約束の部屋の前に立つと小さく指先が震えてることに気づいた。
社会人になっても人はこんなに緊張するのだと思い知らされながら深呼吸する。
医療系の専門誌のライターとして働くようになって、3年程。まだまだ新人だと思うけど、今日の取材相手はそんな新人の私には荷が重い相手だった。
数年前に難病――冬眠症――への特効薬の開発に成功し、世界的に脚光を集めた創薬化学者。
相手がそんな大物というだけで緊張するし、それ以外にもいくつか理由があった。
ずっと同じ病気の特効薬の開発を続けた変わり者という噂もあったし、その功績の大きさに比してほとんど表に姿を見せない素性が謎の相手ということもある。何より、冬眠症の特効薬開発について取材を受けるのは、これが初めてらしい。
そんな大役を新人の私が担っていいのか、考えるだけで押しつぶされそうだった。
それでも、御礼を伝えたい。その想いだけで震える足を動かしてこの場所までたどり着いた。
もう一度息を吸って部屋のドアをノックする。既に相手は部屋で待っているとのことだった。どうぞ、という声に導かれてドアを開けと、穏やかに笑う初老の男性が立っていた。
「おはようございます。本日取材をさせていただく小野です」
頭を下げても反応がない。怪訝に思って顔を上げると、男性は感慨深そうにこちらを見ていた。最初からテンポが狂ってしまったけど、穏やかなその視線は不思議と私を落ち着かせてくれた。
「ああ、すみません。おはようございます。結城です」
今度は型どおりに名刺を交換し、結城啓人と書かれた名刺を見つめてみる。研究所のロゴが印刷されたくらいのシンプルなもので、世界的な化学者のものとは思えなかった。
「この度は弊社の取材をお受けいただきありがとうございます」
「いえいえ、こんな辺鄙なところまで、大変だったでしょう?」
結城さんが所属する研究所は、都心からでは移動だけで半日以上必要な場所にあった。それでも、本心から首を横に振る。
「いえ、実は生まれ育ったのが郊外の方だったので、こういう景色の方が落ち着くんです」
都心は時代の流れが早い。追いつくだけでいっぱいいっぱいで、時代から取り残されたような場所の方が私の性に合っていた。
「それならよかった。せっかく来ていただいたわけですし、何でも聞いてください」
変わり者だという噂は何だったのか、結城さんはとても取材しやすい相手だった。私が質問に詰まったり結城さんの答えを理解しきれずにいると丁寧にフォローしてくれて、記事を書きやすいように解説をしてくれた。
一回り以上は年上のはずなのに、なんだか昔から知っていたような感じがする。それくらい接しやすかった。
話せば話すほど熱が入って、気がつけば予定の時間を大幅に超過してしまっていた。もっと話していたかったけど、最後の話題に移る。
「冬眠症の患者にとって、結城さんはまさにヒーローだと思います」
「そんなこと、ないですよ」
ずっと笑顔で話してきた結城さんの顔に初めて苦い色が滲む。小さく目を閉じた結城さんはふっと息を吐きながら首を横に振った。
「私が開発した薬は冬眠症の患者を目覚めさせることには成功しました。けれど、彼らは記憶を失った。小野さん、貴方もそうでしたよね」
「……ご存じ、だったんですね」
結城さんが開発した薬は、世界で唯一冬眠症の患者を目覚めさせることができる。けれど、冬眠状態が長期にわたった患者は目覚めると眠る前の記憶を失っていた。
冬眠期間によってその度合いが変わることから、薬の副作用ではなく冬眠症自体の影響だと言われているけど、その症状こそが結城さんが表に出ない原因と噂されていた。
そして、私もまた記憶を失った冬眠症患者の一人だった。目覚める前のことも、目覚めた直後のこともあまりよく覚えていない。
「世界で初めて目を覚ましたのが貴方ですからね。貴方が目覚めたとき、私も傍にいたんですよ」
笑ってみせた結城さんの顔は、何故だか泣いているように見えた。
「そう、だったんですか……。すみません、当時のことは、あまり覚えていなくて」
「20年ぶりに目を覚ましたんです、仕方ありませんよ。でも、だから」
