15時。それは私の好きな時間。
ランチタイムがだいぶ過ぎた時間に、私のランチタイムがやってくる。
街中の小さなお弁当屋。ここが私の職場だ。
店舗兼住居となっていて、1階がお弁当屋。二階が住居。私の住まいで唯一の居場所でもある。
「未央、今日の賄いはなにがいい?」
「純さんのオムライスがいいです!」
「了解。今作ってくるから、もう少し待っていてな?」
柔らかく笑う彼はこのお弁当を営んでいる純さん。私の雇い主であり、救世主だ。
♢
私と純さんの付き合いはそこそこ長い。
はじめて会ったのは高校生の時だった。卒業を数日後に控えた冬、母が事故で亡くなった。母はシングルマザーでずっと親子二人で暮らしてきた私は、前触れもなく突然独りぼっちになった。父親の居所は分からないし、祖父母もいない。助けてくれる大人が誰もいなかった。
進学が決まっていた大学は入学を取り消した。卒業を控えた2月に、今更就職活動をしたところで見つかるはずもない。
母と住んでいたアパートは賃貸。経済能力がない私は立ち退きを余儀なくされた。光り輝いていた未来が急に真っ暗になった。これが途方に暮れることだと実感した。
母の面影を探して、自然と足がある場所へと向かっていた。
ぴたりと足が止まり立ち尽くした。
見覚えのある景色が変貌を遂げていたからだ。
「ここに、お弁当屋さんがあったはずなのに……」
立ち止まった先には、古びたお弁当屋さんがあるはずだった。仕事で忙しい母とよく買いに来た馴染の店だ。
店主のおばちゃんは「未央ちゃん」と名前を覚えてくれて、いつも優しく話しかけてくれた。このお店のお弁当もおばちゃんも大好きだった。
お店の一面に飛散防止ネットが貼られていて、看板もなくなっていた。
いつも当たり前にあると思っていたものが消えていく。大好きだったものがみんな消えていく。
突如堰ためていた何かが崩れ落ちるように涙が溢れた。力をなくした足は立ち上がることもできない。通行人に好奇の目で見られようが関係ない。自分の意志とは関係なく涙があふれてきた。
そんな時だった。純さんと出会ったのは。
誰も声を掛けてくれない私に、優しい声が降ってきた。
「大丈夫?」
必要以上に距離感を保ちながら、心配そうにのぞき込んできた純さんの顔を今でも覚えている。
話を聞くと、純さんはおばちゃんの息子さんだった。体調を悪くして入院したおばちゃんの代わりに、お弁当屋さんを引き継いだらしい。
引き継ぐと同時にリフォームをするのだと教えてくれた。初めて会ったのに安心感を覚えたのは、大好きなおばちゃんの息子さんだったからなのかもしれない。
私の身の上話を聞いた純さんは、この店で働くことと2階に住むことを提案してくれた。
純さんの住まいでもあるため、ルームシェアということだ。男性と暮らす。普通は躊躇することだが、家も家族もいない私には断る選択肢はなかった。
純さんに出会えていなければ、私はホームレスなっていたかもしれない。彼のおかげで救われたのだ。
こうして始まった新しい生活は、とても居心地が良かった。お弁当を買いに来てくれる常連さん。優しく面倒見のいい純さん。
それは、あたたかいひだまりに囲まれているような生活だった。家族がいない私にとって落ち着く居場所となっていた。
ここに住むのはお金が貯まるまでの予定だったが、純さんの優しさに甘えて今もここでお世話になっている。
そして、言えない秘密。
私が純さんと離れたくないのだ。
純さんとの暮らしが幸せだった。
秘めた気持ちはいつか伝えられたらいいな。くらいにしか思っておらず、この平穏がいつまでも続くものだと信じて疑うこともなかった。
従業員は純さんと私だけ。キッチン一人と受付一人で足りるくらいの小さなお弁当屋さんは今日も繁盛していた。
「未央ちゃん。日替わり弁当二つお願いね」
「佐藤さん。いつもありがとうございます」
