ドミドミの声だった。

 闇の中、どこから攻撃が飛んでくるとも限らない緊迫した状況下で、ハロルは創筆を走らせていた。誰からも見えないポンチョの中で。

 慣れない状況では言葉が容易に出てこないことが多いが、なぜだかとても簡単に、するすると紡がれていった。頭がクリアだ、と言うよりは、別人の力が働いているような感覚がある。それに時折、ハロルも知らない単語が頭をよぎるのだ。使えそうかどうかは、経験則でなんとなくわかるので、余さず使うようにした。

 ——シュッ。

 風が切れる音がした。同時にポンチョが跳ね上がり、シャランと音を立てた。捩じれたポンチョが元の形状に戻ると、中からナイフが落ちる。

「ケヒャッ! やるな……」

 暗がりをざらつかせたような声だ。鼓膜が揺さぶられると同時に、心臓まで震える。だが怖気づいている場合ではない。

「ミーンをどこにやった!」

 言いながらもハロルはナイフを拾って、ポンチョの中に隠した。依然返事はないが、答えないことが既に返答になっている。

「隠れてないと勝てないのか? 陰湿野郎」
「浅い……挑発」
「どうだろうなあ! 早く出てこないとまずいかも知れないぜ? ナイフをバカスカ投げてるだけじゃあ勝てないぜ」

 ——シュッ。
 ——シャラン。

 風切り音が聞こえたと同時にポンチョがナイフを払い落としている。【硬質化】と【受動防御】の虚構術をポンチョに使っている。近づかれて連撃を打たれたら反応しきれないが、一本一本が遠くから直線的に放たれている以上は、ハロルの安全は約束される。
 ハロルは早く出てこないとこちらには奥の手があるかのように振舞い挑発した。相手はそれを嘘だと感じ取ったが、その実ナイフを投げているだけでは勝てない。つまり裏の裏。本当のことを言ったのだ。相手は暗闇の中死角から襲ってくるようなタイプだ。嘘を見抜く力はあれど、本当のことを信じる力はない。
 落ちているナイフを拾う。創筆を走らせる。

「見ている……ナイフ拾った。二本……どうする気だ」

 見られている。それを知ったハロルは大きく舌打ちをした。その瞬間に、ナイフを落としてしまう。

「あっ!」
「ケヒャッ! ど素人!」

 ドミドミの声が一気に近付き、後ろでドンと音がする。

「な……」

 ハロルは、そのまま落としたナイフを拾った。それを手中で遊ばせて、くるりと振り向いた。翻《ひるがえ》ったポンチョが一瞬だけ顔を隠す。もう一度ドミドミと見合ったとき、ハロルは口角を吊り上げ、不敵な笑みを浮かべていた。赤色の瞳が、闇の中でゆらりと光る。

「なんだ……これは」

 ドミドミは動こうとするが動けない。足が地面にへばりついて、まったく動かせなくなっている。

「虚構術だぜ」
「いつの間に……」

 手にしたナイフの上でサラサラと創筆を躍らせた。

「ナイフを拾って、ナイフに虚構術を掛けたように見せかけたけど、実際オレが創筆を向けていたのは地面だ。オレを中心に4メートル、人を捕らえる蜘蛛の巣を張った」
「まさか……落としたのも舌打ちも」
「ブラフに決まってんだろ」

 ドミドミはナイフで自分が立っている地面を切った。しかし蜘蛛の糸が切れるように切れてくれたりはしない。

「無駄だぜ」

 ドミドミはナイフを下段から投擲。ポンチョが届く範囲外だ。

 ——ガキィッ!

