虚構士ハロルは夢を見る


「ハロル!!」

 ミーンの叫び声が響く。
 しかしハロルは炎の中膝を折ることはしなかった。ただ漫然と立ち尽くし、一瞬にして書き上げた言葉の粒を見つめ、重複しないようにさらさらと加筆していく。

【水面に触れただけで凍り付く無表情な風の筆先】【炎の命を薙ぐ極寒の暴風が吹き荒ぶ】【零度の空気は空虚なる深淵を呼び覚ます】【炎の色をなくす障壁が己が身を守る】【冬の頂きは鉄壁の凍てつき】

 そしてさらに別の言葉の並びを新たに創っていく。
 炎が通り過ぎ、ドリシエと目があったとき、彼女は驚愕に穿たれたような顔つきになっていた。

「なん、で……?」

 その驚きはハロルが生きていたから、と言うわけではない。彼女の瞳は、ハロルのその奥を見つめている。

「ハロル凄い! お空みたいなドラゴン!」

 ミーンはハロルの後ろに佇むドラゴンを指して『お空』と称した。青い鱗に包まれ、口と鼻からは白い冷気が漏れている。それはまさに真昼の青空。

「すげえだろ。蒼穹竜(アジュールドラゴン)だ。今こいつからそんなイメージが飛び込んできたんだ」

 ハロルが創筆を滑らせると、蒼穹竜(アジュールドラゴン)は白い吐息を吐きつけた。先ほど溶けて地面に染み渡った水が再び凍り、辺りは銀板に包まれた。
 ツルツルと滑る地面の上では、ドリシエも動けない。

「くっ! アタシのドラゴンの方が強いんだから!」

 ドリシエは動けずとも手を翳すだけでドラゴンを意のままに操れる。吐き出された白い霧のような息に、ドラゴンの炎の息吹が降りかかる。お互いの温度を相殺させながら、炎は徐々に蒼穹竜(アジュールドラゴン)に迫っていく。

(くそ。所詮力を譲って貰っただけのオレの力じゃあ)

 と、そこで急に竜の吐く息の量が増えた。どんどんと白さを増していく。
 振り返るとミーンが蒼穹竜(アジュールドラゴン)に向かって創筆を躍らせていた。先程までの怯えた表情はなく、寧ろ絵描きに興じる子供のように楽しげである。

「ハロルみたいになにもないところに新しいものを書くのは苦手だけど、ハロルが創ってくれたものをもっともっと強くすることなら出来るよ!」

 驚くべきことに彼女が操っていたのは、古代文字。スーの書斎の本を読み漁った彼女だからできる芸当だ。そして当然その古代文字は、ハロルが紡いだ言葉とは重複しない。仮に同じ意味を持つ言の葉だったとしても、別の言葉として効果が上乗せされるのだ。
 今、蒼穹竜(アジュールドラゴン)の強さに重厚な説得力が加算されている。
 書くことに没頭した彼女の手は、凄まじい素早さで舞い踊る。それとは逆に双眸のエメラルドには静寂が落ちている。集中しきっている状態だ。
 夢中になっているミーンを狙って、ドリシエが手を翳した。
 ハロルは地面に張った氷に創筆で書き殴り、ドリシエへと氷の刃を向ける。

「邪魔するなぁあ!」

 放たれたそれは彼女の手首に当たり、鮮血を撒き散らした。

「ああ! ああ……!」

 自分の手首を押さえ、蹲る。しかしハロルは創筆を操る手を止めない。手首を押さえたと言うことは、ケガを治していると言うことだ。次の行動に移るのは向こうの方が早い。隙を与えたら、負ける。氷の板が次々に浮かび上がり、いつでもドリシエに向けることが出来る状態を創り上げた。
 蒼穹竜(アジュールドラゴン)は空気中の水分すらも凍らせる程の息を吐くまでになり、夜を纏ったドラゴンの炎をどんどん押していく。
 ドラゴンの口元にまでそれが届くと、炎は消え、瞬く間に凍り付いた。黒い鱗のすべてに霜が降り、朝日を照り返してキラキラと光った。
 ハロルはドリシエに向けていたうちの一つの刃をドラゴンに向け、投射した。
 氷の刃が突き立てられたドラゴンに一本のヒビが入り、その一本から無数の亀裂が生み出され蜘蛛の巣のように広がった。足の先、尻尾の先までヒビだらけになると、ピシピシと音を立て、瓦解した。
 小さな氷の粒が舞い、陽の光を反射して虹色に輝いた。

「綺麗」

 ミーンの小さな声が、鼓膜の近くで震えるほどに、辺りはシンと静まり返っていた。
 氷の刃に囲まれたドリシエの手首からは今も血が流れ続けている。手当すら諦めたのか、或いは力を使い果たしたのか。ハロルは創筆を構えながら油断なく言葉を放つ。

「ドリシエ。もうお前の負けだ。降参しろ。お前のことはムカつくけど、殺したいわけじゃあねえんだ」

 彼女の肩が震えた。

「こんな……こんな偽物に負けるなんて、そんなのアタシじゃあない」

 ぶつぶつと呟くようでも、彼女の澄んだ声は、簡単に氷の間を縫って届いた。

「ハロルは、アタシのことを凄いねって言ってくれたもの。ハロルだって凄いのに、それでもアタシの方が凄いよって褒めてくれたの。それにドリシエは間違ってないよって言ってくれた。アタシは……、アタシはこんなところでこんな偽物に負けるアタシじゃダメなの!」

 ドクンドクンと、地面から音が聞こえた。ハロルが彼女から視線を切って音のした方を見ると、血色の線が動脈のように蠢いていた。それは彼女を中心に放射線状に伸びている。彼女は手当てのために手を握っていたのではない。流れ出る己の血に対して虚構術を使うために握っていたのだ。それに気付いたハロルは慌てて声を上げる。

