この世には、人の命を脅かすあやかしという超常的な力を揮うものが存在する。
古き時代、人々は彼らを恐れて逃げ惑うばかりだった。しかしある時、人はあやかしとの協定に調印する。それ以降、人は人の里で、あやかしはあやかしの住まいで暮らすことになり、殺生はなくなった。ただし、条件があった。領域を超えて侵入するものがあれば、それは神から与えられた力で滅しても良い、と。その力を人は破妖の力を呼び、破妖の力を持つ人は、人々の集落――邑――毎に雇われるようになり、人の生活圏を守り続けてきた。そして破妖の人々は、邑の生活を守る代わりに、邑の人から感謝されるようになっていった。
「名無し! なにぐずぐずしてるんだい! 掃除は日が昇りきるまでに終わらせなっていつも言っているだろう!」
山の稜線が金色に輝き、邑に陽が差し始めた頃、咲(さき)は母である市子に鞭で打たれた。痛みに、持っていた膳を落としてしまう。
「すみません、お母さま」
咲が謝罪すると、また一閃、鞭が飛んだ。
「奥さまとお言い、といつも言っているだろう! 何度言っても言い間違えるお前は、本当に馬鹿で愚図だね! まったく、破妖の力のないお前みたいな役に立たないお荷物を養ってやってるんだから、もうちょっと感謝の気持ちを持って働くべきなのに、畑仕事も水仕事も、牛の世話も不出来と来ては、お前に食べさせる食事が無駄に思えてくるね!」
ピシッとまた一閃。袖から出ているがりがりの腕に赤い傷跡が出来る。うっ、と思うが、声には出さず、堪える。鞭を両手で持った市子が煌びやかな紅の着物の袂を払うと、鼻息を荒く吐いた。紅はこの時代において高価な品。それを身にまとえるだけの収入を、市子たち家族は破妖の仕事の対価として、邑人から得ていた。
「ああ、全くかわいげのない。泣いて謝罪でもしたら、鞭を緩めてやらないこともないのに」
忌々し気に市子はそう言うが、物心がつくまでの間、それをやっていたら、余計に折檻が酷くなった。つまり市子にとって咲は、存在するだけで鬱陶しい存在であり、なにをどうしたって、鞭は飛ぶのだ。
「申し訳ありません、奥さま」
「ふんっ! お前の今日の食事は抜きだよ! ぐずぐずしていた罰だ! 今から邑長(むらおさ)がやってくる。長の話はきっと破妖に絡む話だ。同じ血筋なのに破妖の才のない無能のお前は、我が家のお荷物でしかないんだから、せめてあたしらがお腹いっぱい食べられるように、食事をいっぱい用意するんだ。お前の分まで働いてくるあたしたちを労う気持ちで作るんだよ!」
「はい、かしこまりました」
咲が頭を下げると、市子は妹と父を呼びに行く。直ぐに妹の芙蓉が現れた。芙蓉は豪奢な絹をまとい、咲の腕の赤いあざを見ると、あざけるように笑った。
「名無し。お母さまの声が聞こえたけど、本当にお前は使えないのね。全く私と同じ血縁であるなんて思えないくらいの、無能さ。そのくせ、そのみすぼらしいなりで私の目の端に入る図々しさだけは、あるなんて、いっそ清々しいわ。本当に、私とお前があねいもうとであることの事実は、許しがたい天の采配だと、私思っていますわ」
芙蓉は父母の咲に対する扱いを学んで、咲を敬おうとする気持ちを持たなかった。家族のお荷物である限り、仕方ないのかもしれない。
「申し訳ありません」
「本当に申し訳ないと思ってるの? だったら、この家から出て行ってくれればいいのに。そうしたら、お父さまもお母さまも私も、みんな、無能で何も出来ないお前の世話をしなくてもよくなるもの。破妖の仕事だって、昔から私たち三人でして来たんだもの、今更名無しが居なくなったって、私たち、なんにも困らないわ」
芙蓉の言葉に、何も言い返せない。黙って俯いていると、芙蓉はあっという間に咲に関心を失くして、咲が項垂れる前を通り過ぎて行った。きっと、邑長が待つ広間に行ってしまったのだろ。はあ、とため息が零れるが、それすら息の無駄遣いのような気がした。
