木漏れ日。
 太陽の光が、金の糸からすり抜け、俺の瞼を擽る。
「ロミオ、起きて」
 ああ、もうそんな時間。
 俺は瞼を持ち上げる。
 その先に見えるのが、神のような美しい景色だということを知っているから。
「ああ……レイ」
 俺は目の前の、少年を見遣る。彼は金糸のような髪を肩の上に滑らせた。
「疲れているね? ロミオ」
 ロミオ。それが俺の名前。彼の心地よいテノールで呼ばれれば、それがこの世で一番尊い音の旋律のように感じられるから不思議なものだ。
「『家』へ帰ろう。先生たちが待っているよ」
 俺は差し出されたレイの手を取る。細くて長い指。その手に誘われ、そして、『家』へと帰る。
 俺の名前はロミオ。そして、目の前のこの俺より数センチ身長の高い少年はレイ。俺たちは『家』と呼ばれる施設に住む、未成年の少年だ。ある『事情』がある子供たちだけが集められたと言われるこの『家』には、俺たち子供のほかに、『先生』と呼ばれる女性たちが複数人いた。
 俺たち以外に、未就学児が五人。そして、俺とレイ。レイは俺よりもひとつ年上。この『家』で暮らす子供たちの中では、もっとも年齢が高い。
 レイは、天使のように美しい顔をした少年だった。
 俺はそんなレイに真夏の太陽の焦れた日差しのような感情を抱いていた。
 レイは頭が良い。そして面倒見が良い。そんなレイのことが、子供たちも先生たちも、大好きだった。この『家』は、十五歳が過ぎると、卒業しなければならない。
「腹減ったぁ!」
 甲高い声でわめき、ぺそりとした腹をさすっているのは、五歳の少年トム。
 この『家』は慈善団体やパトロンのおかげで成り立っているようで、食事はいつもお世辞には多くはない。
 育ち盛りの男子たちには少し物足りないくらいだった。
「足りないよ~」
 いつものように駄々をこねるトムに、レイは微笑みながら言う。
「俺の分のシチューをお食べ」
「いいの? レイ!」
 途端に目を輝かせるトム。その無邪気な顔を見て、レイは女神のように微笑んだ。
「レイ……ありがとう!」
 レイだって育ちざかりの男の子だ。お腹が減らないわけはない。なのに……。
 俺は自分の空っぽになったシチュー椀を前に、レイはすごいなぁと思うのだった。
「ねえ、レイ。ご本を読んで」
 そう言ってレイの膝に座るのは四歳の男の子、ジョン。
 彼は甘えん坊で、おとなしい性格をしている。絵本が大好きなのだが、まだ文字が読めない。レイは、寝る前にいつもジョンに絵本を読んであげていた。
「レイ……!」
「レイ?」
「レイ~!」
 この『家』ではいつも呪文のようにその音が聞こえる。みんなにとって、レイはなくてはならない存在なのだ。
 俺は、みんなに囲まれて楽しそうに笑うレイを見て思う。
 この景色が見られるのも、あと二か月なのだと。
 そうだ。
 レイは再来月には十五歳の誕生日を迎える。
 この『家』から出ていかなくてはならないのだ。
「レイ」
 俺とレイは同部屋だった。
 この『家』は一部屋に二人が暮らすようになっている。俺は物心ついたときにはすでにレイと同じ部屋で暮らしていた。
 その生活がもう十年以上も続いているのだ。レイがいるということは俺にとって当たり前のことなのだ。
 レイは、分厚い本を読んでいた顔を上げて俺を見た。
「なあに? ロミオ」
 その顔はこの世の者とは思えないほどに美しく、神々しい。
 俺は、つい目を背けてしまった。レイとの別れが二か月後に迫っているなんて、そんなこと信じたくはない。
 言葉を飲み込む俺を見て、レイは読みかけの本を文机に置く。
 そして、美しい所作で俺の元へと近づいてきた。
「今日は一緒に寝ようか?」
「え?」
 その言葉に、俺は目を見開く。
 最後に一緒に寝たのなんて、もう五年以上前のことだ。
 俺の反応を愉しむかのように、レイはもう一歩俺の近くへと寄った。
「ね? 駄目かな」
 その夜、俺はレイと同じ布団で夜を過ごした。
「ねえ、レイ」
 華奢なレイの背中に声をかける。
 レイは寝てしまったのだろうか。そっちのほうが、都合がいい。
「レイ、俺、レイと別れるの嫌だよ。レイ。どこにもいかないで」
 俺の小さなつぶやきは、レイの規則正しく上下する背中に浸み込んで消えた。

