ハロルは闇の中に居た。呼吸も出来ないほどの闇。墨を流し込んだ夜の池。
 ハロルは足をバタつかせて必死に泳いだ。潜った。どれだけ深くに居るだろうか。この息は持つだろうか。しかしそんな心配よりドリシエに会わなければいけないと言う使命感の方が強かった。
 闇の先に赤い光が在った。ハロルでなければ見落としてしまうバラ。それが彼女だと言うことを誰よりも知っている自信があった。彼女は親にも見放された哀れな少女だった。あのときハロルがもっと大人だったら——いやもっと彼女の心に寄り添っていれば。村を焼くほどの憎悪を半分でも分けて貰えたのなら。彼女が自分を犠牲にすることはなかっただろう。だから自分だけが安穏と生き延びるなんてできない。
 つぶらなバラがこちらを見つめていた。
 ハロルは手を伸ばした。黒い鱗が指に掌に手首に腕に突き立つ。この鋭利な鱗は彼女の涙で痛みで苦しみで過去で忌まわしさで母の暴力で罵詈雑言で理不尽で歪曲した嘆きで喪失で憂いで悲しみで怒りだ。すべてを抱きしめて受け入れなければ——いいや違う。受け入れたいのだ。

(今のボクは正しくボクだ)

 彼女の感情ごとハロルは抱きしめた。自分の体が熱くなるのがわかる。血液がどくどくと脈を打ち生命が流れ出ていくのがわかる。それはもう二度と戻らない温かさだとわかる。願わくばこの熱がドリシエを温めることが出来れば。

「ハロル」

 ごぼごぼと泡が浮上する音とともに明確にハロルの耳にドリシエの澄んだ声が届いた。ハロルは自分の息が尽きるのにも構わずに彼女の名前を呼ぶ。

「ドリシエ」

 名前を呼ばれた少女は涙を湛えて応える。上ずった声がすすり泣く声が幼き日の声が水中を揺蕩うように流れ出る。

「ハロルぅ……」

 ハロルはドリシエの艶やかな銀髪を撫ぜた。
 すると彼女を覆っていた鱗がパラパラと剥がれて水中を舞った。どこにも光はないはずなのにそれはキラキラと輝いていた。漆黒そのものが光を放っているような幻想的な風景だった。

「ハロル。アタシ自分を失くしちゃった」
「そうだね」
「怖いわ」
「大丈夫。ボクが傍に居るから。一緒に行こう」

 ハロルが微笑んだ瞬間に急速な水の流れを感じた。水中に居ながらも落下しているような感覚に包まれる。水底のさらに底を突き破った。
 二人が突き破った先には、光に満ちた世界が在った。その世界の中を落ちていく。気付けば闇は遥か上空。いつの間にこんなところにまで落ちてきたのだろうか。そう思ったところで、二人の体はピタリと止まった。すぐそこに地面があった。ハロルは空中から降りて、ドリシエの手を引いた。
 草原の真ん中に小高い丘があり、そこに大きな樹木がそびえ立っていた。その先は空の上の闇の前で止まっている。それにしてもなんと立派なことだろう。
 二人はその木の前まで近づいて行った。

「これはドリシエが?」
「わからないわ」
「そっか。そうだね。ボクもボクのことが一番わからないから」

 これほど素晴らしい木を育てたのに、あんな暗闇の中に居たなんて。ハロルはドリシエに抱き着いた。もう彼女には一枚の鱗もない。代わりにかわいらしい服を着ていた。白いブラウスに大きな黄色いリボンを付けて。脛丈のスカートはふんわりと。ポンチョは胸の辺りまでを覆っている。

