彼にはそれを嘘に変えるほどの力がなかった。
 歪な夕景だった。藍色に染まってしまったはずの空が、もう一度朱色を取り戻している。

「はあ、はあ、はあ……!」

 くるくると癖のある金髪を揺らしながら、妹の手を引いて、一心不乱に走っていた。妹が石に躓いて、少年の手から離れる。

「ああ……!」

 駆け寄って肩を抱く。木々の間から少年の眼に映った村は、灼熱に包まれている。息が切れるまで走って来たというのに、炎がまだ目前にあると感じられるほどに頬が熱い。
 妹が抱えていた膝を見ると、擦り剝いていた。

「ふぇ……! うぇえええん!!」

 幼い妹は声を上げて泣き出してしまった。少年は呼吸を整えながら五指をピタリと自身の額につけ、反対側の掌を彼女の膝に当てる。ケガは最初からなかったかのように消えてしまう。少女も泣き声を潜めた。
 これくらいの傷なら治せる。だがもしも、あのドラゴンの吐息で焼かれて跡形もなくなってしまったら、どうすることも出来ない。少年は自分の虚構術(きょこうじゅつ)がそれほど万能でないことを承知している。

 彼は再度五指を額に宛てがうと、樹木にもう片方の掌で触れた。瞬間に木は一羽の大鳥に姿を変えた。
 大きく白い羽をバサリと開いてから、背中を向ける。妹を先に乗せて、少年も跨ろうとする。

「居たぞ!」

 背中の方で発せられた声が耳に届く頃、首には鈍痛が走っていた。
 目眩を覚えた少年はそのまま膝を突き、それでも大鳥に手で合図を送る。大鳥は足をたわめ、ぐっと姿勢を低くした。

「やだよお兄ちゃん!」

 少年を残して飛び立とうとする大鳥の挙動に気付いた妹は叫んだ。
 しかし彼女から伸ばされた手を取ることはできない。少年はそのまま倒れ、大鳥は竜胆(りんどう)色の空へと羽ばたいていった。
 土の味と血の味がした。混濁した意識では、それらを吐き出すこともままならない。しかしそれでも、妹の無事を願った。
 そこに無遠慮な足音が近づいてきた。さきほど少年の首に一撃を見舞った者たちだろう。大人三人が、肩で息をしながら、目尻を吊り上げて震えていた。

「よくも……! よくも俺たちの村を……!!」

 大人たちのうち一人に蹴られ、ゴロンと仰向けに転がるが、それ以上の反応はない。少年は傷と(すす)に塗れていた。自分のケガを治している余裕などありはしなかった。
 男がさらに一撃を加えようとしたところで、隣にいた男から「ひぃっ」と小さな悲鳴が上がる。同時に男は焼け焦げ、瞬時に炭化すると襤褸(ぼろ)切れのように散り散りに舞った。風に殴られ夜の森に溶けて行った元男を、残った二人は唖然として見送る。その塵の先に赤い光が二つ浮かんでいた。それは少女の瞳だった。
 少女は銀色の髪を払いながら言葉を吐き出す。

「ゴミども」

 言葉の汚さのわりに、とても澄んだ声だった。
 少女は大人たちを蔑むように睨んでいた。
 彼女の横にはドラゴンが居た。全身を黒い鱗に覆われていたが、所々に村の炎が反射して明滅していた。それはまるで星の瞬きで。夜空を纏ったかのような体躯をしていた。

「な、なんで……!?」

 男がようやく口にした言葉も、問いかけとしてはあまりに具体性に欠ける。少女は赤い瞳を細め、口角を吊り上げて、答える代わりに手を(かざ)した。それを合図にドラゴンは火を吐き、残った大人二人は声を出す間もなく消し炭になった。

 少女はしばらく黙したまま倒れた少年を見つめていたが、突然息を荒くした。呼吸を整えるための深呼吸をするとボロボロと涙が零れた。おもむろに踵を返し、荒い息を整えながらその場をよたよたとした足取りで離れて行った。