家に居ても役に立たない為、咲は邑外れの畑に来た。ここの畑は結界が近いために邑人は使いたがらず、安値で両親が借り上げた。この畑を世話するのは咲一人で、家族が手を入れることはない。畑は、時に天候にも左右されるが、おおよそ咲が手を入れただけその成果を咲に見せた。故にこの場所は、咲の心の拠り所のような意味合いも持っていた。
母たちに出す献立を考えながら、植えて合った根菜を抜いていく。葉物も少し、と思って視線を移したところで、視界に入る、黒い薄靄のようなものがふたつ、あった。朧(おぼろ)だ。
朧とは、黒い靄(もや)の塊のような成りの、最下級のあやかしだ。人に危害を加えることは出来ない為、咲は、何故か邑に迷い込んだ朧を、結界の外に逃がしてやっていた。今、咲の目の前には二体の朧。どちらもするりと結界の外へ行こうとせず、なにやら躊躇っているようだった。
「あなたたち。ここに居るとお母さまたちに狩られてしまうわ、お逃げなさい。結界の外なら、あなたたちの住む場所もあるでしょう」
彼らの身を案じながら、咲の心はつきりと痛む。彼らには帰るべき場所がある一方、咲には寄る辺となる場所がない。その事実に心を暗くしながら彼らの様子を窺ったが、朧は言葉を持たないため返事もない。しかし、二体の朧は体を震わせながら、どうやら咲を見ているようだ。
「どうしたの? 何か気になるの?」
彼らが命の危険が迫る中で躊躇うことを知りたくて、咲はこう提案した。
「では、あなたたちをこう呼びましょう。あなたはハチ、そっちの子はスズよ。さあ、ハチ、スズ。私になにを伝えたいの?」
名を呼ばれない悲しさを知っている咲は、出会う朧に積極的に仮の名をつけて交流してきた。咲がそう呼ぶと、朧たちはにわかにその色を濃くした。その時。
「名無し! 何してんだい!」
大きな声が、背後から飛んだ。振り返ると母たちと、邑長はじめ、幾人かの邑の偉い人がこちらに向かってきていた。咲はさっと朧たちを背後に隠し、自分が母たちと話している間に、結界の外に出るよう、促した。
「奥さま。この通り、野菜の収穫をしていました」
咲は頭を下げて先程抜いた野菜を見せるが、市子のギラギラした目は野菜を素通りして、咲を見た。
「嘘を言うんじゃないよ。お前の周囲からあやかしのにおいがプンプンするね! どうせまた、朧かなんかを匿ったんだろう。退いてごらん!」
市子が乱暴な手つきで咲を払うと、今まさに結界の外に出ようとしていた朧が市子の目の前にいた。
「ふんっ! やっぱりね! この現場を捕らえるために、際だけ守りを緩くしたんだ。お前はとんでもないあやかし憑きだね! そんなにあやかしが好きなら、その身をあやかしに捧げれば良い。邑を襲いに来るあやかしにお前を屠らせれば、暫くの間はあいつらもおとなしくしてるだろう。邑長からはまた邑を大きくしたいとの願い出があったところだ。あいつらがお前を屠って大人しくしているうちに、結界をひろげれば、あたしらは報酬がもらえる、目障りなお前は居なくなる、邑は大きくなる、で、万々歳だ。お前だって、あたしらに怒鳴られてるより、大好きなあやかしの為に命を使いたいだろう?」
口の端を吊り上げて笑う市子に、芙蓉も賛成した。
「そうね。名無しが居なくても、家は私が継ぐから安心して。もともと破妖の力のない名無しが、婿取りなんて出来る筈もなかったわよね」
市子と芙蓉の言葉を合図に、邑の人が咲を捕らえる。咲は地面にうつぶせに倒され、後ろ手に縄を掛けられると、あっという間に市子たちによって結界の外に連れ出された。結界の外に出たのは初めてだったが、邑の中と空気が違う。うすら寒くて、視界も悪い。体感的なことでぶるりと震えると、芙蓉が笑った。
「あら、名無し。破妖の力はなくても、あやかしの気配は感じるの? 周りにうようよ居るわね。あやかしはお前の骨の髄まで食べてくれるから、お前は跡形も残らないわね。ふふっ、目障りだったお前とも、ここでお別れ。せいぜい、お前の大好きなあやかしたちに、美味しく食べられてしまいなさい」
