*
「咲さま、薬を塗りますね」
夜である。あやかしも、人型は人のように過ごすらしく、先ほど湯あみをさせてもらった。湯を使うなど、子供の時以来だった。普段は井戸水や川で体の汚れを落としていただけだったので大層汚れていたと思うが、スズがせっせと体を洗ってくれたおかげで、咲は今、人生で一番清潔な状態だ。
ちなみに最初は体を洗ってもらうのは断った。しかしスズに、お役目だから、それを奪わないでほしい、と懇願されて、折れた。お役目があることは、その人を強くする。例えば破妖の力に恵まれた、芙蓉のように。咲にはなんのお役目もなかったから、日々、無能であることを悔い続けた。そんな思いをスズたちにして欲しくなかった為、咲は鬼神の里に来てから彼らに世話になっている。
スズがきれいな小瓶から軟膏を指にすくい上げる。それを、腕や背中、腹や脚に至るまで広がる市子や芙蓉からの暴力の痕に塗り込んでいく。ややしみるが、我慢できない程ではない。
「しみますか。明日は薬を変えましょう」
「いいのよ、スズ。薬を頂けるだけでも贅沢だわ」
「いいえ。咲さまは我がおにかみ一族の恩人。そして、私の恩人です。恩人の為に少しくらい薬を探すことなんて、大した労ではありません。それより、咲さまにお健やかにお過ごしいただく方が、大事です」
スズが首を横に振って頑なに譲らなかった為、ここも咲が折れた。とはいえ、咲は特別なことをした気がしていないので、申し訳なくはある。
(でも、名を呼んでもらえた嬉しさは、分かるから……)
きっとスズも同じ気持ちなのだろう。そう思って身を任せる。
やがて全身の傷に薬を塗り終えた頃、部屋の外からハチが声をかけてきた。
「咲さま、長がお見えになっています。お通しして宜しいでしょうか」
明朗でよく通るその声に、咲は夜着の上から羽織を羽織らせてもらって、どうぞと応じた。部屋に入って来た千牙は昼間と同じ着物を着ており、咲ひとりがくつろいだ姿であるのに、やや申し訳ない気持ちになった。
「す、すみません。お湯を使わせて頂いた後だったので……」
「いや、構わぬ。湯を使ってもらうよう指示したのは、私だしな」
千牙はそう言うと、咲の前に座って深々と頭を下げた。
「せ、千牙さん!? なにを……!?」
「おぬしをこの里に連れてきたは良いが、開口一番、利害の話で済ませたことについて、おぬしを思い遣る言葉が足りなかったと、ハチに指摘されてな。人の身であやかしの里に連れてこられたのは、心細かっただろう。それなのに、おぬしの気持ちを慮ることが出来ず、申し訳なかった」
あやかしとは、人を食う恐ろしい生き物。猩猩を退けたとはいえ、千牙もまた、あやかし。力ない、と言われていたスズやハチと違って、この里の長たるべく力があるに違いない。その人が、あやかしから見て無力な人間に対して頭を下げるというのは、スズやハチの前だからだろうか。里のあやかしがこの場に居たら、きっと千牙の行為を許せない行為として、その者に映るだろう。
「か、顔を上げてください……! 千牙さんは何も悪いことをしていません……っ。私に『辛かったか』と気遣ってくださっただけで、十分なんです……っ。ハチやスズが人寄り過ぎるのだと思います……っ」
焦る咲に、千牙は顔を上げると、ふわりと笑みを見せた。……思いもよらない反応に、どきりとする。
「人から見て、人を食うあやかしは憎き存在であると思うのだが、咲はそのように思わないのだな」
「だって、千牙さんは何も悪いことしてませんよ、少なくとも私に対して……。邑から追い出されて、行く当てもない私に、期限付きですけど居場所を下さって……。いえ、期限はつけるべきだと思いますけど……」
人とあやかしは違う種類の存在だ。おにかみの里から見てみれば、異物混入の扱いをされてもおかしくないのに。
「すまぬな。終の棲家としては、おぬしにとってここの里は相応しくない故。ところで、咲。今から少し、出られるか」
すっと立ち上がった千牙を、慌てて追って立ち上がる。夜着だったため、スズが羽織を掛けてくれた。
「里と邑の際まで行く。朧が生まれるのは、主に夜だからな」
千牙の言葉を、咲は意外な気持ちで聞いた。咲は朧と昼にしか会っておらず、スズやハチもそのようにして出会った。
「『主に夜』なのには、理由があるんですか?」
「人が思案に暮れるのは、夜が多い故」
屋敷を出た千牙はそう言うと、咲を抱きかかえて、ひょいっと空(くう)を飛んだ。
「きゃっ!」
咲は驚きで千牙の袷にしがみつき、はっと我に返って、身を離した。千牙のひと蹴りで、里の屋敷や、他のあやかしたちの住まいの灯りが光の粒ほどに小さくなる。夜の空気を駆けて、咲は千牙と出会った場所に運ばれた。咲にも分かる邑の結界の際で、結界と地面の接地面から、淡い光の粒が、ポコポコと浮かび上がっていた。まるで、地上から星が生まれ、天に昇っていくようだ。
「きれい……」
咲が光の浮遊に見とれて呟くと、呑気にしている暇はないぞ、と千牙が厳しい目で言った。
「これらに、名をつけてもらわねばならない。名を得た朧は、私が器を与えてこの場に顕現できるようになる。顕現出来れば、悪鬼になることがなくなるのだが……」
名を得て、朧が顕現する。その様子を咲は、ハチやスズの実体化と言う事象として実際に体験している。顕現することによって、どうなるのか、顕現できなかったら、どうなるのか、と言うことについては知識がなかったが、今の千牙の言葉でおのずと知れた。