盗んだのは、何だったのか。
はあ、はあ。
俺は息を切らしながら夜の闇の中を駆けていた。背中にはたった今盗んできたモノを乗せて。
くす、くす。
背中からはかすかな笑い声がする。何がそんなにおかしいのだろう、この女は。
長年恋い焦がれていた。けれど、女の一族に反対されて想いを遂げることができなかった。
それならば、いっそ。
俺はこの女を盗むことにした。そして、今、背負って逃げている。
早く遠くに。この女の屋敷から遠くへと逃げなければ。
「ん?」
がくりと膝をつきそうになった。背中の女が急に重くなった気がしたからだ。そろりと後ろを振り返る。
「ふふふ」
女は恥ずかしそうに袖で顔を隠してしまった。仕方ないので再び前を向いて走りだす。
どのくらい逃げたのだろうか。道はどんどん暗くなっていく。もう都大路の明かりは全くない。俺は少し歩みを緩やかにした。そうすると、汗が引き、ぞくりと寒気が襲ってきた。背中には女が乗っているのに、全くその温もりを感じられない。
「寒くないですか」
俺は前を向いたまま女に問いかける。
「寒くないわ」
女が初めて言葉らしきものを発したことに安堵し、俺はまた駆けはじめた。
しばらく行くと、川が見えてきた。
「もう芥川まで来たか」
俺が呟くと、女はすっと俺の顔の横から指を指し示した。
「あれは何かしら」
女の指差すほうにじっと目を凝らす。
草の上。何かがたくさんきらきらと光っている。
「ああ、あれは露……」
言いかけた瞬間、背後から女の白い手がさっと伸びてきて俺の口を塞いだ。
白い粒の中に黒い陰が現れる。その白い光がゆらりと一斉に動き始めた。無数の目玉がこちらを見つめるように。
「真珠かしら」
女がそう言葉を紡ぐと、白い粒の動きは止まった。
見間違いか? いや、そんなことは。
首筋に女の冷たい息がかかった。
「真珠かしらね」
女が再び楽しそうに尋ねてきたが、口を押さえられている俺は無言で川から離れた。
遠くから雷の音が聞こえた。と思うと、雨粒がひとつ頬に落ちてきた。
「まずいな」
俺は暗闇の中、あたりを見回す。大路から遠く離れてしまったここには、雨宿りできる場所は見当たらなかった。
そのうちどんどんと雨脚が強くなってきた。背中にいる女は俺よりもずぶ濡れになってしまうだろう。
「あ」
遠くに物陰が見えた。近づくと、あばら屋がひとつたっていた。
「ひとまずここに入ってください」
俺は女を背中から下ろした。
「まあ、素敵」
女はあばら屋を見て口許を隠しながら悦んだ。
俺は女を押し込んだ。
「あなたは入らないの?」
「追手が来るかもしれませんから。俺は外で見張っています」
俺は弓矢を構えて戸口に立った。
「まあ、怖いこと」
女は言葉とは裏腹に愉快げにささやき、奥へと消えていった。
俺はあばら屋に背を向けた。
ーー早く夜が明けろ。
何故だろう、それしか考えられなかった。
雷雨はますます酷くなっていく。
だから聞こえなかった。
あばら屋の中から、何か獣のようなものの叫び声がしたことに。
ようやく東の空が白み始めた。俺はそうっとあばら屋の戸を開けた。
朝の光があばら屋の奥まで差し込む。
そこに、女はいなかった。
何故だ。出入りはこの戸からしかできないはず。
あばら屋の中に足を一歩踏み入れる。何かを踏みつけた。
俺は息を飲んだ。
見たことのないような角が生えた小さな獣たちが転がっていた。肉と骨を晒して。
手のひらくらいの大きさのそれらは、食いちぎられたような無惨な姿をしていた。
俺は後ずさった。そして戸を閉める。
俺が盗んだのは、何だったのか。
足ががくがくとしてくる。知らずに目からは涙が溢れ始めた。
「真珠かしら」
あの時の女の声が頭の奥で響いた。
「真珠かしらね」
そう問われた時、そうではないと言えていれば何か変わったのだろうか。
でも俺は見てしまった。食いちぎられたこの世のものではない獣を。そして、それを食らったのは。
背中の重み、首筋にかかる吐息。
我が身を掻き毟る。
「あ。ああああああ……!」
あの時、露とともに消えてしまっていれば。