「ミーン、避けろ!」

 言われるままに彼女はさがる。すると直後に地面が割れ、大地が激しく脈を打った。血管が張り巡らされた地面は、開花した花が蕾に戻るがごとくに、ドリシエに向かって集まりだした。蒼穹竜(アジュールドラゴン)も流れに飲み込まれ取り込まれてしまう。やがてそれは6メートル四方の大きな岩の塊のようになった。

「いったい、なにが……?」

 地面に包まれたドリシエ。数秒にも数時間にも思える静寂が空気ごとハロルたちを包んだ。そこには言葉を放つのも躊躇われるほどの静謐さが鎮座していた。
 不意に巨大な岩の蕾が震えだし、ビシッと音を立てた。
 ひび割れた岩の中から、腕が飛び出した。それはドリシエのものとは思えない形をしていた。異形と言う形容が相応しい。黒い鱗をびっしりと纏わりつかせた人の腕。それが縦に走ると、岩がカチ割れ、中から本体がドサリと這い出て来た。

 ミーンの息を呑む音が聞こえた。

「アタシハ負ケナイ。アタシヲ壊シタアイツラヲ許サナイ。偽物ハ殺ス」

 元のドリシエとは違う。立ち上がったとそれは、一回りも二回りも大きい。が、人の形をしている。のに、鱗に覆われている。大きく太い尻尾とおまけのような羽は、ぐちゃぐちゃに折れ曲がり、禍々しさをそのまま描いたような形をしていた。

 ——命を犠牲にしている。

 ハロルは姿形を見ただけで、そう悟った。
 虚構術は言葉を費やすほどに強力になる。他の言語を入れるのも効果的だ。さらに具体的な条件が文言に入れば強い虚構術が使える。先程使った【ナイフで結んだトライアングルの中にだけ発動できる】と言うような限定的な言葉がいい例だ。そして条件を限定するということは、端的に言えば覚悟の度合いで強さが変わると言うことでもある。
 彼女は今、己の命を犠牲にしている。
 本物のハロルの力を借りて、さらにはミーンの力も借りて、ようやく倒せるような相手——ドリシエ。その彼女が、命を賭けた虚構術を使っている。この覚悟に太刀打ちできる虚構術など、今のハロルが用意できるはずもなかった。
 目の端にミーンを見る。

(本物のハロルに守って貰えよ。友達になってくれてありがとうな。ミーン)

 心の中でそっと別れを告げる。言葉にしてしまっては、彼女が止めに来てしまうだろうから。
 心の奥底に神経を集中させる。水底のハロルに語り掛ける。

(おい。ドリシエに勝てる方法はもうねえだろ。いい加減オレも覚悟は出来て——)
(キミには、悪いことをしたね。変わるよハロル)

 ハロルは青白い光に包まれ、髪の毛は金髪の癖毛になり、瞳は青くなった。
 それに気付いたミーンはハロルの方を見てなにかを言いたげだったが、口を戦慄かせるばかりで、それ以上は言葉を発せられないようだった。

「ミーン。愛しているよ。なにを言っているかわからないだろうけれど、これはボクの本心だから、受け取ってくれると嬉しいな」

 その言葉にミーンは曖昧にこくりと頷く。今は飲み込めなくとも、いつかわかる日が来ると言う、確信のようなものがハロルにはあった。

「それじゃあハロルをよろしく」

 ハロルは異形と化したドリシエに向かって走り出した。
 額に五指をピタリと付けてから、前方に向かって手を翳す。

「ハ……ロ……る?」
「ちょっと痛くするよ、ごめんね、ドリシエ」
「はろるぅうぅうううう!」

 ハロルの掌から蔦のようなものが伸び、ドリシエに当たると、そのまま彼女を吹き飛ばした。大きな木の幹にぶつかると、蔦がぐるぐると彼女を巻き付ける。
 ハロルはドリシエに近づいて行きながら、ハロルに向かって声を掛ける。

(ハロル、キミを今まで隠れ蓑にしてきてごめん。ボクには現実を受け入れる勇気がなかったんだ。けれど最後、キミの勇姿を見て気付かされた。ボクは今こそ動き出すときなんだって。そして、贖罪のときなんだって)
(ちょっと待てよ。なんだ最後って。贖罪ってなんだよ!)
(ドリシエをあんな風にしたのはボクだ。すべての責任はボクにある。あのときは言えなかった言葉を、届けて来るよ)
(待てって!)
(キミはどうか、キミを生きて)

 身動きが取れなくなったドリシエに向かって、ハロルは渾身の体当たりをした。
 幼いドリシエは泣いていた。

「どうしたの?」

 幼いハロルは彼女の顔を覗き込むようにして見た。

「みんながアタシを虐めるの」

 イアルグにある名もなき村の外れ。池のほとりで、彼女はいつも一人で泣いていた。ハロルはそれを知りながら、ずっと声を掛けられないでいた。しかし、ハロルには心変わりがあった。妹が生まれたのだ。もしも妹が、同じように一人で泣いていたら、自分はどうするだろうかと考えたとき、きっと声を掛けるだろうと思った。

「みんなって誰?」
「みんなはみんな」
「村の人たち? お父さんとお母さんには言ったの?」
「お父さんもお母さんもアタシが悪いって言うの」

 ハロルは彼女の頭に手を置いて撫ぜた。

「それは嫌だね。よくわからないけど、ドリシエは悪くないよ」
「よくわからないけど、悪くないってわかるの?」
「うん」
「どうして?」
「悪い人は、泣かないよ」

 ドリシエはハロルの胸に顔を預けて声を上げて泣いた。

 小さな村だ。二人とも顔見知りではあった。しかしそれが二人にとっての初めての交流だった。
 それから二人はいつも一緒に遊んだ。昼食を食べるまでは遊びに行ってはいけないと言われていたハロルは、いつも昼食を急いで食べていた。