芙蓉の言うような、あやかしの気配は感じない。ただ、今後、邑には帰れないのだという絶望と、結界の外、つまりあやかしの支配する場所で、自分の命がどれだけ持つのかという恐怖で、足がすくんだ。
「ふふふ。最期にお前のその顔を見られて、満足よ。役立たずは、最初からこうしていればよかったんだわ」
家族によってそこらの木の幹に縛り付けられ、置き去りにされる。ひやりと冷たい空気が流れ、辺りを覆う靄で何も見えない中、傍に寄って来たハチとスズが咲に話し掛けてきた。
『大丈夫だ。大きなあやかしも、小さなあやかしも、手あたり次第には人を襲ったりしない』
『咲はここいらの小さなあやかしたちの恩人だもの。今、咲が結界の外に出たことを、伝令が長に伝えたから、きっと悪いようにはならないはず』
そう言われても、咲に刺さる不穏な気配に舌なめずりの音の中、咲は平常心を保てなかった。
「そ……、そんなことを言ったって、あの岩場の影とか、森の奥から、なにか殺意を感じるのよ……。私はここでお母さまたちが言っていた、あやかしに、食われるんだわ……」
ぶるぶると震えあがる咲に、ハチやスズの慰めは焼け石に水だった。
震えたまま辺りを窺っていると、どこからかこだまのような声が聞こえてきた。その声は徐々に近づいてきて、やがて咲の目の前に現れた。
大きな鬼だ。薄く透けた体をしているが、大きな角、鋭い牙、長く伸びた爪は、咲を恐怖たらしめるのに十分すぎる鋭利さを持っていた。あの牙で喰い裂かれたら、咲のやわい体などズタズタにするなど造作もないだろう。鋭い爪をした手を握ったり開いたりしながら、一歩ずつ距離を詰めてくる鬼に、咲は命の終わりを知った。
(でも、私の命で、邑が少しの間、平穏で居られるなら……)
無駄ではない。だって、邑の人たちは常にあやかしを恐れていたもの。そう思いこもうとした時。
「朧よ、控えろ。これよりこの娘は、我が一族がもらい受ける」
びゅうと桜吹雪があたりに舞い踊った。途端に、背筋を凍らせるように冷たかった空気が一変、春のような温かさに包まれる。風の流れによってふわりと桜の花びらが舞って、咲の視界を埋め尽くし、柔らかな風に乗った花びらが通り過ぎると、鬼の視線の先に、この世ならざる美しい青年が佇んでいた。
闇のような漆黒の長い髪、切れ長の目は燃えるように赤く、上背は木にくくられている咲が天を見上げる形で仰がないと顔が見えない程もある。白の着物はその場で耀かんばかりの滑らかさで、彼の挙動を待っている。邑のどの人とも比べられないほど美しい青年を前に、咲は呆けた。
『そのものは、我の獲物……。結界を超えた、人間……』
一方、こだまのような声を発するのは、鬼だ。声にそちらを向けば、相変わらず彼の視線は咲にあり、青年の隙をついて、咲を喰らおうとしているのが分かる。じりじりと間合いを詰めてくる鬼を前に、空気のぬくもりで気を取られていた咲は、相変わらず自分の命が危ういのだと思い知り、ふるりと震えた。
咲を捕食しようと、鬼が腕を振り上げる。ひゅっと爪先が空気を切り裂く音がして、自分の命の終わりを見た咲の前に、ひらりと青年が躍り出た。青年は腰に携えていた大太刀を振るい、咲に襲い掛かろうとした鬼を一刀両断にした。ぎゅっと大太刀の柄を握る手が咲の目の前に現れ、太刀に切り裂かれた鬼が、あまたの光の粒となってその場から立ち上り、消えていく。その、異形であった鬼の成りと光の粒の儚さの相反する光景を見つめていると、太刀を腰に佩きなおした青年は、造作もなく咲がくくられていた縄を解き、やすやすとその腕に咲を抱きあげた。人に見えるとはいえ、結界の外に生きるものはあやかし。咲はその存在の手中に収まってしまったことに、一瞬体をこわばらせた。
「ひゃっ」
「恐れることはない。おぬしは我が一族の恩人。丁重にもてなそう」