「旦那さんのお弁当。主人が大好きでね。私たち夫婦そろって好きなのよ」
佐藤さんは近所に住む老夫婦。週に2~3回お弁当を買いに来てくれる常連さんだ。佐藤さんは私たちを夫婦だと誤解している。何度か否定したけれど、毎回言われるので否定することをやめた。事実ではないと頭で理解しながらも、夫婦と思われることに安らぎを覚えた。嘘でも誤解でも、夫婦だと言われると心が浮き立つのだ。
お昼の時間は過ぎ去り、お客さんも足を運ばなくなった。ランチタイムの営業が終わりかけた頃、弾むような声が飛んでくる。
「未央! 調子はどう? お弁当買いに来たよー」
「美和子! 来てくれたんだ。ありがとうー。何弁当にする?」
美和子は中学からの同級生だ。今は出版業界で働いている。不規則な生活なようで、こうしてお店が混雑する時間とズレたタイミングでやってくる。
「なににしようかな?」
「あ、でも。そろそろ店じまいだったから、できないものも多いかも」
「そうなの? 日替わり弁当食べたかったなー」
口をすぼませてすねる美和子の癖は学生の頃から変わらない。日替わり弁当のメインのおかずは鮭の竜田揚げだ。
肉より魚が好きな美和子は残念そうに顔を歪めた。
「純さーん。日替わり弁当いけますか?」
厨房にいる純さんに声を投げかけると、ゆっくりと純さんが店頭に顔を出す。
「ん? いけなくはないけど……あ! 美和子ちゃんか。美和子ちゃん、鮭の切り身が小さいけどいい? 他のおかずたくさんおまけしとくからさ」
「全然大丈夫です! 他のおかずおまけしてくれるならラッキー」
「ははっ、ありがとねー」
純さんはからりと笑って、奥のキッチンへと戻っていった。純さんと美和子の会話はありきたりなものだった。なのに、違和感を感じた。と同時に胸がずきっと痛い。
その後も美和子は声をかけてくるが、頭に会話が入ってこない。顔が引きつってうまく笑えない。
お弁当を作り終えた純さんがまた顔を出した。
「美和子ちゃん、肉より魚派だもんね! 次はたくさん用意しとくからまたきてよ」
「もちろん! 純さんの鮭の竜田揚げ大好きなんだよね」
あれ、美和子と純さんってこんなに仲良かったっけ。数回しか会ったことないはずなのに。
感じた違和感がどんどん膨らんでいく。ずきずきと胸の痛みも強くなる。
「未央? どうした?」
声を掛けられて、ハッとした。美和子は心配そうにのぞき込んでくる。
「な、なんでもないよ?」
「ならいいんだけど……」
気まずいのは私だけなようで、美和子と純さんの笑顔はいつもと変わらない。引きつった笑みを浮かべているのは、この場で私だけだ。
「300円でいいよ? メインのおかず少ないのに、正規の値段は取れないからさ」
「ラッキー。ありがとうございます」
普通の会話のはずなのにこれ以上二人の会話を聞きたくなかった。耳に届くたびに胸が押しつぶされたように痛い。
美和子は私に向けていた視線を純さんに向けた。そしてゆっくりと口を開く。
「……あ、あの。純さん。少し話せます?」
「あー。うん」
純さんは気まずそうに返事をすると、ちらりと私に視線を向けた。二人から視線を受けるたびに、邪魔ものだと言われているようだった。
純さんは私の救世主で。美和子は私の親友。
そのはずだった。だけど、純さんと美和子の間には私の知らない関係がある。そう感じずにはいられなかった。
「わたし、そこのコンビニで飲み物買ってきます」
「あー、うん」
逃げるようにその場を後にした。2人から離れても心は落ち着く気配がない。これが嫉妬というものなのかな。
荒れた心を引きずりながらコンビニでほしくもないお茶を購入した。ゆっくり歩いていると、ちょうど1人になった美和子と鉢合わせになる。
「美和子……話大丈夫だった?」
「う、うん」
美和子の瞳が少し赤いように見えた。
「大丈夫?」
「う、うん! えーっと。仕事戻るね、」
