カチッ……カチッ……
秒針がゆっくりと時を刻む。小さな小さなアパートのリビングにある、唯一の時計。私はそれをじっと見つめて、「その瞬間」を、今か今かと待ち構えていた。
秒針は10の文字盤を過ぎる。あと少しだ、と体がそわそわする。焦るな、と心で衝動を制御した。
カチッ……カチッ……
規則正しい音が世界の音の全てのように、大きく聞こえる。あと少し、あと少し。秒針は11を通り過ぎ、残り5秒。
4、3、2、1……。
カチッと全ての針が頂点で重なった途端、時計は新しい日付になったことを知らせる。
「やっとだ……」
私は息を吐いた。この時を、どれだけ待ち望んだことか。
今日は私の16歳の誕生日。ようやく、1人で夜を歩ける歳。
あれは、姉が夜の散歩を始める日の午前だった。私と姉は、一つ約束を交わしたのだ。それは、16歳になるまで、決して1人で夜を出歩かないこと。
今も昔も、意味は分からない。ただ危険だからとか、危ないからとか、そんな単純な理由ではないと、あの日の姉の表情を思い出せば分かる。
だから守った。今日、この日まで。例え姉が失踪しようとも、その約束を破りはしなかった。
これで私も、夜の散歩ができる。ずっと決めていた。夜を出歩けるようになったら、姉が言っていた忘れ物を見つけようと。
10年の月日が流れてしまったが、今からでも遅くはないはず。かれこれ3年は履いている靴に足を通し、私は扉のドアノブを握った。
深呼吸をして、それから一気に扉を開ける。
やはり、暗い闇夜が私を迎えた。とっぷりとした黒、まばらに輝く星。そして、独特な夜の香り。
これが夜か、と少しばかりその雰囲気に浸る。ずっと危険なものとばかり思っていたが、案外夜は優しいのかもしれない。
私は走り出した。よく見る道のはずだが、昼と夜という時間の違いだけで、全く別の場所のように思えてしまう。知っているようで、知らない。同じはずなのに、違う。なんとも不思議だった。
私は駆ける。アパートから遠ざかり、街の中心部とは反対の、海に向かった。何故かはわからない。ただ、足を動かした途端にその方向へと走っていた。私が、私の魂が、そちらに行けと言っている、そんな気がする。
真夜中、16歳になったばかりの高校生が1人で夜を走っていても、誰も声をかけない。生き物すら、気にも留めない。
無心で足を動かして闇を引き裂いた。ふと、漣の音が微かに聞こえてくる。海岸の大岩に打ち付けられる波の音。海にやってきたのだ。
小さな堤防を超えて、私は砂浜を踏む。ザクリ、という心地よい音。これを聴くのは何年ぶりだろうか。海なんて、小学校に入学する前が最後だった。
両親が死亡してしまった、あの日以来。
「……っ!?」
脳みその奥が突然、ズキリと痛んだ。思わずしゃがみ込み、頭を押さえる。砂嵐のように流れてくる、あの日の光景。大きな波、遠い水面、すり抜ける泡。そして、力無く横たわる両親。
忘れたつもりでも、やっぱり本当は覚えていた。この痛みが、それを証明する。
「……はぁ」
息を吐いて立ち上がった。痛くても、行かなければ。
私は砂浜を海の淵に沿って歩いた。ザザンと足元に迫る波の音は、胸を苦しめるも聴きたくなってしまう。
今日は満月。揺らぐ水面に白銀の月が映っている。そういえば昔、何かで聞いたことがあったっけ。夏、こんな満月の夜は、死者が帰る日だと。今も、見知らぬ誰かの魂が天に昇っているのかもしれない。
ザクリ、ザクリと私のスニーカーは砂を踏む。懐かしい、この感じ。13年程前は、ここに、お父さんとお母さんと姉がいた。あの時の温もりは、もう……。
なんて、沈んだ気持ちになっていた時だった。ふと、私の目に、小さな黒い影が映った。丸くて小さかったから、最初は幼い子供がいるのかと錯覚する。だがそれは、波打ち際に体育座りをする女性だった。
音を立てないように近づいて、目を見開く。
その女性は、姉だった。ボサボサの髪の毛、汚れた服ではあったが、間違いなくその横顔には面影が残っていた。
「なん、で……?」
息を吐くように言った。というよりは、声が漏れた。微かな声は水の音でかき消されたと思ったが、それは姉に届いたらしい。影が振り返る。
「えっ……」
姉は一瞬、戸惑った。しかし、私とは別の意味だろう。
「誰です……」
私に「誰ですか」と尋ねようとした姉の口は、半開きのまま止まった。代わりに瞳が徐々に大きくなる。
「まさか……海月?」
鈴が鳴るような高音が、私の名前を呼ぶ。よく、クラゲと読みを間違えられる、好きな名前。