 あっという間に二か月は過ぎ、いよいよ明日はレイが『家』を出る日となった。
 最後の日を前に、退去者は自分の部屋を掃除する。
 俺はレイが荷物を片付けるのを、じっと黙ってみていた。
 そうして、空になった俺とレイの部屋の半分。
 レイは、今晩は別室に泊まるらしい。布団も何もないから当然とはいえ、俺はもうレイと一緒に過ごせないという事実をいよいよ目の当たりにして、なんとも言えない気分だった。
 レイが施設のみんなに別れの挨拶をしてまわっているのを、白い壁の向こうに感じながら、俺は膝を抱えて泣いた。
 その夜、俺は初めて、レイのいない夜を過ごした。
 瞼を閉じれば、レイと過ごした日々が浮かんでくる。それが嫌で瞼を開けば、レイのいない閑散とした部屋に現実を突きつけられる。目じりからは止めどなく溢れてくる涙。固い枕が湿るのも気にせず、俺は声を殺して泣いた。
 翌朝。
 朝日をつんざくような悲鳴とともに、俺は最後の日を迎えた。
 若い先生の声だ。
 俺は胸騒ぎがして、部屋を出る。
 廊下を駆けた先に、腰を抜かした先生が震えていた。
 おそるおそる、部屋の中を見る。
 すると、そこには……。
「レイ……」
 銀のナイフで胸を貫かれたレイが、白いベッドの上に横たわっていた。
 朝日を浴びて、朱に染まった金髪が煌めく。
 レイに息がないことは明らかだった。

 レイを殺したのは誰だ。

 これは、その日から、俺の命題になったのだった。

 俺は十五を過ぎて、この施設で働き始めた。
 この『家』で世話になるのは、十五歳がリミットだが、スタッフとして働くのに年齢制限はない。
 この『家』には、定期検診に来てくれるマシュウ先生を除いて、女性のスタッフしかいない。そんな中で、男手である俺の存在は有難がられた。

 定期的にきてくれる、常連のお客さん。この『家』のパトロンか何かだろう。
 シロノさんというご婦人だ。年齢は見る限り五十歳くらいだろうか。目じりと口元の皺が、彼女の人生経験の豊富さを物語っていた。
 先生が俺に言う。
「お迎えですよ」
 何を言っているんだ? 俺は当惑した。お迎え? 俺はロミオで、帰る『家』はここだ。
 俺は首を振った。
「迎えですか? 俺はこの『家』を卒業して、この『家』で働くって話になったじゃないですか。今更……」
 先生の手を振り払おうとする俺を、なだめるようにマシュウ先生が言う。
「ええ、ええ。そうですね。そうです。ですが、あなたはもうここを出なければいけない。そうですよね? ――

――白野香織さん」

 シロノカオリ。
 その音の羅列を聞いた瞬間、俺の頭の中で銅鑼が鳴った。
 そうだ。
 俺……否、私はシロノカオリ……白野香織。
 ある日突然、この病院に閉じ込められた……。

「解離性同一症はひとまず落ち着いたようです。最後のひとり……『レイ』という人格が消え、主人格である『ロミオ』だけになっている状態です」
 マシュウ先生……増井先生は、シロノさん……白野弥生……私の母に説明する。
 そうだ。
 私は解離性同一症で、この病院に入院していたのだ。
 じゃあ……。

 レイを殺したのは、誰だ?


 私だ。