穏やかな笑みを湛える青年に見つめられる。家族に縄で縛られてから緊張の連続だった咲の心は限界を超え、青年に抱きかかえられたまま意識を手放した。
*
ふう、と瞼を持ち上げると、知らない天井が目に映った。格子状に張り巡らされた竿縁(さおぶち)が美しい天井板には、美しい大桜が描かれており、贅をつくしたその光景に、咲は驚いて起き上がった。
「……っ?」
気づけば、咲がいま手にした布団も、家で宛がわれていたボロではない。ふかふかで、まるで雲の上に寝たらこのような感触なのではないかと思う程だった。そうして周囲を見渡せば、部屋は家の広間の三倍はあろうかという広さ。さわやかなイ草の香りが漂い、開け放たれた障子の向こうには、痩せた邑の土ではありえない、緑豊かな庭園があった。
(ここは……)
一体どこだろう。そう思い巡らせたとき、静かに襖がひらいた。
「お目覚めですか?」
現れたのは、大人の女性と咲より四、五歳くらい年下に見受けられる少女だった。女性の落ち着いた面持ちに対して、少女の方ははちきれんばかりの喜びを我慢したような表情をしている。二人は咲が彼女たちを見つめていることを理解すると、楚々と咲の傍に近寄り、女性は少女に、水差しと湯飲みの載った盆を置かせた。
「お加減は如何ですか? 薬湯は飲めるでしょうか」
穏やかに問う女性の声は、見知らぬ場所に身を置いている咲の気持ちを、やや安心させた。
「や、薬湯ですか……? あの、それより、あなた方は一体……。それに、ここは……」
咲の戸惑いに、女性は微笑みで頷いた。
「私は小夜と申します。こちらはスズ」
「スズ?」
スズ、と言えば、咲が気を失う前に朧に着けた名前だ。何かの関係が……? と思っていると、小夜の隣で待ちきれないと言わんばかりにうずうずとしていた少女が、声を発した。
「はい、咲さま! 私はスズです! あなたさまに名を頂いた上、恐れ多いことに、長から咲さまのお世話を言いつかり、人型を与えられました。朧ふぜいの私が人型を取れるなんて、夢のようです! 咲さまのおかげです!」
喜びの叫びの声には、聞き覚えがある。確かにその声は朧のスズだった。うずうずとしているな、と思っていたら、喜びの理由はそうらしい。咲としても、朧の格好よりも人型の方が親しみやすく、ありがたいと思った。
「あの、それで、小夜さん、スズ。ここはいったい、どこなんですか?」
咲の問いに、小夜が応える。
「はい、咲さま。ここは鬼神(おにかみ)一族の長の屋敷です」
「おに……かみ……」
「はい。あなたさまは鬼神のものをお救い下さいました。長がお会いしたいと申しておりますので、薬湯を飲まれましたら、着替えて長のもとへ参りましょう」
そう言って小夜から水差しから注がれた薬湯を渡され、促されるまま飲むと、今度は部屋に次々と運び込まれた色とりどりの着物をスズから宛がわれて、面食らった。
「咲さまは色が白くていらっしゃるから、どの柄もお似合いになりそうです。こちらの水色もこの萌黄もお似合いです。……でも、そうですねえ、やはりこちらの緋色(あけいろ)でしょうか。お顔立ちがはっきりとして、大変お美しいです」
最後に宛がわれたのは、おおよそみすぼらしい咲に似合うとは思えない、贅沢に桜が染め上げられた緋色の着物だった。
「あ、あの、スズ、私……」
スズは戸惑う咲をてきぱきと着替えさせ、着替えた咲を小夜が部屋の外へと促した。部屋の外には少年が控えていた。
「わあ、咲さま、お似合いです!」
「あ、あなたは……?」
くりくりとした目を咲に向けた少年は、スズと同じ年頃に見える。もしかして。
「はい、俺はハチです。スズと同様、咲さまのお世話をするよう、長から言いつかっております」
「そうだったの……。でも、なんだか悪いわ。私はスズもハチも、友達のような感覚なのに……」
咲の言葉にハチはにかっと笑った。