「ドリシエ。妄想はボクたちにしかできないことだから、言わない方がいいよ」
「どうして? アタシはアタシの思いを言葉にしちゃいけないの?」

 そう言ってドリシエはいつも涙ぐむ。彼女の泣き顔を見ると胸が切なくなった。

「泣かないで、ドリシエ。ボクは笑顔のドリシエがいいよ」

 そう言って彼女が笑顔を取り戻すまで、手を握ったり頭を撫ぜたりしていた。
 ある日、ドリシエは花で編み上げた輪をハロルに持たせた。

「なにこれ?」
「ハロル、もしもアタシのこと好きならそれをアタシの頭の上に載っけて。お嫁さんにして」
「お、お嫁さん……!」

 ハロルは自分の顔が熱を帯びていくのを感じた。ドリシエも頬を染めて、目を瞑って祈るようにして手を組んでいる。

「ねえ、早くして。それとも、アタシのこと好きじゃない?」

 瞑ったまなじりに雫が溜まっていた。声も上ずっている。どれだけの覚悟を持って、彼女はハロルにこの花の輪を渡したのだろう。

「好きだよ、でも、その、いきなりお嫁さんとか言うから」

 ハロルは緊張した面持ちで花の輪を頭の上に載せながら、さらに続ける。

「恋人から始めようよ、まずは」
「こ、恋人……!?」

 ドリシエは目をぎょっと開いて、口元を掌で押さえた。

「え、だって最初はそうなんじゃあないの?」
「わわ、わかんないよ! でも、ハロルがそう言うならいいよ。いつかお嫁さんにしてくれるんでしょう?」
「うん」

 ドリシエは顔を綻ばせた。バラが咲いたのだと思った。

「ところで恋人ってなにをするの?」
「さ、さあ……?」

 キスと言う言葉が浮かんでいたハロルだったが、なにも言えないで視線を逸らした。

 二人が恋人になってから、3年が経った。

「ハロル。村を出よう」
「どうしたの? 急に」
「急じゃあないよ。ずっと、言ってたじゃない。アタシ、お父さんもお母さんも嫌い。村の人も嫌い。ハロル以外全員嫌い」

 ドリシエからの悩みはずっと聞いていた。彼女はハロルと同様に夢を見る、夢見子だった。妄想もできるし、虚構術も使えた。
 ハロルはそれが異常であることを親から教えられ、人前では絶対に使わないように言われていた。ハロルはそれを守って、誰の前でも使ったことはない。しかしドリシエは違った。
 彼女は昔、転んだ友達のケガを虚構術によって治してあげた。それを友達は気味悪がって親に話し、ドリシエが夢見子だと言うことが村全体に伝わった。村では騙言症と揶揄するものが多く、異端の性質を持つ彼女は迫害を受け始めた。そしてそれはドリシエの親にまで及んだ。やがて両親は精神を病んだ。

「どうしてあんなことをしたの!?」

 母親に怒られ、ドリシエは混乱した。

「アタシは、ケガをした子が痛そうだったから治してあげただけだよ」
「そのせいでみんな迷惑してるのよ!」
「じゃあ、ケガをした子は? あの子はどうしてあげればよかったの?」
「そんなの放っておけば良かったの!」
「でも、じゃあお医者さんはどうしているの?」
「あんたって子は屁理屈ばっかり! 黙りなさい!」

 ドリシエは母親から捻じ曲がったモラルを教えられ、殴られ続けた。間違ったことをした覚えなどないのに、人を助けたかっただけなのに、どうしたらいいのだろうと言う答えのない疑問を抱き続けてきた。

 ハロルは何度も悩みを聞いていたが、しっかりとした答えを用意できないでいた。ドリシエが言うことは正しい。ケガをした人を助けるのは当たり前にすべきことだ。そうやってみんな教わったはずだ。だが同時に、ハロルは人前で虚構術を使わないようにと教わってもいた。もしもドリシエが虚構術を人前で使う前に、親から禁じられていたとしたらどうだっただろうか。しかしそれでも彼女は使っただろうなと思った。それが彼女のやさしさだから。それを否定することは出来ない。だからハロルは「キミは間違ってないよ」と言い続けるしかなかった。やさしいドリシエの体の痣は毎日増えて行くというのに、彼女を守るための答えはゼロのままだった。
 そんな彼女の不遇を知りながらも、ハロルにとってこの村を出るという選択は難しかった。

「考え直そうよ。ドリシエ」
「……アタシが、もっとお母さんに殴られればいいの?」

 彼女はもう、泣いていなかった。感情を失ったように、乾いた赤色でハロルを見つめていた。そのときハロルは、初めてドリシエのことを怖いと思った。これほどの闇を抱えているのだと言うことを、本質的に理解した。

「そうじゃないよ」
「じゃあ一緒に逃げて」

 ドリシエが手を伸ばした。差し出されたその手を、ハロルは取れない。

「お父さんもお母さんも居る。ミーンもまだ3歳なんだ」

 彼女はなにも言わず、ただ手を下ろした。
 ハロルは俯いていたが、静寂に耐えられなくなって顔を上げた。
 そこにあったのは矛盾。
 矛盾を貼り付けたドリシエが立っていた。目から涙は零れているのに眉は正しい方を向いており、口角は上がっているのに笑い声は零れていない。
 ハロルは咄嗟に声を掛けるべきだと思った。しかしなにも思い浮かばなかった。壊れた心の治し方など、想像出来なかった。

「ハロルがいけないんだよ」

 ドリシエはそう言って近くの木に手を翳した。その一瞬で、夜を纏ったドラゴンを創り上げた。
 喪失、憂い、悲しみ、怒り……あらゆる感情が、彼女の創造力の爆発を促していた。
 ハロルが驚愕に撃ち抜かれているさなかに、彼女はドラゴンに乗って行ってしまった。