「すっかり大人になったね」
「うん」
「綺麗になった」

 彼女は頬を染めて俯いた。

「ハロルもカッコイイわよ」

 ハロルはシャツと半ズボンにミドル丈のローブを合わせたシンプルな格好をしていた。それがドリシエの眼にはやや大人っぽく映ったと言うことなのだろう。

「ハロルはどうして来てくれたの?」
「あのときの続きをするため」

 贖罪とは言わなかった。
 ハロルは花の輪を空中から創り出した。恭しい手付きで彼女の頭の上に載せる。

「恋人はもうおしまい」

 ハロルの言葉にドリシエが顔をバッと上げる。小さな花弁が舞う。その瞳は不安げに揺れている。
 彼女の両の手を取り、そっとやさしく包み込む。

「結婚しよう。ドリシエ」

 ドリシエはその言葉を噛み締めるように、ゆっくりと首を垂らす。ボロボロと涙を零した。あのときとは違う。眉を曲げて、鼻を啜って、唇を歪めて、ちゃんと泣いた。一切矛盾のない、正しい泣き顔だった。

「でも、アタシ……たくさん殺したのよ? 悪いことしたのよ?」

 ハロルは首を振り、ゆっくりと彼女を抱きしめた。やわらかな体温が返って来る。これほどやさしい温度を持っている人が、悪いことなど。

「ボクが悪かったんだよ」
「違う。アタシはあのときハロルのせいにしてしまっただけで、本当は、ハロルはなにも悪くないの、わかっているわ」
「でもそうしなきゃキミは死んでいた」
「いっそ死んでしまった方が——」
「今まで生きていてくれて、ありがとう。ボクにキミを見つけさせてくれて、ありがとう。もう一度キミを愛するチャンスをくれて、ありがとう」

 ドリシエの頬に何度も雫が通って光る。

「でも、でも、アタシのせいでハロルも、もう。……この世界はもうすぐ終わるわ」

 俯いて声のトーンを落とすドリシエ。

「それなんだけどね」

 ハロルはバツの悪そうな顔をして、視線を彷徨わせた。

「キミの心の中で勝手にやったら悪いかなって思ったんだけど、ボクも命を賭けて虚構術を使ったんだ」

 ドリシエは首を傾げた。

「それはどんな?」
「キミの心を木に宿した」

 この世界に入って来る前、掌から伸びた蔦でドリシエの体を巨木に括りつけていた。
 彼女は驚いて掌で口を覆った。

「これであの木が枯れるまでこの世界でずっといられるよ」
「そんな……! でもそしたらやっぱりハロルは死んでしまったのね……!」

 肩を震わせながら、悲壮に満ちた声を上ずらせて、ハロルの死を悼んだ。

「ボクはここに居るよ」

 ハロルは両腕を広げた。

「ボクはキミの存在を感じている。ドリシエ、キミはボクを感じられないのかい?」

 ドリシエはおもむろに首を振った。

「アタシも目の前にハロルが居るって感じているわ」
「だとしたらそれが現実だよ。たとえ木の中であろうと。心の中であろうと。ボクらが居る世界が本物なんだよ。世界は曖昧なんだよ。ドリシエ。大切なのは、ボクがボクを、キミがキミを感じられること。お互いに名前を呼び合えること。ただそれだけなんだよ」

 ドリシエが頷くと、涙が弾けて虹が掛かった。未だ震える肩を、ハロルは再び抱く。

「ところでハロル」
「なんだい?」
「結婚したら、なにをすればいいのかしら?」

 ハロルは「えーっと」と大袈裟に空を仰いだ。
 視線を何度も彷徨わせて、それから意を決したように向き直る。

「き、き……キス! かな……!?」

 言葉にした瞬間から頬が熱を持った。ドリシエは目を丸くして口をパクパクさせている。

「キス……!」
「い、言い返さないでよ! ……恥ずかしいんだからさ」
「ごめんなさい」

 二人は見つめ合って、呼吸を整え合って、互いに名前を読んだ。彼女が大事に育てたであろう樹木は、この世界のすべてだ。その世界樹とも言える木を前に誓った。永遠の愛を。

 ——そして二人は口付けた。

 すると、世界樹は光を放ち、青空の向こう側に鎮座していた暗闇に向かって伸びていく。二人がそれに気付いて目を開けて見上げたときにはもう、あの深い深い闇の水は消え、光色《ひかりいろ》の空が開かれていた。
 雫がゆっくりと降りて来る。闇色《やみいろ》だったはずの粒子。やさしい雨。それは無数の虹となり、世界に降り注いだ。

 一瞬の虹色。でも、永遠の虹色。