!」

 笑顔のミーンを見て複雑な気持ちになる。確かに虚構術は凄いが、その虚構士の自分と話していたせいで彼女は酷い目にあったのだから。

「ミーンは怖がらないんだな」
「ハロルだって、お花とお話していても怖がらなかったでしょ? さっきは嘘吐いちゃったけど、わたし、お花とお話してたんだ。ブロン君はそれを見て気持ち悪いって言ってきたんだよ」
「それであんな酷いことをしてきたのか」
「うん。お花は確かに人間じゃあないかも知れないけれど、それでも痛いって言えないだけで思っているかも知れないんだよ。わたしもお野菜を食べたりお肉を食べたりするけれど、意味もなく踏んだりしちゃあいけないって、そう思うの」
「ミーンは花の声が聞こえるのか?」
「聞こえないよ」
「じゃあどうして花は痛がっていると思ったんだ?」

 ミーンは残念そうな顔をしてハロルからゆっくりと視線を外す。

「あ! 違う違う! ミーンが嘘吐いてるとか変なこと言ってるなんて思ってないぜ? オレはただ純粋にどうしてそう思うのか知りたいだけなんだ」

 それを聞いた彼女は一瞬だけキョトンとして、すぐに顔を綻ばせた。花壇に目を向け、根が出てしまった花を植え直し始める。ハロルもそれに倣った。

「痛がっているって思うのはね、わたしがそこにお花の命があると思うからだよ。ある日思ったの。お花とわたしの違いってなんだろうって。動けないことやしゃべれないことがそうかなって。でも、水を上げたら元気になるし、太陽があるときはにっこり微笑んでいる。それなら、みんなが勝手に命はないって思い込んでいるだけで本当はみんなと同じように生きてるんじゃあないかなって思ったの。でもみんなはそんな風に思ってない。じゃあもしもわたしがしゃべれなくなって動けなくなったら、命がないんだって思われるってことだよね。それって凄く怖いことだと思うの。でも誰か一人でもわたしのことを生きていると思ってくれたら、きっとわたしは悲しくないし、生きていける。だから、わたしが生きているって思ったらお花も悲しくないし生きていけると思ったんだぁ」

 屈託なく笑った彼女は、花よりも綺麗で、太陽よりも眩しい。ハロルはその温かな笑顔に心をふんわりと包まれた。
 ハロルは充分に得心して頷いた。それから本来話したかったことを切り出す。

「ミーン。お前は嫌がるかも知れないけど、虚構士にならないか? 才能あるよ。力を手に入れれば、あんなやつらにデカい態度取られなくなるし、虚構士の仲間ができれば、今まで言えなかったことが言えるようになる。悪いことばかりじゃあない」

 彼女は、頬は緩ませたまま眉毛だけを困らせて、視線を花とハロルの間で彷徨わせた。

「あと、その、単純にオレは……ミーンと友達になりたい」

 頬を掻いて視線を合わせずに言った。ミーンは驚いたあとに表情を輝かせた。

「ありがとう!」

 だがすぐにまた、眉毛を困らせてしまう。

「……でも、お花が心配。また荒らされてしまうかも知れない。それに、お母さんとお父さんに相談しないと。わたしが妄想出来ることとか夢を見ることとか、誰にも言わないようにって二人とも言っていたの。これって、虚構士にはならないで欲しいってことなんじゃないかな」

 ハロルはストンと肩を落として、ため息を吐いた。