 そうしてその夜、イアルグにある名もない村は焼かれた。
 ハロルは闇の中に居た。呼吸も出来ないほどの闇。墨を流し込んだ夜の池。
 ハロルは足をバタつかせて必死に泳いだ。潜った。どれだけ深くに居るだろうか。この息は持つだろうか。しかしそんな心配よりドリシエに会わなければいけないと言う使命感の方が強かった。
 闇の先に赤い光が在った。ハロルでなければ見落としてしまうバラ。それが彼女だと言うことを誰よりも知っている自信があった。彼女は親にも見放された哀れな少女だった。あのときハロルがもっと大人だったら——いやもっと彼女の心に寄り添っていれば。村を焼くほどの憎悪を半分でも分けて貰えたのなら。彼女が自分を犠牲にすることはなかっただろう。だから自分だけが安穏と生き延びるなんてできない。
 つぶらなバラがこちらを見つめていた。
 ハロルは手を伸ばした。黒い鱗が指に掌に手首に腕に突き立つ。この鋭利な鱗は彼女の涙で痛みで苦しみで過去で忌まわしさで母の暴力で罵詈雑言で理不尽で歪曲した嘆きで喪失で憂いで悲しみで怒りだ。すべてを抱きしめて受け入れなければ——いいや違う。受け入れたいのだ。

(今のボクは正しくボクだ)

 彼女の感情ごとハロルは抱きしめた。自分の体が熱くなるのがわかる。血液がどくどくと脈を打ち生命が流れ出ていくのがわかる。それはもう二度と戻らない温かさだとわかる。願わくばこの熱がドリシエを温めることが出来れば。

「ハロル」

 ごぼごぼと泡が浮上する音とともに明確にハロルの耳にドリシエの澄んだ声が届いた。ハロルは自分の息が尽きるのにも構わずに彼女の名前を呼ぶ。

「ドリシエ」

 名前を呼ばれた少女は涙を湛えて応える。上ずった声がすすり泣く声が幼き日の声が水中を揺蕩うように流れ出る。

「ハロルぅ……」

 ハロルはドリシエの艶やかな銀髪を撫ぜた。
 すると彼女を覆っていた鱗がパラパラと剥がれて水中を舞った。どこにも光はないはずなのにそれはキラキラと輝いていた。漆黒そのものが光を放っているような幻想的な風景だった。

「ハロル。アタシ自分を失くしちゃった」
「そうだね」
「怖いわ」
「大丈夫。ボクが傍に居るから。一緒に行こう」

 ハロルが微笑んだ瞬間に急速な水の流れを感じた。水中に居ながらも落下しているような感覚に包まれる。水底のさらに底を突き破った。
 二人が突き破った先には、光に満ちた世界が在った。その世界の中を落ちていく。気付けば闇は遥か上空。いつの間にこんなところにまで落ちてきたのだろうか。そう思ったところで、二人の体はピタリと止まった。すぐそこに地面があった。ハロルは空中から降りて、ドリシエの手を引いた。
 草原の真ん中に小高い丘があり、そこに大きな樹木がそびえ立っていた。その先は空の上の闇の前で止まっている。それにしてもなんと立派なことだろう。
 二人はその木の前まで近づいて行った。

「これはドリシエが?」
「わからないわ」
「そっか。そうだね。ボクもボクのことが一番わからないから」

 これほど素晴らしい木を育てたのに、あんな暗闇の中に居たなんて。ハロルはドリシエに抱き着いた。もう彼女には一枚の鱗もない。代わりにかわいらしい服を着ていた。白いブラウスに大きな黄色いリボンを付けて。脛丈のスカートはふんわりと。ポンチョは胸の辺りまでを覆っている。

「すっかり大人になったね」
「うん」
「綺麗になった」

 彼女は頬を染めて俯いた。

「ハロルもカッコイイわよ」

 ハロルはシャツと半ズボンにミドル丈のローブを合わせたシンプルな格好をしていた。それがドリシエの眼にはやや大人っぽく映ったと言うことなのだろう。

「ハロルはどうして来てくれたの?」
「あのときの続きをするため」

 贖罪とは言わなかった。
 ハロルは花の輪を空中から創り出した。恭しい手付きで彼女の頭の上に載せる。

「恋人はもうおしまい」

 ハロルの言葉にドリシエが顔をバッと上げる。小さな花弁が舞う。その瞳は不安げに揺れている。
 彼女の両の手を取り、そっとやさしく包み込む。

「結婚しよう。ドリシエ」

 ドリシエはその言葉を噛み締めるように、ゆっくりと首を垂らす。ボロボロと涙を零した。あのときとは違う。眉を曲げて、鼻を啜って、唇を歪めて、ちゃんと泣いた。一切矛盾のない、正しい泣き顔だった。

「でも、アタシ……たくさん殺したのよ? 悪いことしたのよ?」

 ハロルは首を振り、ゆっくりと彼女を抱きしめた。やわらかな体温が返って来る。これほどやさしい温度を持っている人が、悪いことなど。

「ボクが悪かったんだよ」
「違う。アタシはあのときハロルのせいにしてしまっただけで、本当は、ハロルはなにも悪くないの、わかっているわ」
「でもそうしなきゃキミは死んでいた」
「いっそ死んでしまった方が——」
「今まで生きていてくれて、ありがとう。ボクにキミを見つけさせてくれて、ありがとう。もう一度キミを愛するチャンスをくれて、ありがとう」

 ドリシエの頬に何度も雫が通って光る。

「でも、でも、アタシのせいでハロルも、もう。……この世界はもうすぐ終わるわ」

 俯いて声のトーンを落とすドリシエ。

「それなんだけどね」

 ハロルはバツの悪そうな顔をして、視線を彷徨わせた。

「キミの心の中で勝手にやったら悪いかなって思ったんだけど、ボクも命を賭けて虚構術を使ったんだ」

 ドリシエは首を傾げた。

「それはどんな?」
「キミの心を木に宿した」

 この世界に入って来る前、掌から伸びた蔦でドリシエの体を巨木に括りつけていた。
 彼女は驚いて掌で口を覆った。

「これであの木が枯れるまでこの世界でずっといられるよ」
「そんな……! でもそしたらやっぱりハロルは死んでしまったのね……!」

 肩を震わせながら、悲壮に満ちた声を上ずらせて、ハロルの死を悼んだ。

「ボクはここに居るよ」

 ハロルは両腕を広げた。

「ボクはキミの存在を感じている。ドリシエ、キミはボクを感じられないのかい?」

 ドリシエはおもむろに首を振った。

「アタシも目の前にハロルが居るって感じているわ」
「だとしたらそれが現実だよ。たとえ木の中であろうと。心の中であろうと。ボクらが居る世界が本物なんだよ。世界は曖昧なんだよ。ドリシエ。大切なのは、ボクがボクを、キミがキミを感じられること。お互いに名前を呼び合えること。ただそれだけなんだよ」