 しかしナイフはハロルに辿り着く前に音を立てて落下。地面に刺さった。

「なに……!?」

 ドミドミのナイフを落としたのはナイフだった。赤く発光している。同じく光るナイフがもう一本宙に浮いており、それらがハロルの周りをくるくると旋回している。

「ちょっと暗いからな。明るくしたぜ。このナイフは向かってくる攻撃を撃ち落とす。お前の手が二本しかない以上、そこからどれだけオレにナイフを投げても無駄だぜ」

 ドミドミはケープの襟に手を突っ込んだ。両手で足りないならば吹き矢を使おうという魂胆なのだろう。ハロルは落ちたナイフを拾い上げ創筆を走らせ、さらに飛び回っているナイフやポンチョにも次々に書き足していく。

「重複しない限り、言葉を重ねた方がより複雑なことが出来るようになるんだぜ」

 ニヤリと笑う。これで敵は動けず、攻撃も出来ない。

「こんな……虚構士如きに」
「いきなり接近戦だったらオレの負けだった。早すぎて見えねえからな。真っ向勝負されてたら負けてたぜ」

 ハロルは勝利宣言をしながらもなお、創筆で書き足し続けている。ロングブーツにも創筆を走らせる。こういうとき、膝まで隠れるくらい長い靴だと、書くときに膝や腰を大きく曲げなくて良いから便利だ。ハロルはそれも込みでこの格好を好んでいた。
 スタスタと歩き始める。ドミドミの動きを止めるのが最優先事項であったため、自分も『蜘蛛の巣』の虚構術で今まで動けなくなっていたのだ。
 ドミドミの後ろに回った。近くにあった木に創筆を走らせると、ぐにゃりと曲がり、ドミドミの周りを取り囲むようにしてとぐろを巻いた。

「さーて、ドミドミ。ミーンを返して貰おうか。それと、ナガーの解毒薬もだ」


 ※  ※  ※  ※


 ミーンは木に縛り付けられ、猿轡を噛ませられていた。
 解放してやると、ミーンは地面にへたり込んだ。

「大丈夫か!?」
「うん。ちょっと怖かったけど大丈夫。ありがとう」
「ああ。いいって」

 ミーンは辺りをキョロキョロと見回した。

「ドミドミは?」
「木でぐるぐる巻きにしておいた。虚構術が解けるまで出て来れない。それに」

 ハロルは解毒薬を掲げた。

「これでナガーも助けられるぜ」
「わぁ!」

 ミーンは顔を綻ばせ、胸の前で掌をポンと合わせた。
 それから気まずそうに視線を逸らして、ごにょごにょとなにかを言い出した。

「うん?」

 一歩前に出たハロルの指先を摘まんで、それから両手できゅっと握った。

「さっきはごめんね。わたしはハロルに居なくなって欲しいなんて思ってないんだよ? ハロルはハロルが本物なんだし、男の子のハロルは、その」

 スーを奪還する作戦の中、ミーンもハロルと等しく命を賭けている状態だ。スーは二人の師匠だが、ミーンの方が圧倒的に日が浅い。薄情な人間なら逃げていてもおかしくないだろうし、実際そうしたとしてもハロルは止めない。彼女は逃げたっていいのに付いて来てくれている。ましてや敵の術中にハマったとは言え、ハロルが虚構術を国外で使ったせいで危険な目に遭っているというのに、一言も文句を口にしない。しかしその実心細いはずだ。強いハロルに頼りたいと思うのは、必然的と言える。彼女を責めることは出来ない。

「ああ、いいって。確かに今みたいに危険な状態になったら男のハロルの方がいいだろうぜ。さっきだっていきなり接近戦だったら死んでたし、お前の言うことはわかる、けど」

 そこまで言って、ハロルは目を瞑った。

「……でも、ごめん。怖いんだ」

 肩を震わせた。ミーンは背伸びをしてハロルの頭に掌を乗せた。

「わかった。ハロル、その代わりわたしを置いて行かないで。もしかしたらさっきだって一緒なら簡単に勝てたかもしれないよ?」

 明るいミーンに照らされたハロルは、思わず笑ってしまう。

「そりゃあ違いないな」