「……美和子さ、純さんと。あんなに仲良かったっけ?」
「え……」
美和子の表情が一瞬曇る。何か考えるような顔をして、口を開いた。
「えー。いや? 前からこんな感じだったよ?」
途切れ途切れの言葉が美和子の動揺を表しているようだった。笑顔も引きつっているように見える。
「純さんと……その、なに話してたの?」
「えーっと。世間話! そう、世間話!」
「そっか、」
美和子は分かりやすく目が泳いでいた。
美和子と純さんには、私が知らない二人の時間が流れている。そう推測せずにはいられなかった。
心に広がるモヤモヤが治ってはくれない。
私がいないところで、純さんと美和子が会っていようが別に問題はない。
分かっているのに、どうしてこんなに胸が苦しいのだろう。
泣きたくなるのを必死に堪えてお店に戻った。今は話したくないのに、純さんと目が合ってしまう。
「……大丈夫?」
「すみません。仕事戻りますから……」
「なにかあった?」
彼の優しい声が耳に届くと、なぜか泣きたくなった。
頬を冷たいものが伝う。初めての嫉妬で荒れた心が助けを求めるように涙を流している。
泣きたくなんてなかった。親友に嫉妬してしまう自分の醜さを認めてしまうようで嫌だった。
だけど、認めるしかない。完全に嫉妬しているんだ。
「未央?! な、泣いている?! どうした?! なにかあった?」
純さんは泣いている私を見ると、目を見開いて驚いていた。慌てた様子で質問攻めをしてくる。涙の原因が自分だなんて、考えてもいないかのように。
「美和子のことが好きなら……私、ここから出ていきます」
心とは正反対のことを口にしていた。
本当は離れたくない。
だけど、今の私にそんなこと言う権利はなかった。
「え、美和子ちゃん?」
「美和子といい感じなんですよね?」
「なんでそうなるの?!」
「だって、美和子のこと苗字で呼んでましたよね? それが突然名前呼びになったら、誰でも察しますよ」
「出会ったばかりの頃はね、苗字だったけど。未央に紹介してもらってから、まあ、付き合いも長くなったし」
「え、長いですか? よく来るようになったのは数か月ですよね? やっぱり……」
「違う! 違う! 断じて美和子ちゃんとはなにもないから! 俺が好きなのは未央だから」
思いもよらない告白に、心臓が止まるかと思った。
次の瞬間には、心臓の鼓動が急加速してうるさく鳴り響く。
好き?
純さんが私を?
「俺はずっと。ずっと……未央のことが好きだよ」
改めてもう一度伝えられた言葉は、心のど真ん中に突き刺さる。
「私も好きです……」
絞り出した声は震えていたかもしれない。
誰かに好きと伝えることがこんなに緊張するだなんて知らなかった。
恥ずかしくて伏せていた視線を純さんに向けると、彼は涙を流していた。
「え。え?!」
まさかの事態に分かりやすく動揺してしまう。好きと伝えただけで泣かれるとは夢にも思っていなかった。
「純くんって呼んで?」
「……純くん、」
「……っ、いいね。その呼び方。……っう。俺、好きだな。その呼び方」
「これからは、純くんって呼びますね……」
呼び方が変わった。ただそれだけなのに、恥ずかしさと嬉しさが込み上げる。
純くんは頬を濡らすほど、涙を流していた。
「え、そんなに泣かれると、どうしていいのか分からないです」
こんなに男泣きをまじかで見るのは初めてで正解の対応が分からなかった。
戸惑っていると、身体があたたかいぬくもりに包まれる。
初めて抱きしめられたはずなのに、どこか懐かしいような。
彼の涙につられてしまったのか、なぜか目の奥が熱くなる。
抱きしめられる腕の力がさらに強くなる。それは身体がきしむ痛いほどに。彼から痛いほどに感情が伝わってきて、苦しいほどの痛みさえ心地よかった。
「未央。大好き」
今の私の感情を言葉で表すなら「幸せ」だ。
「僕のこと好き?」
「えー。どうしたの? そんなキャラでしたっけ?」