「咲さまが俺たちに親しみを持ってくださるのは、嬉しいです。でも、俺たちから見たら、咲さまは恩人です。どうかお仕えさせてください」
ハチの言葉にスズも、「私からも、お願いです」と言って頭を下げる。困った咲は、結局ハチとスズを受け入れた。
「では、奥へ。長の部屋にご案内します」
そう言ってハチが咲と小夜を屋敷の奥へといざなった。鬼神の長とやらが、何故咲をこんなに丁重にもてなすのか理解が追い付かないままに連れられて、艶やかに磨かれた長い長い廊下を歩く。そして廊下の一番にある部屋の前でこちらです、と案内され、ハチが襖に手を掛ける。
「長。お連れいたしました」
ハチがそう言うと、入れ、と短く応答があった。あけられた襖の奥には、先程の部屋の二倍ほどあろうかと言う部屋が広がっており、その奥の文机に向かっていたあの青年が、こちらを振り向いた。
息をのむ。
やはり美しい青年だ。ただ、邑の外で見た彼とは違い、あのときの剣呑さがどこにも感じられない。穏やかな顔をして咲を見ている。
「どうした。入りなさい」
咲を見て嫌な顔をしない人、という人間に会ったことがなかったため戸惑ったが、青年に促されて、咲は部屋に入った。音をさせずに、襖が閉まる。部屋で青年と対面する形になって、咲の緊張感は増した。
この人も、あやかしなのだ。邑の外で、咲をもらい受けると言ったのが、自分が捕食するためだったのなら、咲の命はここまでだ。猩猩に食われるにしろ、この青年に食われるにしろ、邑の外に出たら、どのみち命は助からない。咲は震えながら青年が近寄るのを見ていた。
「ふ。そんなに怯えずともよい。おぬしは我が一族の恩人。食うことはせぬよ。私は千牙。この里の長だ」
低く甘い、やわらかな声音で、彼は言った。見上げる長身の千牙の顔を、仰ぎ見る。
「おぬし、名は」
「え」
「名は、なんという」
名を、問われた。
もしかして、彼は咲の名を、呼んでくれるのだろうか。いやしかし、飽いたらまた、名無しになるかもしれない。そう恐れたが、ハチとスズに元気よく名を呼んでもらったことに元気づけられ、咲は喉を震わせて、名乗った。
「さ、咲と、申します……」
咲が名乗ると、千牙はすうと目を細くし、それから口の中で咲の名を転がした。
「咲、咲……、良い名だ。まずは、咲。おにかみの里の長として、礼を言わせてくれ。朧たちに力をありがとう。感謝する」
「ち、力……、ですか……?」
思いもよらないことを言われて、咲はぽかんとした。千牙は、おや、分かっていなかったのか、と楽しそうに言葉を継いだ。
「朧たちはそもそも名を持たぬ。名を持たぬあやかしは環境に左右されやすく、やがてははびこる邪に飲まれ、悪鬼となる。おぬしが朧に名をつけたことで朧はしっかりとその性質を定め、安定した。これは、咲、おぬしの功績だ」
「私の……」
先ほど千牙は、咲を喰らおうとしていた鬼に『朧よ』と呼び掛けていた。もしかして、あの鬼は、朧の成れの果てだったのだろうか。
「そうだ。我々では、成しえなかった。あやかしは生まれつき名をもつのでな、生まれたあやかしに名をつけるという行為を知らなかったのだ」
そう、……だったのか。人が当たり前に行う命名の行為に、そんな力があるなんて思いもしなかった。
……でも、だったら、なにも咲でなくても、朧たちを想う気持ちのある人間が付けることも、可能なのでは、ないだろうか。朧は人に害をなさないし、それを知った人が名をつけることがあるかもしれない。そんな咲の考えを読んだように、千牙は続けた。
「ただ、名をつけるのが誰でも良いというわけではない。ハチとスズをはじめとした朧たちから聞いたが、咲は家族に名を呼んでもらえないことを悲しく思っていただろう? 名に対するこだわりが、おぬしにはある。その想いが力になった。……おぬしには、皮肉なことだと思うが」
千牙はそう言って、咲の頭をやさしく撫でた。……そんなことをしてもらったのが、もう記憶がかすれたはるか昔に父にしてもらったとき以来だったので、咲の目にジワリと涙が浮かんだ。