 ドリシエが頷くと、涙が弾けて虹が掛かった。未だ震える肩を、ハロルは再び抱く。

「ところでハロル」
「なんだい?」
「結婚したら、なにをすればいいのかしら?」

 ハロルは「えーっと」と大袈裟に空を仰いだ。
 視線を何度も彷徨わせて、それから意を決したように向き直る。

「き、き……キス! かな……!?」

 言葉にした瞬間から頬が熱を持った。ドリシエは目を丸くして口をパクパクさせている。

「キス……!」
「い、言い返さないでよ! ……恥ずかしいんだからさ」
「ごめんなさい」

 二人は見つめ合って、呼吸を整え合って、互いに名前を読んだ。彼女が大事に育てたであろう樹木は、この世界のすべてだ。その世界樹とも言える木を前に誓った。永遠の愛を。

 ——そして二人は口付けた。

 すると、世界樹は光を放ち、青空の向こう側に鎮座していた暗闇に向かって伸びていく。二人がそれに気付いて目を開けて見上げたときにはもう、あの深い深い闇の水は消え、光色《ひかりいろ》の空が開かれていた。
 雫がゆっくりと降りて来る。闇色《やみいろ》だったはずの粒子。やさしい雨。それは無数の虹となり、世界に降り注いだ。

 一瞬の虹色。でも、永遠の虹色。
 ハロルとミーンはただポカンと見上げていた。

 入れ替わったハロルがドリシエに体当たりしたと思ったら、二人は木の中に飲み込まれるようにして消えたのだ。
 そしてその中からハロルだけが弾き出された。銀髪赤眼の少女——ハロルが。

 困惑していたハロルにミーンが駆け寄って来て、胸に飛び込むとわんわん泣いた。それをあやすようにオリーブの髪を撫ぜていると、不意に樹木が光り出して、急速な成長をしたのだ。呆気に取られて見ていると、木の枝の先から多種多様な果実が生え渡り、甘くて瑞々しい香りが辺りを覆い始めた。

「いったいなんなんだ、これ」
「さあ……?」

 二人で顔を見合わせる。そして大事なことに気付く。

「師匠!」
「お師匠さま!」


※  ※  ※  ※


 二人は街を走っていた。広場にはもう人だかりが出来ている。だがここで突っ込んで行っても、スーの処刑は止められないだろう。
 ハロルは建物の陰に隠れて、創筆を躍らせた。

「ミーン、手伝ってくれ」

 ミーンは頷いて創筆を動かす。二人は以心伝心。なにも言わずともなにをやるのかがわかっていた。お互いに言葉の上に言葉を重ねていく。それは緻密で綺麗な積み木のよう。
 二人が書き終わると、首肯し合って広場の中心へ創作物を放った。

 広場が不意にどよめく。

「なんだあれは!?」
「嘘!?」
「きゃああ!」

 人々が混乱する中、アミトラの声が響いた。

「ご安心ください! あれは私の弟子のドリシエのドラゴンです」

 夜を纏ったドラゴンが翼を羽ばたかせ、広場のその一帯だけを夜に変えていた。
 ひとまず民衆の混乱は収まった。しかしドラゴンは広場に降り立つと、尻尾で王の胸像を薙ぎ、けたたましい咆哮を上げ、上空へ炎を撒いた。
 再び混乱が始まる。

「な……! なああああ!?」

 アミトラの間の抜けた声に、王の怒号が被さる。

「アミトラよ! あれはドリシエのドラゴンではないのか!?」
「え、いや、いやそうですがしかし、なぜあんな」

 二人が諍いを起こしているさなかに、ハロルは裏から回り込み、スーが縛り付けられている断頭台に躍り出た。

「ハロル」
「師匠。待ってろよ」
「ミーンは?」
「建物の陰で待たせてある」

 彼を縛っていた鎖と手錠、足枷を虚構術で外していく。

「少し見ない間に、立派になりましたねえ」

 弟子の成長を微笑ましく話す師にハロルは眉を(ひそ)めた。

「ったく、師匠の図太さには恐れ入るぜ」

 ハロルは手を引いてスーを連れ出そうとするが、彼は立ち止まった。

「師匠、早くしねえと……!」
「ハロル。君にお願いがあります」

 スーは姿勢を低くしてハロルに耳打ちをした。
 スーは広場の中心まで歩いて行き、アミトラと王の前に立った。

「え!? スー!?」

 アミトラは愕然とした表情で彼を見るだけで、それ以上なにも出来ない。

「王よ。ご覧ください」

 そう言ってスーは掌をドラゴンに向けた。
 するとドラゴンは陽の光に溶けるように居なくなった。

「な、なんだ……!?」

 スーはパンパンと手を叩いた。

「みなさんご安心ください! ドリシエのドラゴンは僕が無力化致しました!」

 周りの民衆はキョトンとして、なにも発せず、なにも出来ずに、ただスーを見つめた。

「王よ。あなたは僕を処刑することで、アシオンと戦争をなさるおつもりでしたね」

 目を疑うような事態から耳を疑いようなことを言われた王は、一瞬なにも反応できずにキョトンとして、それからややあって口をパクパクさせ始めた。

「な、なにを言うか。なにを根拠に!」

 スーは民衆の方を向いて弁舌を振るう。

「僕たちは確かに先程アミトラが言ったように、このエノスにて虚構術を使ってしまいました。しかしそれは、アミトラが仕向けた罠に掛かってしまったに過ぎない。彼女らは、我々が国内に入ったところを狙って襲撃してきたのです。咄嗟のことでした。命を守るため、危機回避のため仕方なく使ったのです。それを罪だと言い張り、我々を捕まえ、死罪に追いやりました」