「……」
「好きだよ! 大好きだよ!」
精一杯気持ちを言葉にすると、また嗚咽が耳に届いた。
「だから泣きすぎだってー」
「う、うん……ありがとう。ありがとう」
いつまでたっても泣き止まないので私は半分呆れ顔だ。
この人となら幸せになれる。目の前で泣き続ける彼をみて確信に変わった。
これから先の未来には、幸せしか待っていないと。そう信じて疑わなかった。
♦︎
一階が小さなお弁当屋。二階が僕たちの住まいだ。
「僕たちの住まい」今はそう表現するのが正しいのか分からない。
交際して3年後。僕たちは結婚した。結婚後も変わらず二人でお店を回して、休みの日は少し遠くまで出かけたり充実した結婚生活を送っていた。
ただ、その幸せは長く続いてはくれなかった。
最初は少しの違和感だった。未央の物忘れが多くなった。小さなお弁当屋だ。少しの間違いなら常連さんも許してくれたし、そばで気づけてすぐにフォローすることができた。
結婚生活はうまくいっていた。
そのはずだったのに。
病院で診断されたのは「若年性アルツハイマー病」。最近はドラマなどで目にして知っている人は多いだろう。僕もドラマの影響で少しばかりの知識はあった。
未央の記憶から初めに消えたものは「病気の告知」だった。つまり、未央は自分が若年性アルツハイマー病だということをわかっていない。
この病気は新しい記憶から忘れていくことが多いらしい。なので、未央の中で新しい記憶。病気の告知を忘れてしまうのは必然だった。
次に忘れたのは「僕との結婚」だった。
いつかは覚悟していた。だけど、思っていたより何倍も早くその時は訪れた。
「おはようございます。純さん」
少し距離感のある態度。僕の呼び方の違い。
嫌な予感がした。
付き合ってからは、「純くん」と優しい声で僕の名を呼んでいたのに。どこか他人行儀の彼女に心が押しつぶされたように痛かった。
話していくうちに嫌な予感が的中する。未央の記憶が欠けているのだ。未央の記憶から「僕との結婚」が消えてしまった。
頭でわかっていても、心はわかってはくれない。未央がいないところで声を出して泣いた。あんなにも幸せだった二人の記憶が、彼女から消えてしまった。
病気だから仕方がない。未央の方が辛いんだ。そう理解しているはずなのに、決死の僕の覚悟を心の痛みは簡単に超えてきた。
だって、あんなにも綺麗であたたかくて、幸せで満たされた記憶が消えてしまったなんて。しばらくはどうしても受け入れられなかった。
現実を受け入れられない僕は縋るような思いで未央に状況を説明した。
未央が病気であること。僕と結婚していること。
思い出して欲しいと願いを込めながら。
すべて話したが、記憶が消えてしまった未央は受け入れられないようで顔をしかめた。
そして、今まで見たことのないような悲しい表情を見せた。
未央の辛そうな顔を見るのが心苦しい。
僕の言葉で君を傷つけてしまった。
彼女の悲し気な顔を見たいわけじゃない。僕は結婚するときに、未央を世界一幸せにすると誓ったのに。これでは誓いを守れていない。
それ以上は言えなかった。いや、言いたくなかった。
君の笑顔を消し去る言葉を、僕は飲み込んだ。
今日の僕は君の瞳にどう映っているのだろうか。毎朝そんなことを想いながら起きるようになった。
「純さん、おはようございます」
やはり、純さんだった。
完全に彼女の記憶から、僕との結婚は消えてしまった。
救いだったのは僕という存在は記憶にあるようで。あくまで僕と結婚した記憶だけが消えていた。
僕はまた、君を笑顔にしたい。
僕と結婚した記憶が消えてしまったのなら、またその記憶を作ればいい。そう思った。
幾度となく季節は変わり。僕の記憶が消えたのはこれで2度目だ。
僕は夫としてではなく、未央の雇用主として彼女と暮らしている。
「未央! 調子はどう? お弁当買いに来たよー」