「何故泣く。やはり名を呼んでもらえなかったのは、辛かったか」
千牙の問いに、首を横に振る。違うのだ。悲しいからではない。千牙のやさしさが、嬉しかったのだ。
「……私、あやかしって、人を食う怖いものだと思っていたのですが、……違うんですね。千牙さんがやさしい方で、私、嬉しいです」
家族には捨てられた。拾われた先でこのようなやさしさに触れれば、咲の孤独で埋め尽くされていた心は簡単に傾く。滲む涙をぬぐって微笑もうとすると、千牙の手が咲の目もとから頬を覆った。
「そう判断するのは早計だ。私はおぬしを、利用しようとしている」
やさしい手つきと、突き放すような声音。どちらが本当の千牙に近いのか、初めて会った咲には判断が付かない。それでも。
「今、千牙さんは、私に『辛かったか』と聞いてくださいました。邑の誰も、私にそんな風に聞いてくれたことはなかった……。利用するんでもいいんです。もともと私には、そうされる以外に価値がないので……」
寂寥(せきりょう)を滲ませた目を細め、咲は言う。千牙はそうか、と呟き、この里での待遇について語った。
「それであれば、話は早い。里に逗留する代わりに、この里の周囲で生まれる朧に名をつけてもらいたい。それだけしてもらえれば、おぬしが次に生きていくべき人の里が見つかるまでの間、ここに居ることを叶えよう」
千牙の言葉に咲はぽかんとした。
それだけ? たったそれだけのことで、いっときの住処を与えてくれるというのか? あまりに咲に都合が良すぎて、正直狼狽える。
「あ、あの……。もっと、あの、お掃除とか、草むしりとか、そういうお仕事は……」
「要らぬよ。そもそもおぬしは、我が一族の恩人だ。そのおぬしを狡猾にも利用しようというのだから、私の方が責められなければならない」
「そんなこと……」
咲はそんな風に思っていない。猩猩に食われそうだったのを助けてもらった恩だってあるのだ。困って千牙を見つめる咲に、彼はやわらかく表情を崩した。
「おぬしは名をつけること以外に、憂うことはない。なに、いっときのことだ。竜宮城へ招かれたと思って、くつろいでくれたらいい」
千牙はそう言うと、小夜に命じて咲を退室させた。
*
「咲さま、薬を塗りますね」
夜である。あやかしも、人型は人のように過ごすらしく、先ほど湯あみをさせてもらった。湯を使うなど、子供の時以来だった。普段は井戸水や川で体の汚れを落としていただけだったので大層汚れていたと思うが、スズがせっせと体を洗ってくれたおかげで、咲は今、人生で一番清潔な状態だ。
ちなみに最初は体を洗ってもらうのは断った。しかしスズに、お役目だから、それを奪わないでほしい、と懇願されて、折れた。お役目があることは、その人を強くする。例えば破妖の力に恵まれた、芙蓉のように。咲にはなんのお役目もなかったから、日々、無能であることを悔い続けた。そんな思いをスズたちにして欲しくなかった為、咲は鬼神の里に来てから彼らに世話になっている。
スズがきれいな小瓶から軟膏を指にすくい上げる。それを、腕や背中、腹や脚に至るまで広がる市子や芙蓉からの暴力の痕に塗り込んでいく。ややしみるが、我慢できない程ではない。
「しみますか。明日は薬を変えましょう」
「いいのよ、スズ。薬を頂けるだけでも贅沢だわ」
「いいえ。咲さまは我がおにかみ一族の恩人。そして、私の恩人です。恩人の為に少しくらい薬を探すことなんて、大した労ではありません。それより、咲さまにお健やかにお過ごしいただく方が、大事です」
スズが首を横に振って頑なに譲らなかった為、ここも咲が折れた。とはいえ、咲は特別なことをした気がしていないので、申し訳なくはある。
(でも、名を呼んでもらえた嬉しさは、分かるから……)
きっとスズも同じ気持ちなのだろう。そう思って身を任せる。
