息をのむ。

やはり美しい青年だ。ただ、邑の外で見た彼とは違い、あのときの剣呑さがどこにも感じられない。穏やかな顔をして咲を見ている。

「どうした。入りなさい」

咲を見て嫌な顔をしない人、という人間に会ったことがなかったため戸惑ったが、青年に促されて、咲は部屋に入った。音をさせずに、襖が閉まる。部屋で青年と対面する形になって、咲の緊張感は増した。

この人も、あやかしなのだ。邑の外で、咲をもらい受けると言ったのが、自分が捕食するためだったのなら、咲の命はここまでだ。猩猩に食われるにしろ、この青年に食われるにしろ、邑の外に出たら、どのみち命は助からない。咲は震えながら青年が近寄るのを見ていた。

「ふ。そんなに怯えずともよい。おぬしは我が一族の恩人。食うことはせぬよ。私は千牙。この里の長だ」

低く甘い、やわらかな声音で、彼は言った。見上げる長身の千牙の顔を、仰ぎ見る。

「おぬし、名は」

「え」

「名は、なんという」

名を、問われた。

もしかして、彼は咲の名を、呼んでくれるのだろうか。いやしかし、飽いたらまた、名無しになるかもしれない。そう恐れたが、ハチとスズに元気よく名を呼んでもらったことに元気づけられ、咲は喉を震わせて、名乗った。

「さ、咲と、申します……」

咲が名乗ると、千牙はすうと目を細くし、それから口の中で咲の名を転がした。

「咲、咲……、良い名だ。まずは、咲。おにかみの里の長として、礼を言わせてくれ。朧たちに力をありがとう。感謝する」

「ち、力……、ですか……?」

思いもよらないことを言われて、咲はぽかんとした。千牙は、おや、分かっていなかったのか、と楽しそうに言葉を継いだ。

「朧たちはそもそも名を持たぬ。名を持たぬあやかしは環境に左右されやすく、やがてははびこる邪に飲まれ、悪鬼となる。おぬしが朧に名をつけたことで朧はしっかりとその性質を定め、安定した。これは、咲、おぬしの功績だ」

「私の……」

先ほど千牙は、咲を喰らおうとしていた鬼に『朧よ』と呼び掛けていた。もしかして、あの鬼は、朧の成れの果てだったのだろうか。

「そうだ。我々では、成しえなかった。あやかしは生まれつき名をもつのでな、生まれたあやかしに名をつけるという行為を知らなかったのだ」

そう、……だったのか。人が当たり前に行う命名の行為に、そんな力があるなんて思いもしなかった。

……でも、だったら、なにも咲でなくても、朧たちを想う気持ちのある人間が付けることも、可能なのでは、ないだろうか。朧は人に害をなさないし、それを知った人が名をつけることがあるかもしれない。そんな咲の考えを読んだように、千牙は続けた。

「ただ、名をつけるのが誰でも良いというわけではない。ハチとスズをはじめとした朧たちから聞いたが、咲は家族に名を呼んでもらえないことを悲しく思っていただろう? 名に対するこだわりが、おぬしにはある。その想いが力になった。……おぬしには、皮肉なことだと思うが」

千牙はそう言って、咲の頭をやさしく撫でた。……そんなことをしてもらったのが、もう記憶がかすれたはるか昔に父にしてもらったとき以来だったので、咲の目にジワリと涙が浮かんだ。

「何故泣く。やはり名を呼んでもらえなかったのは、辛かったか」

千牙の問いに、首を横に振る。違うのだ。悲しいからではない。千牙のやさしさが、嬉しかったのだ。

「……私、あやかしって、人を食う怖いものだと思っていたのですが、……違うんですね。千牙さんがやさしい方で、私、嬉しいです」

家族には捨てられた。拾われた先でこのようなやさしさに触れれば、咲の孤独で埋め尽くされていた心は簡単に傾く。滲む涙をぬぐって微笑もうとすると、千牙の手が咲の目もとから頬を覆った。

「そう判断するのは早計だ。私はおぬしを、利用しようとしている」

やさしい手つきと、突き放すような声音。どちらが本当の千牙に近いのか、初めて会った咲には判断が付かない。それでも。

「今、千牙さんは、私に『辛かったか』と聞いてくださいました。邑の誰も、私にそんな風に聞いてくれたことはなかった……。利用するんでもいいんです。もともと私には、そうされる以外に価値がないので……」

寂寥(せきりょう)を滲ませた目を細め、咲は言う。千牙はそうか、と呟き、この里での待遇について語った。

「それであれば、話は早い。里に逗留する代わりに、この里の周囲で生まれる朧に名をつけてもらいたい。それだけしてもらえれば、おぬしが次に生きていくべき人の里が見つかるまでの間、ここに居ることを叶えよう」

千牙の言葉に咲はぽかんとした。

それだけ? たったそれだけのことで、いっときの住処を与えてくれるというのか? あまりに咲に都合が良すぎて、正直狼狽える。

「あ、あの……。もっと、あの、お掃除とか、草むしりとか、そういうお仕事は……」

「要らぬよ。そもそもおぬしは、我が一族の恩人だ。そのおぬしを狡猾にも利用しようというのだから、私の方が責められなければならない」

「そんなこと……」

咲はそんな風に思っていない。猩猩に食われそうだったのを助けてもらった恩だってあるのだ。困って千牙を見つめる咲に、彼はやわらかく表情を崩した。

「おぬしは名をつけること以外に、憂うことはない。なに、いっときのことだ。竜宮城へ招かれたと思って、くつろいでくれたらいい」

千牙はそう言うと、小夜に命じて咲を退室させた。