「美和子! ありがとうー。何弁当にする?」
高らかな声に、嬉しそうに反応する未央。厨房からちらりと除くと美和子ちゃんが来店したようだ。
美和子ちゃんは未央の親友だ。付き合いが古い彼女のことはまだ忘れていないようだ。
美和子ちゃんは未央と話していくうちに違和感に気づき始めた。表情が強張って俺に視線を向けてくる。
「あ、あの。純さん。少し話せます?」
「あー。うん」
返しに困ったのは、未央に不穏な雰囲気を感じ取ってほしくなかったからだ。しかし、美和子ちゃんは未央の親友だ。記憶が消えてしまったことを説明しなければならない。有難いことに気を使わせた未央がコンビニに行くといったので、誰もいない店頭で美和子ちゃんと話しはじめた。
「純さん! もしかして、未央……」
「ああ、僕のこと忘れているみたい」
「え、また……?」
驚いて声を荒げた。美和子ちゃんは、以前未央の記憶が消えたことを知っている。
そのたびに協力してくれた、心強い存在でもあった。
「……大丈夫。また恋をしてもらえるように頑張るから」
「そんな、辛くないんですか?」
「そりゃあ、辛いよ。目の前にいる愛しい人は、僕のことを好きじゃない。僕のことを好きだった愛しい人はどこにもいなくて。大好きな未央は……」
消えてしまった。
純くん。と呼ぶ愛おしい声も。
夜になるとくっついてくる甘えん坊な未央も。
俺が寝ないで新メニューを考えていると、一緒になって徹夜してくれる未央も。
もう、ここにはいない。
今の未央はその幸せな記憶を覚えていないのだ。
俺の中にしかない幸せな記憶が脳裏に浮かぶたびに、胸が締め付けられるように痛い。
「純さん……私が未央に説明するよ? 二人は夫婦だって!」
「それはだめなんだよ。前にも言っただろ?」
僕はゆっくりと顔を左右に振った。
病気のことを説明したときの、悲しげな未央の顔は脳裏にこびりついている。もう2度と辛い思いをさせたくないんだ。
「俺は、未央に1秒でも多く笑っていてほしいから」
「純さん……」
「記憶が消えてしまっても、俺が未央を愛していることには変わりはないんだ。また幸せな記憶を作っていくから……」
「でも、その記憶もまた消えて……あ、ごめんなさい」
「うん。また消えてしまうだろうね」
「……っ。そんな、……分かっててっ、うっ」
「いつかは僕の存在全て忘れる日が来ると思うんだ……」
「……っ、」
「それでも僕は……きっと、未央と恋をしたいと思うはずだから」
美和子ちゃんは目を涙で潤ませ、唇を噛んでいた。
彼女の気持ちが痛いほどよくわかる。辛くて悔しくてどうしようもなくやるせない気持ちが。
「私の記憶も、未央の頭の中から消えるのかな……」
「そうだね。僕の方が新しい記憶だから早かったけど。いずれは……」
「純さんみたいに気丈にふるまえる自信ないよ……」
「気丈にふるまえてる? それならよかった」
ぽつりとつぶやいた声は風に乗って消えていった。
大丈夫。まだ続けられる。辛くなんてないと自己暗示を頭の中で繰り返す。
応援されるかのように背中に風をうけた。
今日吹く風は、未央と出会ったころの季節とよく似ている。
♦
コンビニから帰ってきた未央はいつになく強張った表情をしていた。不安が頭をよぎる。
また記憶が消えてしまったのかもしれない。
戻ってきた未央と目が合うと、すぐに視線を逸らされた。一瞬しか見えなかった彼女の瞳には涙が滲んでいた。
「……大丈夫?」
「すみません。仕事戻りますから……」
「なにかあった?」
心配で仕方がない僕は声をかけ続けた。
未央の瞳から透明な涙がこぼれ落ちる。
「未央?! な、泣いている?! どうした?! なにかあった?」
涙の理由が気になって慌ている僕の耳に予想もしない言葉が届いた。
「美和子のことが好きなら……私、ここから出ていきます」
一瞬。時が止まったような錯覚に陥る。未央が出ていく?