やがて全身の傷に薬を塗り終えた頃、部屋の外からハチが声をかけてきた。
「咲さま、長がお見えになっています。お通しして宜しいでしょうか」
明朗でよく通るその声に、咲は夜着の上から羽織を羽織らせてもらって、どうぞと応じた。部屋に入って来た千牙は昼間と同じ着物を着ており、咲ひとりがくつろいだ姿であるのに、やや申し訳ない気持ちになった。
「す、すみません。お湯を使わせて頂いた後だったので……」
「いや、構わぬ。湯を使ってもらうよう指示したのは、私だしな」
千牙はそう言うと、咲の前に座って深々と頭を下げた。
「せ、千牙さん!? なにを……!?」
「おぬしをこの里に連れてきたは良いが、開口一番、利害の話で済ませたことについて、おぬしを思い遣る言葉が足りなかったと、ハチに指摘されてな。人の身であやかしの里に連れてこられたのは、心細かっただろう。それなのに、おぬしの気持ちを慮ることが出来ず、申し訳なかった」
あやかしとは、人を食う恐ろしい生き物。猩猩を退けたとはいえ、千牙もまた、あやかし。力ない、と言われていたスズやハチと違って、この里の長たるべく力があるに違いない。その人が、あやかしから見て無力な人間に対して頭を下げるというのは、スズやハチの前だからだろうか。里のあやかしがこの場に居たら、きっと千牙の行為を許せない行為として、その者に映るだろう。
「か、顔を上げてください……! 千牙さんは何も悪いことをしていません……っ。私に『辛かったか』と気遣ってくださっただけで、十分なんです……っ。ハチやスズが人寄り過ぎるのだと思います……っ」
焦る咲に、千牙は顔を上げると、ふわりと笑みを見せた。……思いもよらない反応に、どきりとする。
「人から見て、人を食うあやかしは憎き存在であると思うのだが、咲はそのように思わないのだな」
「だって、千牙さんは何も悪いことしてませんよ、少なくとも私に対して……。邑から追い出されて、行く当てもない私に、期限付きですけど居場所を下さって……。いえ、期限はつけるべきだと思いますけど……」
人とあやかしは違う種類の存在だ。おにかみの里から見てみれば、異物混入の扱いをされてもおかしくないのに。
「すまぬな。終の棲家としては、おぬしにとってここの里は相応しくない故。ところで、咲。今から少し、出られるか」
すっと立ち上がった千牙を、慌てて追って立ち上がる。夜着だったため、スズが羽織を掛けてくれた。
「里と邑の際まで行く。朧が生まれるのは、主に夜だからな」
千牙の言葉を、咲は意外な気持ちで聞いた。咲は朧と昼にしか会っておらず、スズやハチもそのようにして出会った。
「『主に夜』なのには、理由があるんですか?」
「人が思案に暮れるのは、夜が多い故」
屋敷を出た千牙はそう言うと、咲を抱きかかえて、ひょいっと空(くう)を飛んだ。
「きゃっ!」
咲は驚きで千牙の袷にしがみつき、はっと我に返って、身を離した。千牙のひと蹴りで、里の屋敷や、他のあやかしたちの住まいの灯りが光の粒ほどに小さくなる。夜の空気を駆けて、咲は千牙と出会った場所に運ばれた。咲にも分かる邑の結界の際で、結界と地面の接地面から、淡い光の粒が、ポコポコと浮かび上がっていた。まるで、地上から星が生まれ、天に昇っていくようだ。
「きれい……」
咲が光の浮遊に見とれて呟くと、呑気にしている暇はないぞ、と千牙が厳しい目で言った。
「これらに、名をつけてもらわねばならない。名を得た朧は、私が器を与えてこの場に顕現できるようになる。顕現出来れば、悪鬼になることがなくなるのだが……」
名を得て、朧が顕現する。その様子を咲は、ハチやスズの実体化と言う事象として実際に体験している。顕現することによって、どうなるのか、顕現できなかったら、どうなるのか、と言うことについては知識がなかったが、今の千牙の言葉でおのずと知れた。
「では、朧たち。あなたがたを、こう呼びましょう。ミノリ、ナギ、チヨ、アズサ……」