結城さんは穏やかな顔に重ねて微笑みを浮かべた。私よりだいぶ年上のはずなのに、その表情に不意打ちのようにドギマギしてしまう。
「今日はこうやって貴方とお話できてよかった。私にはそんな資格ないと思っていたから」
微笑みながらもどこか苦しそうに吐き出された言葉に私は懸命に首を横に振る。優しそうなこの人にそんな悲しいことを考えてほしくはなかった。
「私も、結城さんに御礼が言いたくて、この仕事に就いたんです。私を目覚めさせてくれて、本当にありがとうございました」
冬眠症から回復してからしばらくして、私を夢から覚ましてくれた結城さんのことを知った。けれど、その頃は記憶障害のことが問題となり、結城さんの所在は伏せられ、御礼を伝えることはできなかった。
だから私はそこから20年ぶりの学校に通い――一応、高卒の身分は残っていた――この仕事に就いた。そうすれば、いつか結城さんに会えると信じて。
「あの。最後に、オフレコで教えていただけませんか?」
「はい、どうぞ」
結城さんに御礼を伝えることができて、あと一つだけ聞きたいことがあった。それは仕事とは関係なく、結城さんに救ってもらった一人としての興味。
「結城さんがこれまで取材を受けなかったのは、記憶障害のことが理由ですか?」
私の問いに結城さんは迷いなく首を振る。
「いいえ。私は、世間が言うように崇高な理念があったわけじゃないんです」
予想と異なる答えだった。結城さんがスッと目を細める。
「ただ、おやすみと伝えた女の子に『おはよう』と言いたかっただけで。そんな私がヒーローのように扱われるのが嫌だったんです」
遠い目をして笑う結城さんに、ぎゅっと胸を締め付けられ、思わず左手を見てしまった。そこには指輪も何もない。それは何の証明にもならないけど、結城さんが目覚めさせたかったという女の子はどうなったのだろう。結城さんは冬眠症の研究を大学から始めている。その頃に既に発症していたとしたら、目覚めたとしても私と同じように記憶を失っているのだろうか。
20年かけて結城さんは約束の相手を起こすことができた。けれど、その相手はそんな約束の記憶も全部失っていた。
そんな喜びと絶望の狭間で結城さんは世界から距離を置いたのだとしたら、それは哀しすぎる。
「結城さんは、今、幸せですか?」
思わず、そんな失礼なことを聞いていた。
けれど、結城さんは気にする様子もなく穏やかに笑う。
「ええ、幸せです。今日、夢が1つ叶いましたから」
その答えの意味は、わからなかった。
あるいは、冬眠症から回復した患者と話したかったということだろうか。
壁にかけられた時計から電信音が響く。約束の時間は過ぎに過ぎていた。結城さんが椅子に手をつきながら立ち上がる。
「さて、所内は迷いやすいので、外までお送りしますよ」
ポンと手を差し出された。当然のようにその手を取ってから、凄い人相手に何をしてるんだろうと気づいた。だけど、慌てて手を引っ込めようとしたときには、結城さんはギュッと手を引いて歩き出してしまう。
――その瞬間、見たこともない風景が脳裏に浮かんだ。
それは、学生姿の結城さんに手を引かれて河川敷の道を歩く私の姿。
制服を纏った結城さんが困ったように私に手を伸ばし、高校生の私は笑顔でその手をとっていた。
これまで決して思い出すことの無かった昔の記憶。その光景に胸がドキドキと高鳴っていく。
結城啓人。ユウキアキト。パチリ、と鍵がはまる音がした。
「……ユート?」
自然と零れ落ちた言葉に、結城さんが驚いたように振り返る。
穏やかだった顔を一筋の涙が伝って、でも、笑っていた。優しく、けれどぎゅっと手が握りしめられる。
「ああ。やっぱり、沙彩はねぼすけだなあ」
結城さんの――ユートの声は震えている。私の手を握るのと反対側の手がぽんと私の頭の上に乗せられた。次々と記憶が呼び戻されていく。病室でぐちゃぐちゃに泣きながら、それでも笑うユートの姿。
「ユートが起こしに来てくれるって、信じてたから」
「遅くなってごめん」
ユートの言葉に首を振る。眠りに落ちていくとき、不思議なくらい穏やかな気持ちだった。いつかユートが起こしてくれるとわかっていたから。
「ううん。おはよう、ユート」