それに、なんで美和子ちゃんの名前が今出てくるんだ。
「え、美和子ちゃん?」
「美和子といい感じなんですよね?」
「なんでそうなるの?!」
驚いた。まさか美和子ちゃんとの仲を疑われるなんて微塵も思っていなかったからだ。
「だって、美和子のこと苗字で呼んでましたよね? それが突然名前呼びになったら、誰でも察しますよ」
「出会ったばかりの頃はね、苗字だったけど。未央に紹介してもらってから、まあ、付き合いも長くなったし」
「え、長いですか? よく来るようになったのは数か月ですよね? やっぱり……」
未央が疑う理由が今分かった。未央の新しい記憶は消えてしまった。
実際に流れている時間と、未央の体感する時間とでは時差があるのだ。
未央が忘れている時間も、僕と美和子ちゃんは友人の位置で関係性が続いていた。きっと消えた記憶の時間が未央を不安にさせてしまったのだろう。
「違う! 違う! 断じて美和子ちゃんとはなにもないから! 俺が好きなのは未央だから」
必死に否定の言葉を告げると、おまけで好きだと言ってしまった。
本当はもっとロマンティックなところで。記憶に残るような告白をする予定だったのに。完全にやらかした。
ただ、久しぶりに好きと口にすると。心の底から愛おしさが込み上げる。
「俺はずっと。ずっと……未央のことが好きだよ」
「私も好きです……」
俺の耳に優しい声が届いた。
久しぶりに聞いた言葉。
ずっと聞きたいと願っていた言葉だ。
気づけば頬に涙が伝う感触がした。
それはまるで自然現象のように、すっと流れた涙だった。
「純くんって呼んで?」
「……純くん、」
懐かしい呼び方はすっと鼓膜に届く。
ずっと待っていた。また愛し合えることを。
「……っ、いいね。その呼び方。……っう。俺、好きだな。その呼び方」
「これからは、純くんって呼びますね……」
恥ずかしそうに俯く未央が愛おしくてぎゅっと抱きしめた。触れたくて仕方がなかった。久しぶりのぬくもりは、震えてしまうほど愛おしい。
「僕のこと好き?」
恥ずかしげもなく、好きのおかわりをした。
消えてしまった「好き」が今目の前にある。何度だって聞きたいんだ。
「えー。どうしたの? そんなキャラでしたっけ?」
「……」
「好きだよ! 大好きだよ!」
君の言葉がどれだけ僕を支えてくれていたのか、今ならわかる。
だって、今の僕は怪物にだって立ち向かえそうなほど活力があふれている。
華奢な未央の身体を抱きしめる力が強くなる。
いつかは僕の存在ごと忘れてしまうのだろうか。
次はいつ抱きしめられるのだろう。
次はいつ忘れられてしまうのだろう。
この幸せなぬくもりを、明日も感じられる保証は僕たちにはないのだ。
それを知っているから、抱き合う身体が離れない。離したくないんだ。
君の記憶から僕が消えても、また君と恋がしたい。
君の笑顔が見られるなら、俺は何度でも繰り返し君と恋をする。
そうカッコつけてみせたけど、本当は忘れないでいてほしい。僕との記憶が消えてほしくなんてない。
だけど、それが叶わぬ願いだと知っている。
知っているからこそ、今、この瞬間が愛おしい。
僕は未央が好きだ。
それは変わりようのない事実で、きっとこの先も変わらない。
また明日も君の笑顔が見られますように。
きっと、世界中の誰よりもそう願う気持ちは強いだろう。