 スーは広場の噴水の前の一段高い場所を歩きながら、民衆に届くようにハッキリとした声で続ける。

「みなさん。先程言ったように王は戦争をしたがっています。理由は、この国に物資が少ないため。輸出入ではこの国はじり貧です。少しでも国土を広げ、生産力の向上を図る必要がある。しかし戦争するには理由がない。なら、どうでしょう。我々が国際的な罪を犯したと言うことに仕立て上げ、イデオロギーをでっち上げたら。そうすれば、周辺諸国も味方をしてくれる好条件で戦争を始められる」

 王は近くの兵に命令する。

「黙らせろ!」

 兵は剣を抜き、スーに近寄っていく。

「黙りませんよ」

 スーが掌を翳すと、兵の鎧は粉微塵に砕け散り、剣が折れた。目玉が飛び出さんばかりに驚いた兵は、腰を抜かしてその場に倒れ込む。這いつくばりながら、スーから逃げていく。

「王よ。ドリシエはこの国で一番強い虚構士ですね」
「う、うむ」
「そのドリシエのドラゴンを一瞬にして消し去った僕の力をこれ以上見くびると言うのなら考えがありますが、どうします? このまま演説を続けても?」

 王は苦虫を噛み潰したような顔をした。

「くっ……、いいだろう。しかし、根拠はなんだ。なぜそう思う」

 スーは眉を上げ、目を細めた。その視線はアミトラを刺している。アミトラの表情に焦りが現れ出る。

「おやおや。まったく推測が行き届かないとは。アミトラは相当上手く王を謀り続けたようですね」
「な!?」
「どういうことだ、アミトラ」
「違いま——」
「僕がご説明致しますよ」

 スーが言葉を遮ると、アミトラは創筆を抜いた。それに対してスーは掌を向けるだけだ。

「アミトラ。君は僕より弱い。それは出会った頃から今までも、そしてこれからも変わらないのです。諦めてください。才能を未来ごと」

 アミトラはギリギリと歯を食いしばった。

「王よ。彼女が僕を捕まえるところまでは、宰相の思惑通りだったのでしょう。しかし僕の虚構術の強さを彼女は見誤っていた。だから昨晩、僕が捕まっていた独房に来たとき、まさか身動きが取れない僕に敗北を喫するとは思わなかったのでしょう」
「あっ……!」

 兵士の一人が声を上げた。

「確かに昨日、レオフェ様はスーの独房に行っておりました! 帰って来たときに、息が荒かったのと指に血が付いていたので不思議に思っていたのですが!」

 アミトラは細い目を見開いた。肩が震えている。

「彼女は僕に因縁があった。だから僕を痛めつけようとわざわざ単身独房まで来たわけですが、僕はそれを返り討ちにしました。そして命を見逃す代わりに、今回のことの真相を白状させたのです。そこで王が戦争の計画を立てているのを知りました。なんとしても止めなくてはならない。その場で逃げ出すことは簡単でしたが、それでは騒ぎは大きくなり、戦争をするための理由ができてしまう。なので僕はこの場に留まることを決断し、彼女伝いにドリシエにこの広場を襲わせる計画を立てたのです」

 スーは王から目を切り、民衆にまた語り掛ける。

「さて、みなさんもわかりましたね。王は戦争を起こしたい。もしも僕が王の思惑通りの弱い虚構士なら、ここで処刑して戦争になってもあなた方は困らないでしょう。しかし、状況は激変している。僕は強い。そしてアミトラもドリシエもその僕に、つまりはアシオンに寝返っているのです。先程からみなさんも目にしている虚構術ですが、大変便利な能力です。戦闘能力も高い。だから我々虚構士と言うのは、戦争が起きたとき戦線に駆り出され、戦うのです。つまり、その国の戦力はイコール虚構士の強さとも言えます。わかりますか? 僕の強さは見ましたね? そしてドリシエのドラゴンの強さも。アミトラは僕に及ばないにしても、この国の虚構士の中ではかなり強い部類に入る。この面々が居るアシオンを相手取り、みなさんは戦わないといけない」

 どよめきが起こる。人々の顔には不安が張り付いて離れない。

「しかしご安心ください。それはあくまでもこのままだと、と言う話です。僕はアシオンに帰っても、王に戦争をするよう焚き付けるようなことはしません。幸い、アシオンは物資が潤沢に揃っています。わざわざ戦争を起こすメリットがない。だからみなさんが王の愚行を止めてくださればいいのです。僕だって人殺しをしたいわけじゃあない。この気持ちに嘘はありませんよ? ……まあもっとも」

 王に向き直る。

「状況が変わってなお戦争を始めようなどとは、聡明な王ならばお考えにはならないでしょうけれども」

 一段低い声で言い放つと、王は表情を強張らせたまま固まった。数拍置いてから大きくため息を吐き、重くなった首を縦にずるりと落とした。
 その日のうちにハロルたちはイアルグ方面へ出発することにした。ナガーの容態が気になったからだ。御者としてスーが馬を繰るその馬車には、ハロルとミーンの他にアミトラも乗っていた。

「師匠。お願いがあるんだけど」

 ハロルはスーに寄り道を頼んだ。
 本物のハロルとドリシエが吸い込まれた木は、相変わらずの巨大さと多種多様なフルーツを枝に蓄えていた。風がざわめくと、葉の歌に乗って鳥のさえずりが聞こえてくる。

「ここに、オレを生んだハロルとドリシエが眠ってるんだ」

 ハロルがそう言うと、アミトラは木の前にまでよろよろと歩き、それから俯き、目を瞑った。スーはそんな彼女の背中になにかを言いかけたが、口を噤んで最後までなにも言わなかった。