「うん。おはよう、沙彩」
社会人になっても人はこんなに緊張するのだと思い知らされながら深呼吸する。
医療系の専門誌のライターとして働くようになって、3年程。まだまだ新人だと思うけど、今日の取材相手はそんな新人の私には荷が重い相手だった。
数年前に難病――冬眠症――への特効薬の開発に成功し、世界的に脚光を集めた創薬化学者。
相手がそんな大物というだけで緊張するし、それ以外にもいくつか理由があった。
ずっと同じ病気の特効薬の開発を続けた変わり者という噂もあったし、その功績の大きさに比してほとんど表に姿を見せない素性が謎の相手ということもある。何より、冬眠症の特効薬開発について取材を受けるのは、これが初めてらしい。
そんな大役を新人の私が担っていいのか、考えるだけで押しつぶされそうだった。
それでも、御礼を伝えたい。その想いだけで震える足を動かしてこの場所までたどり着いた。
もう一度息を吸って部屋のドアをノックする。既に相手は部屋で待っているとのことだった。どうぞ、という声に導かれてドアを開けと、穏やかに笑う初老の男性が立っていた。
「おはようございます。本日取材をさせていただく小野です」
頭を下げても反応がない。怪訝に思って顔を上げると、男性は感慨深そうにこちらを見ていた。最初からテンポが狂ってしまったけど、穏やかなその視線は不思議と私を落ち着かせてくれた。
「ああ、すみません。おはようございます。結城です」
今度は型どおりに名刺を交換し、結城啓人と書かれた名刺を見つめてみる。研究所のロゴが印刷されたくらいのシンプルなもので、世界的な化学者のものとは思えなかった。
「この度は弊社の取材をお受けいただきありがとうございます」
「いえいえ、こんな辺鄙なところまで、大変だったでしょう?」
結城さんが所属する研究所は、都心からでは移動だけで半日以上必要な場所にあった。それでも、本心から首を横に振る。
「いえ、実は生まれ育ったのが郊外の方だったので、こういう景色の方が落ち着くんです」
都心は時代の流れが早い。追いつくだけでいっぱいいっぱいで、時代から取り残されたような場所の方が私の性に合っていた。
「それならよかった。せっかく来ていただいたわけですし、何でも聞いてください」
変わり者だという噂は何だったのか、結城さんはとても取材しやすい相手だった。私が質問に詰まったり結城さんの答えを理解しきれずにいると丁寧にフォローしてくれて、記事を書きやすいように解説をしてくれた。
一回り以上は年上のはずなのに、なんだか昔から知っていたような感じがする。それくらい接しやすかった。
話せば話すほど熱が入って、気がつけば予定の時間を大幅に超過してしまっていた。もっと話していたかったけど、最後の話題に移る。
「冬眠症の患者にとって、結城さんはまさにヒーローだと思います」
「そんなこと、ないですよ」
ずっと笑顔で話してきた結城さんの顔に初めて苦い色が滲む。小さく目を閉じた結城さんはふっと息を吐きながら首を横に振った。
「私が開発した薬は冬眠症の患者を目覚めさせることには成功しました。けれど、彼らは記憶を失った。小野さん、貴方もそうでしたよね」
「……ご存じ、だったんですね」
結城さんが開発した薬は、世界で唯一冬眠症の患者を目覚めさせることができる。けれど、冬眠状態が長期にわたった患者は目覚めると眠る前の記憶を失っていた。
冬眠期間によってその度合いが変わることから、薬の副作用ではなく冬眠症自体の影響だと言われているけど、その症状こそが結城さんが表に出ない原因と噂されていた。
そして、私もまた記憶を失った冬眠症患者の一人だった。目覚める前のことも、目覚めた直後のこともあまりよく覚えていない。
「世界で初めて目を覚ましたのが貴方ですからね。貴方が目覚めたとき、私も傍にいたんですよ」
笑ってみせた結城さんの顔は、何故だか泣いているように見えた。
「そう、だったんですか……。すみません、当時のことは、あまり覚えていなくて」
「20年ぶりに目を覚ましたんです、仕方ありませんよ。でも、だから」