咲が光の粒ひとつひとつを指さし、名を呼んでいくと、光の粒がゆうらりと地上に降りてその場に留まり、その光の粒に千牙が手をかざすことで人型を取っていく。光を放つ透けた人型が、みるみるうちに光を手放し、質感のある人型の朧となる。こうなるともう、見た目は人間だ。
「ユキ、アカツキ、ヒナ、リク……」
浮き上がろうとしていた光の粒が、どんどん地上に集まってくる。千牙がもれなくそれらに人型を与えていく。
「シロガネ、ムツミ、タイラ、ヒジリ……」
発生していた全ての朧に名をつけ終わり、千牙が器を与えきると、その場には幼い子供の成りをした朧がずらりと揃った。彼らはきらきらした目で咲を見ている。みな、生を受けて喜びを隠しきれない子供の顔をしていた。
「見事だな、咲。一気にこれだけの数の朧を顕現とは。しかも全て、彼らを慶する名だな」
「母には、素敵な名前を付けてもらいました。私は長女だったので、両親の期待のもと、破妖の力が満開に花開くようにと、『咲』と名付けられたんです。……期待に沿えなくて、申し訳ないばかりでしたが……」
だから、自分の分も朧たちには幸せになって欲しかった。朧たちが、名を得ることで良き生を生きられるならと、そう願って付けたのだ。
「君のような考え方は新鮮だな。私は朧に名を与えてくれとは言ったが、名に言祝ぎを与えてくれとは言わなかった」
おかしなことを言う。名をつけるとはつまり、その相手の未来を祈ること。幸多からんと祈らないなんて、聞いたこともない。
咲がそう言うと、千牙が口端を歪めて目を伏せた。
「……そうか、名をつけるとは、そう言う意味があるのだな……」
「千牙さん……?」
わずかに寂しそうな千牙の表情が目に焼き付く。……そういえば、『千牙』とは、どういう意味をもってつけられたのだろうか。
「……あやかしの人たちの名前は、どなたが付けているのですか?」
朧たちは名を持たないと言った。では、千牙をはじめ、『朧ではないあやかし』は違うのだろう。だとしたら、誰が付けているのだろうか。咲の素直な疑問に、千牙はちゃんと答えてくれる。
「あやかしは生まれた時から名を持つ。朧のような弱いあやかしは名を持つことが出来ぬが、力が備わっていれば、その力を制御すべく、名を内包して生まれてくる」
「そうなんですね……。人間とは全然違う……」
「そうだな、だから、その者の未来を祝する彼らの名は、彼らにとっても喜びだろう。良い名を、ありがとう。咲」
微笑んで千牙がそう言うものだから、咲は戸惑いつつも、照れて頭を描いた。そんな大層なことをしたとは思っていないからだ。
「じゃあ、千牙さんのお名前は、どういう力を制御するために持って生まれたんですか?」
何気ない疑問だった。千の牙、の名は、なにを意味するのだろうと。すると、咲の問いに、問いで応えられた。
「では咲はどんな意味だと思う。言葉の意味を色々知っている咲なら、分かるのではないか?」
どんな名とは……。強そう、とは思うが……。
「『強い力をもって、おにかみの里を護るものたれ』……、とかいう感じですか……?」
漢字の雰囲気で応じると、千牙は、なるほど、と感心したように目を瞠った。
「咲の口から出てくる名は、全部美しいな。私の名が、そういう意味だったらよかっただろうと思うよ」
では、違うということだ。まあ、あやかしの力を制御する名前なんて、咲には見当もつかないから、当たらなくて当然だ。
「じゃあ、どんな意味なんですか? なぞかけをしたら、仕掛けた人は、答えを教えてくれるべきだと思いますが……」
咲が言うと、千牙はそういうものか、と言って、口許を歪めながら、こう応えた。
「私のもとの名は別にある。この名は、私が人とあやかしの間を調停する者としてその責を任じられた時に、神々から与えられたものだ」
「与えられたもの……」
命名、みたいなものだろうか。咲が考えていると、人と違ってな、と前置きをして千牙は更に続けた。