 ハロルは近くにあった大きめの石を両手で抱えて木の前に持ってくる。地面を掘ってそれを埋めた。
 創筆を構え、石の上で躍らせる。

【永遠なる刻印。忘却なき彼岸。結ばれし二人。生命の名】

 ハロルが書き終わると、ミーンが傍によって石に刻印された文字を読み上げる。

「ハロル・バードリーとドリシエ・ラブックの生命はこの樹に永遠に宿る」

 彼女が見上げる。ハロルは得意満面に見下ろした。

「これで忘れないだろ?」
「でもこれだとハロルがここに居るみたいだよ?」

 確かにそうだ。とハロルは人差し指を顎の上に載せた。

「じゃあこれからは、オレはハロル・フェアードって名乗るようにするぜ」
「わあ! わたしたち結婚したみたいだね!」

 満面の笑みを湛える彼女に、ハロルは顔を赤くする。そうして気まずげに視線を逸らした。

「そ、それはダメだろ」
「えー! なんでー?」

 ハロルの胸にミーンが甘えた声で飛び込んでくる。薄い胸板に爪を立てるようにしてブラウスを掴む。ハロルは仰け反り、困った顔をスーに向けた。

「ハロルはハロル。良いじゃあないですか、それで」

 スーの言葉に二人は顔を見合わせて笑った。
 陽が山間に没した頃、イアルグの名もなき村に到着した。一行はすぐにナガーの元へ向かった。
 解毒薬を飲ませると、彼女の顔色が少しだけ良くなった。

「あり……が、とう」

 まだ痺れの残った口を動かして言葉を紡いだ。
 彼女がまともにしゃべれるようになるまで回復してから、スーはアミトラを連れて来て彼女の前に跪かせた。

「約束通りのアミトラです。彼女は裁かれてなどおりませんでした。エノスで虚構士として働いていましたよ。ですが謀反を企てた者としてお尋ね者にしておきました。それと創筆も持っていないので彼女にはなんの力もありません。さて、どうしますか?」

 ゆったりとした口調で言っているが、要約すると抵抗する術を持たないこの女を殺すかどうかと尋ねている。
 ナガーはぼんやりとした視線を彼女に送る。毒のせいで意識がはっきりしていないと言うわけではない。ゴミを見るにはこれで充分と言ったような、はっきりとした侮蔑を感じられる瞳だった。

「私はお前を許してなどいないが、しかしお前などでも殺せば記憶に残る。わかるか? 害虫を家の中で潰したときのあのなんとも言えない気持ち悪さのことを言っているんだ。お前ごときのためにそんな思いはしたくないのでな。殺さないでおいてやる。代わりに、お前は二度と虚構士を名乗るな。虚構士は私の命の恩人の職業だ。お前が名乗っていいものではない」

 言い切られ、アミトラはキョトンとする。

「そう言うわけですから、どうぞご自由になさってください」

 スーが退出を勧めるように出口の扉を指した。アミトラはしかし動かない。スーは彼女の腕を引っ張り扉の前にまで連れていく。

「ね、ねえ、スー。虫のいい話だと笑ってくれて結構なんだけど、私も連れて行ってくれないかしら」
「どうするおつもりで?」
「アシオンであなたの下で修業させて欲しいの。弟子として。なんでもするわ!」

 スーは肩を揺らして笑った。つられてアミトラも引きつった顔のまま笑う。

「君ごときになにができるのですか?」

 笑顔を貼り付けにしたまま、零度の声質で吐き出した。アミトラはビクッと肩を震わせるだけで声も出ない。

「ハロルやミーンの方が君の数億倍働いてくれますよ? 君には虚構士の才能がない」
「そ、そんなことは……!」
「ところで君、忘れていませんよね? 君の数億倍働いてくれる弟子を危険な目に合わせたこと。まさか許されるとでもお思いで?」
「いや、その、それは、その、ごめんなさい!」

 スーは笑みを深めて、彼女の頭にポンと掌を載せた。

「なるほど、なるほど。随分と反省していらっしゃるようですね」
「そ、そうなの! だから——」
「でしたらそうやって意味もなく一生謝っていなさい。取り返しのつかないことをした人間にはそれがお似合いでしょうしね。そうしていつかご自分に問いかけなさい。自分はなんのために謝っているのか」
「なんのためって、それは……」

 言葉に詰まったアミトラの前に回り、肩をやさしく掴んだ。

「君は君のためにしか謝れませんよ。そのごめんなさいで許される烏滸がましい未来なんかを想像しないでください。……あー、いえ、これは僕としたことがいけませんねえ。あなたの想像力では、その程度が限界だと、初めからわかって差し上げるべきでした」

 目を見開き、咽喉を痙攣させて「あ」「う」としか言えないアミトラを尻目に、スーは言葉を続ける。

「それに、君の国籍はエノスのままでしょう? 虚構術の使用許可証がない状態で、アシオンで虚構術を使わせるわけにはいきませんよ。僕みたいに、街の真ん中で死刑に処されてしまいますからね」

 もちろんエノスに戻ったところで王からの信頼は失っている。恐らく反逆者として他国に知れ渡るのも時間の問題だ。放心したまま、アミトラはぶつぶつと呟く。

「じゃあ、私はいったい、これからどうやって」
「さあ? ご自分でお考えになりなさい。ハロルやミーンだってそうしています。君は仮にも虚構士でしょう? 創造力は虚構士の基本ですよ」

 ポンポンと肩を叩いて、背中を押す。朗らかな笑みを湛えたまま、スーは彼女を家の外へと追いやった。
 アシオンに戻った一行は、さっそく今回の事件の調査の結果を報告しに行った。

 謁見の間でスーは王を相手取り一歩も引かずに滔々と語り尽くした。
 問題のドラゴンは倒したこと。今回の事件はエノスの虚構士の仕業であったこと。それが戦争の火種を作るために行った策謀であり、エノスの宰相が裏で手引きしていたこと。虚構術の使用許可証を発行していればこのように相手の術中にはまらなかったこと。また、エノスはアシオンが虚構士に対して冷遇していることを知っていたから今回の作戦を企てられたこと。