結城さんは穏やかな顔に重ねて微笑みを浮かべた。私よりだいぶ年上のはずなのに、その表情に不意打ちのようにドギマギしてしまう。
「今日はこうやって貴方とお話できてよかった。私にはそんな資格ないと思っていたから」
微笑みながらもどこか苦しそうに吐き出された言葉に私は懸命に首を横に振る。優しそうなこの人にそんな悲しいことを考えてほしくはなかった。
「私も、結城さんに御礼が言いたくて、この仕事に就いたんです。私を目覚めさせてくれて、本当にありがとうございました」
冬眠症から回復してからしばらくして、私を夢から覚ましてくれた結城さんのことを知った。けれど、その頃は記憶障害のことが問題となり、結城さんの所在は伏せられ、御礼を伝えることはできなかった。
だから私はそこから20年ぶりの学校に通い――一応、高卒の身分は残っていた――この仕事に就いた。そうすれば、いつか結城さんに会えると信じて。
「あの。最後に、オフレコで教えていただけませんか?」
「はい、どうぞ」
結城さんに御礼を伝えることができて、あと一つだけ聞きたいことがあった。それは仕事とは関係なく、結城さんに救ってもらった一人としての興味。
「結城さんがこれまで取材を受けなかったのは、記憶障害のことが理由ですか?」
私の問いに結城さんは迷いなく首を振る。
「いいえ。私は、世間が言うように崇高な理念があったわけじゃないんです」
予想と異なる答えだった。結城さんがスッと目を細める。
「ただ、おやすみと伝えた女の子に『おはよう』と言いたかっただけで。そんな私がヒーローのように扱われるのが嫌だったんです」
遠い目をして笑う結城さんに、ぎゅっと胸を締め付けられ、思わず左手を見てしまった。そこには指輪も何もない。それは何の証明にもならないけど、結城さんが目覚めさせたかったという女の子はどうなったのだろう。結城さんは冬眠症の研究を大学から始めている。その頃に既に発症していたとしたら、目覚めたとしても私と同じように記憶を失っているのだろうか。
20年かけて結城さんは約束の相手を起こすことができた。けれど、その相手はそんな約束の記憶も全部失っていた。
そんな喜びと絶望の狭間で結城さんは世界から距離を置いたのだとしたら、それは哀しすぎる。
「結城さんは、今、幸せですか?」
思わず、そんな失礼なことを聞いていた。
けれど、結城さんは気にする様子もなく穏やかに笑う。
「ええ、幸せです。今日、夢が1つ叶いましたから」
その答えの意味は、わからなかった。
あるいは、冬眠症から回復した患者と話したかったということだろうか。
壁にかけられた時計から電信音が響く。約束の時間は過ぎに過ぎていた。結城さんが椅子に手をつきながら立ち上がる。
「さて、所内は迷いやすいので、外までお送りしますよ」
ポンと手を差し出された。当然のようにその手を取ってから、凄い人相手に何をしてるんだろうと気づいた。だけど、慌てて手を引っ込めようとしたときには、結城さんはギュッと手を引いて歩き出してしまう。
――その瞬間、見たこともない風景が脳裏に浮かんだ。
それは、学生姿の結城さんに手を引かれて河川敷の道を歩く私の姿。
制服を纏った結城さんが困ったように私に手を伸ばし、高校生の私は笑顔でその手をとっていた。
これまで決して思い出すことの無かった昔の記憶。その光景に胸がドキドキと高鳴っていく。
結城啓人。ユウキアキト。パチリ、と鍵がはまる音がした。
「……ユート?」
自然と零れ落ちた言葉に、結城さんが驚いたように振り返る。
穏やかだった顔を一筋の涙が伝って、でも、笑っていた。優しく、けれどぎゅっと手が握りしめられる。
「ああ。やっぱり、沙彩はねぼすけだなあ」
結城さんの――ユートの声は震えている。私の手を握るのと反対側の手がぽんと私の頭の上に乗せられた。次々と記憶が呼び戻されていく。病室でぐちゃぐちゃに泣きながら、それでも笑うユートの姿。
「ユートが起こしに来てくれるって、信じてたから」
「遅くなってごめん」
ユートの言葉に首を振る。眠りに落ちていくとき、不思議なくらい穏やかな気持ちだった。いつかユートが起こしてくれるとわかっていたから。
「ううん。おはよう、ユート」
「うん。おはよう、沙彩」