「うん……うんっ、そうだよ。望海お姉ちゃん」
とても久しぶりに、姉の名前を口にした。私と同じく海が入っている、綺麗な名前。
居ても立ってもいられなくなった私は、姉の胸に飛び込んだ。「うわっ」と驚く声と共に、私と姉は砂の上に横たわる。
「お姉ちゃん……逢いたかった……」
「うん、私も、ずっと逢いたかったよ……」
姉の手が私の頭を撫でる。10年前も今も、その温もりと優しさは変わらない。
「こんなに大きくなってたんだ。大きくなれたんだ……」
姉の声は涙を含んでいた。姉も自分との再会を喜んでいることに、言いようのない嬉しさが込み上げる。
「ねぇ、お姉ちゃん」
「ん?」
私は起き上がって、少しだけやつれた姉の顔を見つめる。
「どうして……どうして、今まで帰ってこなかったの?」
知りたかった。あの日、姉が出て行った理由。そして、忘れ物を。
しかし突然、姉の表情から笑顔が失せた。吊り上がっていた唇も、輝いていた瞳も、まるでなかったように。
変だと思いつつも、どうしてもここだけは譲れない。
「ねぇ、教えて。私、ずっと待ってたんだよ?」
「それは……」
言いにくそうに、姉は視線を逸らす。それでも食い入るように見つめていると、やがて姉は観念したように起き上がった。
「聞いて、驚かない?海月はちゃんと、私の話を受け入れられる?現実だと、拒絶せずにいられる?」
「え……う、うん……」
あまりにも念入りに前置きをする姉に気圧される。だが、ここで引き下がるなんてことはしたくない。
「受け入れる、よ」
「……そう」
頷いた姉は、寂しそうに笑った。それから、傍に置いてあったものを私の前に出して見せる。
「私はずっと、これを探していたんだ」
見せられたものに、私は息を呑んだ。
それは、幼い少女だった。正確には、遺体。まだ小学校にも上がっていないだろう、幼い身体。
「ずっとずっと、探してた。もう見つからないんじゃないかって思ったこともあったけどね。ようやく見つけたよ」
お姉ちゃんは涙を目に溜めて、その少女の遺体を撫でる。そう、まるで、私が幼稚園の時のように。
「ああ……」
私は脱力する。そういうこと、だったんだ。
その遺体は、紛れもない『私自身』だった。
夜に忘れ物をしたのは、姉ではなかった。この私なのだ。幼稚園の頃、家族でこの海に来た時に無くした、私の身体。
ずっと、お父さんとお母さんと姉が居なかったと思っていた。でも違う。居なかったのは、お父さんとお母さんと『私』だったんだ。
「本当はね、少しだけ、見つからなければいいのになって思った。身体が無ければ、海月がどこかへ行くこともないんだろうなって」
姉は私の方を見て、悲しみのような喜びのような、言葉にし難い表情を浮かべた。
「だけどね、そんな奇跡は起こらないだろうし、身体が無いといつか海月が困るかもしれない。そう思うと、探さずにはいられなかった」
断片的な記憶が、脳内で蘇る。封印したはずの、事故の光景。大波に呑まれた私を助けようとして溺れた両親。砂浜に打ち上げられたのは、お父さんとお母さんと、そして私の身体。私の魂は、私が死んだ時に分離して砂浜まで漂い、まるで他人みたいに、その出来事を見ていた。
「海月が還ってきた時は嬉しかったよ。本当に、嬉しかった。本物じゃないって分かってた。海月は、本当は死んでるんだって分かってた。それでも、嬉しかったの」
涙で顔をぐちゃぐちゃにする姉を、私はそっと抱きしめた。
「ありがとう、お姉ちゃん。私、やっと思い出したよ」
もう私は、この世界にはいないはずだった。あの時、死んでいたのだ。それを忘却して、今日までこの現世に居た。
幼き私の身体に触れる。瞬間、凄まじい引力で私は『私』に吸い込まれた。ずっしりとした体重を感じた私は、自分の体に入れたことを悟る。
「お姉ちゃん、今まで、ありがとう」
身体を取り戻した私は、不思議な感覚に包まれた。まるで雲の上に寝そべっているような感じ。この世界から自我が消えようとしている、と悟るのにそう時間は掛からなかった。
地面から離れた足が宙に浮く。これでもう、本当にお別れ。小さくなっていく姉の姿に、私はそっと手を振った。
「ありがとう。さようなら」
「うん。さよなら……」
姉は最後まで笑っていた。けれど、私が消えるほんの一瞬だけ、姉は表情をグシャリと崩した。とてつもない苦しみと悲しみに暮れた姉の表情は、私しか知らない。
そして、もう、誰も知らなくなる。