朝だ。カーテンの奥から漏れる光が眩しくてもう一度目を閉じる。

「おはよう」

 再度微睡みに沈もうとしている僕に誰かが声をかけた。聞き慣れない声に布団から這い出し部屋を見渡してみるが誰もいない。聞き間違いか寝ぼけていただけか。そう解釈した僕にもう一度「おはよう」と声が聞こえてくる。軽やかで少し甘い女の子の声だ。
 カーテンを開けても何もない、声は近い場所から聞こえた気がしたけど念の為に廊下まで向かったがやっぱり誰もいない。……幻聴か?

「ごめんごめん。私のことは見えないと思うわ」
 クスクスと笑い声と共にはっきりとした言葉が聞こえた。姿が見えないのに聞こえる声……それはつまり……

「幽霊だと思う?」僕の思考を読んだように声は尋ねた。答えられずにいると声は続く。
「幽霊かもしれないし、違うかもしれない。でも私、あなたの身体の中にいるみたい」
「はあ?」
「憑りついちゃったのかしら」

 自分の身体に別の誰かが入り込んでいる。――それは、かなり不気味で恐怖を感じる出来事のはずなのだが。のんびりとした柔らかい声が不安を打ち消す。

「君は誰なんだ?」
「実はそれがわからないの。わかるのはコトって名前だけ。あとは声から考えて女だと思う。自分の記憶はないけど全くの無知ってことはなさそうよ。部屋にある物の名前だとかはわかるから」
「じゃあ記憶喪失の幽霊ってわけか」
「死んだ記憶もないんだけどね」

 知らない人間の身体に入り込んでしまったのなら、彼女こそ不安と恐怖に包まれてもおかしくないのにまるで緊張感がない声だ。声でしか判断はできないけど、彼女の心も軽やかに思えた。

「君は僕の知り合い?」
「気づいたら眠ってるあなたの中にいたのよ。だからあなたの顔も名前も実は知らない。ちょっと鏡の前に移動してくれない?」

 言われた通りに姿見の前にたってみる。大きな特徴のない自分の姿がうつると「知らないなあ」と呑気な声がした。

「あなたの名前を教えてよ、それから簡単な自己紹介も」
「安藤イツキ。年齢は20歳。夏季休暇中の大学生で、ここは僕が住んでるアパート」
「イツキ、よろしく。私、身体から抜け出せないみたいなの。だから少しだけあなたの身体に住ませてもらうわね」

 コトは悪びれる様子もなくさらりと言った。これくらい軽く言われるとあまり不快な気持ちにもならない。

「悪さするなよ」
「って言っても何にもできないのよね。さっきあなたが寝ているうちに鏡を見ようと思ったんだけど身体は全く動かなくて。私の視界はあなたの視界とリンクしているみたいだし。あなた視点のただの傍観者だわ」
「まさか僕の脳に住んでいるっていうのか?それこそちょっと気味悪いけど……」
「ねえ、今日って何年何月何日?」

 僕の言葉を何も気にしていない様子のコトは軽い調子で尋ねた。「カレンダー」と僕が呟くと、目の前の空間に電子の数字が浮かび上がった。

『2053年8月3日 10:03』

「もしかしてタイムリープとかだったりする?」
「記憶がないからわからない。だけど時は越えてないんじゃないかしら。カレンダーを出現させた技術は私も知っているから」
「なるほど。これを知らないわけでも古いと思うわけでもないんだ」

 例えば30年前、自分の親世代の頃はスマートフォンと呼ばれる小さな機械にすべての便利機能は詰まっていたのだという。連絡を取り合ったり何かを調べたり動画を見たり。今は電子チップを埋め込んだ指輪をつけていれば目の前の空間に何でも映し出される。

「私は自分の身体に戻れるのかしら」
「戻ろうにも誰に戻るのかわからないんじゃな。案外明日目が覚めたら元に戻ってるかもしれないけどね」
「でもこんな風に誰かの身体に取り憑いちゃっているなら……やっぱり私は幽霊なのかしら?」
「そう思うのが一番しっくりくるな」
「お願い、イツキ!私が誰なのかを一緒に探してくれない?私が自分のことを思い出したのなら、きっと成仏できると思うのよ。お願い」

 自分を成仏させて欲しいだなんて変わったお願いをする幽霊だ。大層なことを言っているのに、声はお気楽なままで。彼女が既に死んでいるのだと思うと切なくなるけれど。

「お気楽だなんて失礼ね」
「僕の心を読めるのか?」
「……多少は」
「それなら早く成仏してもらおう」
「ひどい!」
「はは。でもどちらにせよコトが何者かは知りたいよ。もしかしたら普通に生きているかもしれないよ」
「その間私の身体はどうなっているのかしら?とにかく思い出さなくちゃどうにもならないわね」

 かといって彼女の正体を突き止める方法はさっぱり浮かばない。名前しか情報はないけどコトなんて何万人もいそうな名前だし、彼女は僕のことを知っているわけでもない。以前見た映画で記憶喪失の主人公が思い出の物をみた瞬間に思い出していたっけ。

「思い出の場所とか物を見れば、何かひっかかりがあるかもしれない」
「見た瞬間に懐かしく思ったり、ハッとする感じかしら」
「そうだ。今はヒントが何もないからとにかくたくさん出かけてみるのがいいかも」

 コトがこの街の人間ならば景色を見て何かピンとくるものがあるかもしれないし、見覚えが全くないのならいくつかの景色を見せて近いものを掘り下げていくのもいいかもしれない。

「すごく協力的ね」
「心を読むのはやめてくれないか」
「ごめんごめん。でも本当に感謝しているのよ」
「……僕、今から着替えるんだけど」
「どうぞ」
「僕視点なんだろう?見えないように目をつむるとかできる?」
「あはは。イツキって繊細ね」

 そっちが図太いだけだろうと文句を言いたくなったが、この心の声も聞こえてるんだった。