はあ、はあ。
俺は息を切らしながら夜の闇の中を駆けていた。背中にはたった今盗んできたモノを乗せて。
くす、くす。
背中からはかすかな笑い声がする。何がそんなにおかしいのだろう、この女は。
長年恋い焦がれていた。けれど、女の一族に反対されて想いを遂げることができなかった。
それならば、いっそ。
俺はこの女を盗むことにした。そして、今、背負って逃げている。
早く遠くに。この女の屋敷から遠くへと逃げなければ。
「ん?」
がくりと膝をつきそうになった。背中の女が急に重くなった気がしたからだ。そろりと後ろを振り返る。
「ふふふ」
女は恥ずかしそうに袖で顔を隠してしまった。仕方ないので再び前を向いて走りだす。
どのくらい逃げたのだろうか。道はどんどん暗くなっていく。もう都大路の明かりは全くない。俺は少し歩みを緩やかにした。そうすると、汗が引き、ぞくりと寒気が襲ってきた。背中には女が乗っているのに、全くその温もりを感じられない。
「寒くないですか」
俺は前を向いたまま女に問いかける。
「寒くないわ」
女が初めて言葉らしきものを発したことに安堵し、俺はまた駆けはじめた。
しばらく行くと、川が見えてきた。
「もう芥川まで来たか」
俺が呟くと、女はすっと俺の顔の横から指を指し示した。
「あれは何かしら」
女の指差すほうにじっと目を凝らす。
草の上。何かがたくさんきらきらと光っている。
「ああ、あれは露……」
言いかけた瞬間、背後から女の白い手がさっと伸びてきて俺の口を塞いだ。
白い粒の中に黒い陰が現れる。その白い光がゆらりと一斉に動き始めた。無数の目玉がこちらを見つめるように。
「真珠かしら」
女がそう言葉を紡ぐと、白い粒の動きは止まった。
見間違いか? いや、そんなことは。
首筋に女の冷たい息がかかった。
「真珠かしらね」
女が再び楽しそうに尋ねてきたが、口を押さえられている俺は無言で川から離れた。
遠くから雷の音が聞こえた。と思うと、雨粒がひとつ頬に落ちてきた。
「まずいな」
俺は暗闇の中、あたりを見回す。大路から遠く離れてしまったここには、雨宿りできる場所は見当たらなかった。
そのうちどんどんと雨脚が強くなってきた。背中にいる女は俺よりもずぶ濡れになってしまうだろう。
「あ」
遠くに物陰が見えた。近づくと、あばら屋がひとつたっていた。
「ひとまずここに入ってください」
俺は女を背中から下ろした。
「まあ、素敵」
女はあばら屋を見て口許を隠しながら悦んだ。
俺は女を押し込んだ。
「あなたは入らないの?」
「追手が来るかもしれませんから。俺は外で見張っています」
俺は弓矢を構えて戸口に立った。
「まあ、怖いこと」
女は言葉とは裏腹に愉快げにささやき、奥へと消えていった。
俺はあばら屋に背を向けた。
ーー早く夜が明けろ。
何故だろう、それしか考えられなかった。
雷雨はますます酷くなっていく。
だから聞こえなかった。
あばら屋の中から、何か獣のようなものの叫び声がしたことに。
ようやく東の空が白み始めた。俺はそうっとあばら屋の戸を開けた。
朝の光があばら屋の奥まで差し込む。
そこに、女はいなかった。
何故だ。出入りはこの戸からしかできないはず。
あばら屋の中に足を一歩踏み入れる。何かを踏みつけた。
俺は息を飲んだ。
見たことのないような角が生えた小さな獣たちが転がっていた。肉と骨を晒して。
手のひらくらいの大きさのそれらは、食いちぎられたような無惨な姿をしていた。
俺は後ずさった。そして戸を閉める。
俺が盗んだのは、何だったのか。
足ががくがくとしてくる。知らずに目からは涙が溢れ始めた。
「真珠かしら」
あの時の女の声が頭の奥で響いた。
「真珠かしらね」
そう問われた時、そうではないと言えていれば何か変わったのだろうか。
でも俺は見てしまった。食いちぎられたこの世のものではない獣を。そして、それを食らったのは。
背中の重み、首筋にかかる吐息。
我が身を掻き毟る。
「あ。ああああああ……!」
あの時、露とともに消えてしまっていれば。