「ハロル!!」

 ミーンの叫び声が響く。
 しかしハロルは炎の中膝を折ることはしなかった。ただ漫然と立ち尽くし、一瞬にして書き上げた言葉の粒を見つめ、重複しないようにさらさらと加筆していく。

【水面に触れただけで凍り付く無表情な風の筆先】【炎の命を薙ぐ極寒の暴風が吹き荒ぶ】【零度の空気は空虚なる深淵を呼び覚ます】【炎の色をなくす障壁が己が身を守る】【冬の頂きは鉄壁の凍てつき】

 そしてさらに別の言葉の並びを新たに創っていく。
 炎が通り過ぎ、ドリシエと目があったとき、彼女は驚愕に穿たれたような顔つきになっていた。

「なん、で……?」

 その驚きはハロルが生きていたから、と言うわけではない。彼女の瞳は、ハロルのその奥を見つめている。

「ハロル凄い! お空みたいなドラゴン!」

 ミーンはハロルの後ろに佇むドラゴンを指して『お空』と称した。青い鱗に包まれ、口と鼻からは白い冷気が漏れている。それはまさに真昼の青空。

「すげえだろ。蒼穹竜(アジュールドラゴン)だ。今こいつからそんなイメージが飛び込んできたんだ」

 ハロルが創筆を滑らせると、蒼穹竜(アジュールドラゴン)は白い吐息を吐きつけた。先ほど溶けて地面に染み渡った水が再び凍り、辺りは銀板に包まれた。
 ツルツルと滑る地面の上では、ドリシエも動けない。

「くっ! アタシのドラゴンの方が強いんだから!」

 ドリシエは動けずとも手を翳すだけでドラゴンを意のままに操れる。吐き出された白い霧のような息に、ドラゴンの炎の息吹が降りかかる。お互いの温度を相殺させながら、炎は徐々に蒼穹竜(アジュールドラゴン)に迫っていく。

(くそ。所詮力を譲って貰っただけのオレの力じゃあ)

 と、そこで急に竜の吐く息の量が増えた。どんどんと白さを増していく。
 振り返るとミーンが蒼穹竜(アジュールドラゴン)に向かって創筆を躍らせていた。先程までの怯えた表情はなく、寧ろ絵描きに興じる子供のように楽しげである。

「ハロルみたいになにもないところに新しいものを書くのは苦手だけど、ハロルが創ってくれたものをもっともっと強くすることなら出来るよ!」

 驚くべきことに彼女が操っていたのは、古代文字。スーの書斎の本を読み漁った彼女だからできる芸当だ。そして当然その古代文字は、ハロルが紡いだ言葉とは重複しない。仮に同じ意味を持つ言の葉だったとしても、別の言葉として効果が上乗せされるのだ。
 今、蒼穹竜(アジュールドラゴン)の強さに重厚な説得力が加算されている。
 書くことに没頭した彼女の手は、凄まじい素早さで舞い踊る。それとは逆に双眸のエメラルドには静寂が落ちている。集中しきっている状態だ。
 夢中になっているミーンを狙って、ドリシエが手を翳した。
 ハロルは地面に張った氷に創筆で書き殴り、ドリシエへと氷の刃を向ける。

「邪魔するなぁあ!」

 放たれたそれは彼女の手首に当たり、鮮血を撒き散らした。

「ああ! ああ……!」

 自分の手首を押さえ、蹲る。しかしハロルは創筆を操る手を止めない。手首を押さえたと言うことは、ケガを治していると言うことだ。次の行動に移るのは向こうの方が早い。隙を与えたら、負ける。氷の板が次々に浮かび上がり、いつでもドリシエに向けることが出来る状態を創り上げた。
 蒼穹竜(アジュールドラゴン)は空気中の水分すらも凍らせる程の息を吐くまでになり、夜を纏ったドラゴンの炎をどんどん押していく。
 ドラゴンの口元にまでそれが届くと、炎は消え、瞬く間に凍り付いた。黒い鱗のすべてに霜が降り、朝日を照り返してキラキラと光った。
 ハロルはドリシエに向けていたうちの一つの刃をドラゴンに向け、投射した。
 氷の刃が突き立てられたドラゴンに一本のヒビが入り、その一本から無数の亀裂が生み出され蜘蛛の巣のように広がった。足の先、尻尾の先までヒビだらけになると、ピシピシと音を立て、瓦解した。
 小さな氷の粒が舞い、陽の光を反射して虹色に輝いた。

「綺麗」

 ミーンの小さな声が、鼓膜の近くで震えるほどに、辺りはシンと静まり返っていた。
 氷の刃に囲まれたドリシエの手首からは今も血が流れ続けている。手当すら諦めたのか、或いは力を使い果たしたのか。ハロルは創筆を構えながら油断なく言葉を放つ。

「ドリシエ。もうお前の負けだ。降参しろ。お前のことはムカつくけど、殺したいわけじゃあねえんだ」

 彼女の肩が震えた。

「こんな……こんな偽物に負けるなんて、そんなのアタシじゃあない」

 ぶつぶつと呟くようでも、彼女の澄んだ声は、簡単に氷の間を縫って届いた。

「ハロルは、アタシのことを凄いねって言ってくれたもの。ハロルだって凄いのに、それでもアタシの方が凄いよって褒めてくれたの。それにドリシエは間違ってないよって言ってくれた。アタシは……、アタシはこんなところでこんな偽物に負けるアタシじゃダメなの!」