「エノスは物資の少ない弱小国ではありますが、虚構士を本気で育てています。もしも戦争になれば、負けてしまうでしょう」

 スーは虚構士の社会的地位の向上を訴えた。そして、夢見子への差別と偏見の根絶も。それが約束されない限りは、いつまでも軍事力の低い国家として、他国に目をつけられてしまう。今回のように。
 本来スーは虚構士の軍事利用はして欲しくないと考えている。しかしながらなんのリスクもなしに地位の向上を行うことは不可能だと知った。エノスの謀略を知って、より強く思ったのだ。ならばまずは地位向上のために、軍事利用もやむなしと考え、この度王に打診した。もちろんすぐにこの国の風土が改善されるとは思っていないが。

「それからエノスが今回戦争に踏み切ろうとした理由には自国の生産力の低さのみならず、他国から不利益な貿易を強いられていることが主な要因と言えるでしょう。アシオンとしてはエノスを攻め落としてもなんのメリットもありませんから、貿易規制の緩和などの処置を取り、友好国に導いてはどうでしょうか。そうすればエノスより南に在る国からのバッファゾーンを得ることにもなりますし」

 地政学的根拠をも踏まえた助言は、少しばかり出しゃばりだったが、王はそれを不快とは思わなかったようで、鼻を鳴らすに留めた。

「わしは虚構士は好かんが、さておきお前は頭がいいな。虚構士をやめるなら王宮で働かせてやるが」

 王は玉座から動かず肘を突いたまま、ただ気分が乗ったから言ってみたという程度の雰囲気で話している。

「ありがたいお言葉ですが、僕は虚構士ですので」
「そうか。まあ、お前だけの地位を向上しても仕方ないわけだな。お前が虚構士として王宮で働けるような役職を作れるよう、少し考えてみよう。此度は誠にご苦労であった」
「もったいなきお言葉。痛み入ります」

 頭を下げると、王は肘掛けに手を突いた。

「あ、そうでした」
「まだなにかあるのか?」

 立ち上がりかけていた王が再び腰を下ろす。

「仰せの通り、謀《たばか》りを見抜き、戦わずに生還して参りました。ナガーの働きのおかげです。今後もしも僕が王宮で働けるのであれば、彼女に護衛をして頂きたいです」

 スーに対して戦うなと言った王に対する皮肉である。王はこれには片眉を吊り上げる。

「まったく、これだから虚構士は好かん」

 ゆっくりと深いため息が流れる。

「……だが、まあ。良いだろう。それは約束する」

 スーは眼鏡の奥の目を細め、片手を肩に置き恭しく礼をして見せた。
 ハロルはミーンに引っ張られるまま学校に来ていた。花壇はあんなことがあったので、誰かが荒らしに来ることはないだろう。しかし逆に水を与えてくれる者もいない。すべて枯れてしまっているかも知れなかった。

 しかし学校の花壇に着いた二人は驚きに声を漏らした。

「すごい」

 枯れるどころか、色とりどりの花々が咲き誇っている。
 感動している二人の背中に声が掛かる。

「おい、どいてくれよ」

 聞き覚えのある声に振り替えると、そこにはブロンが立っていた。ジョウロを持って。隣には二人の仲間が居た。同じくジョウロを持っている。

「あ、あれ? ミーン? ……と暴力女!」
「誰が暴力女だ! テメェだって暴力振るっただろうが、家畜デブ!」

 売り言葉に買い言葉だ。ブロンは、しかし言い返さなかった。あのとき自分がやり過ぎたことを反省しているのだろうか。

「ミーン、あのときはごめん。虚構士のやつに畑を荒らされたと思って。父ちゃんも母ちゃんも泣いてたから。めちゃくちゃ腹立ってて……でもそんなの言い訳で、正直ただの八つ当たりだった」

 しおらしくなるブロンにハロルは肩透かしを食らってしまった。そんなハロルを尻目に、ミーンは前に出る。

「ブロン君が水やりしてくれてたの?」
「あ、ああ。そうだ」
「どうして? お花、嫌いになっちゃったかと思った」

 まっすぐ見つめるミーンのまなざしから気まずそうに視線を逸らす。

「みんなで考えたんだよ。どうして花があんなことになったんだろうって。どう考えても俺が踏みつぶしたのがいけなかったよなって……こいつらもそうだなって言ってさ」

 ブロンの横に居る二人はこくこくと頷いた。

「俺らはよくわかんないけど、でも俺が踏んだから花は痛いって叫んだし、燃やしたからデカくなって仕返ししてきたんだと思う。それに、あのときミーンはケガしなかった。なんでかなって考えたら、やっぱり花にやさしくしてきたからだろうって」

 隣の二人もうんうんと頷いている。彼らは虚構士ではない。だから未知を恐れる。既知の中で生きようとする。訳のわからないことは、ずっとわからないままだ。しかし、過去から教訓を得ることは出来る。それは、虚構士としてではなく、人間として備わった機能だ。それをこの三人は正しく使うことが出来たのだ。

「花に命があるとか、それはやっぱりわかんねえ。今でも。けど、ミーンが正しいことをしてたってのだけはわかったんだ。だから俺もしようと思って……あと、そのなんだ。ちゃんと謝る前にミーンが居なくなっちまったから、罪滅ぼしじゃあないけどさ」

 どんどんと声が小さくなっていく。ミーンは徐々にブロンに近寄っていく。俯き加減のブロンとミーンの視線が交わった。彼女は大輪の花を咲かせる。

「ありがとう!」

 ブロンの顔が赤くなるのを見て、ハロルは咳払いをして二人の間に立った。

「じゃあオレらは師匠のところへ帰らなきゃいけないんでな。引き続き花の世話を頼むぜ、ブロン」

 キョトンとするミーンの手を引いた。

 ブロンはなにか言いたげだったが、言わせてなるものかという感情のままに、ミーンを攫って風に乗った。