 ドクンドクンと、地面から音が聞こえた。ハロルが彼女から視線を切って音のした方を見ると、血色の線が動脈のように蠢いていた。それは彼女を中心に放射線状に伸びている。彼女は手当てのために手を握っていたのではない。流れ出る己の血に対して虚構術を使うために握っていたのだ。それに気付いたハロルは慌てて声を上げる。

「ミーン、避けろ!」

 言われるままに彼女はさがる。すると直後に地面が割れ、大地が激しく脈を打った。血管が張り巡らされた地面は、開花した花が蕾に戻るがごとくに、ドリシエに向かって集まりだした。蒼穹竜(アジュールドラゴン)も流れに飲み込まれ取り込まれてしまう。やがてそれは6メートル四方の大きな岩の塊のようになった。

「いったい、なにが……?」

 地面に包まれたドリシエ。数秒にも数時間にも思える静寂が空気ごとハロルたちを包んだ。そこには言葉を放つのも躊躇われるほどの静謐さが鎮座していた。
 不意に巨大な岩の蕾が震えだし、ビシッと音を立てた。
 ひび割れた岩の中から、腕が飛び出した。それはドリシエのものとは思えない形をしていた。異形と言う形容が相応しい。黒い鱗をびっしりと纏わりつかせた人の腕。それが縦に走ると、岩がカチ割れ、中から本体がドサリと這い出て来た。

 ミーンの息を呑む音が聞こえた。

「アタシハ負ケナイ。アタシヲ壊シタアイツラヲ許サナイ。偽物ハ殺ス」

 元のドリシエとは違う。立ち上がったとそれは、一回りも二回りも大きい。が、人の形をしている。のに、鱗に覆われている。大きく太い尻尾とおまけのような羽は、ぐちゃぐちゃに折れ曲がり、禍々しさをそのまま描いたような形をしていた。

 ——命を犠牲にしている。

 ハロルは姿形を見ただけで、そう悟った。
 虚構術は言葉を費やすほどに強力になる。他の言語を入れるのも効果的だ。さらに具体的な条件が文言に入れば強い虚構術が使える。先程使った【ナイフで結んだトライアングルの中にだけ発動できる】と言うような限定的な言葉がいい例だ。そして条件を限定するということは、端的に言えば覚悟の度合いで強さが変わると言うことでもある。
 彼女は今、己の命を犠牲にしている。
 本物のハロルの力を借りて、さらにはミーンの力も借りて、ようやく倒せるような相手——ドリシエ。その彼女が、命を賭けた虚構術を使っている。この覚悟に太刀打ちできる虚構術など、今のハロルが用意できるはずもなかった。
 目の端にミーンを見る。

(本物のハロルに守って貰えよ。友達になってくれてありがとうな。ミーン)

 心の中でそっと別れを告げる。言葉にしてしまっては、彼女が止めに来てしまうだろうから。
 心の奥底に神経を集中させる。水底のハロルに語り掛ける。

(おい。ドリシエに勝てる方法はもうねえだろ。いい加減オレも覚悟は出来て——)
(キミには、悪いことをしたね。変わるよハロル)

 ハロルは青白い光に包まれ、髪の毛は金髪の癖毛になり、瞳は青くなった。
 それに気付いたミーンはハロルの方を見てなにかを言いたげだったが、口を戦慄かせるばかりで、それ以上は言葉を発せられないようだった。

「ミーン。愛しているよ。なにを言っているかわからないだろうけれど、これはボクの本心だから、受け取ってくれると嬉しいな」

 その言葉にミーンは曖昧にこくりと頷く。今は飲み込めなくとも、いつかわかる日が来ると言う、確信のようなものがハロルにはあった。

「それじゃあハロルをよろしく」

 ハロルは異形と化したドリシエに向かって走り出した。
 額に五指をピタリと付けてから、前方に向かって手を翳す。

「ハ……ロ……る?」
「ちょっと痛くするよ、ごめんね、ドリシエ」
「はろるぅうぅうううう!」

 ハロルの掌から蔦のようなものが伸び、ドリシエに当たると、そのまま彼女を吹き飛ばした。大きな木の幹にぶつかると、蔦がぐるぐると彼女を巻き付ける。
 ハロルはドリシエに近づいて行きながら、ハロルに向かって声を掛ける。

(ハロル、キミを今まで隠れ蓑にしてきてごめん。ボクには現実を受け入れる勇気がなかったんだ。けれど最後、キミの勇姿を見て気付かされた。ボクは今こそ動き出すときなんだって。そして、贖罪のときなんだって)
(ちょっと待てよ。なんだ最後って。贖罪ってなんだよ!)
(ドリシエをあんな風にしたのはボクだ。すべての責任はボクにある。あのときは言えなかった言葉を、届けて来るよ)
(待てって!)
(キミはどうか、キミを生きて)

 身動きが取れなくなったドリシエに向かって、ハロルは渾身の体当たりをした。