「名無し! 何してんだい!」
大きな声が、背後から飛んだ。振り返ると母たちと、邑長はじめ、幾人かの邑の偉い人がこちらに向かってきていた。咲はさっと朧たちを背後に隠し、自分が母たちと話している間に、結界の外に出るよう、促した。
「奥さま。この通り、野菜の収穫をしていました」
咲は頭を下げて先程抜いた野菜を見せるが、市子のギラギラした目は野菜を素通りして、咲を見た。
「嘘を言うんじゃないよ。お前の周囲からあやかしのにおいがプンプンするね! どうせまた、朧かなんかを匿ったんだろう。退いてごらん!」
市子が乱暴な手つきで咲を払うと、今まさに結界の外に出ようとしていた朧が市子の目の前にいた。
「ふんっ! やっぱりね! この現場を捕らえるために、際だけ守りを緩くしたんだ。お前はとんでもないあやかし憑きだね! そんなにあやかしが好きなら、その身をあやかしに捧げれば良い。邑を襲いに来るあやかしにお前を屠らせれば、暫くの間はあいつらもおとなしくしてるだろう。邑長からはまた邑を大きくしたいとの願い出があったところだ。あいつらがお前を屠って大人しくしているうちに、結界をひろげれば、あたしらは報酬がもらえる、目障りなお前は居なくなる、邑は大きくなる、で、万々歳だ。お前だって、あたしらに怒鳴られてるより、大好きなあやかしの為に命を使いたいだろう?」
口の端を吊り上げて笑う市子に、芙蓉も賛成した。
「そうね。名無しが居なくても、家は私が継ぐから安心して。もともと破妖の力のない名無しが、婿取りなんて出来る筈もなかったわよね」
市子と芙蓉の言葉を合図に、邑の人が咲を捕らえる。咲は地面にうつぶせに倒され、後ろ手に縄を掛けられると、あっという間に市子たちによって結界の外に連れ出された。結界の外に出たのは初めてだったが、邑の中と空気が違う。うすら寒くて、視界も悪い。体感的なことでぶるりと震えると、芙蓉が笑った。
「あら、名無し。破妖の力はなくても、あやかしの気配は感じるの? 周りにうようよ居るわね。あやかしはお前の骨の髄まで食べてくれるから、お前は跡形も残らないわね。ふふっ、目障りだったお前とも、ここでお別れ。せいぜい、お前の大好きなあやかしたちに、美味しく食べられてしまいなさい」
芙蓉の言うような、あやかしの気配は感じない。ただ、今後、邑には帰れないのだという絶望と、結界の外、つまりあやかしの支配する場所で、自分の命がどれだけ持つのかという恐怖で、足がすくんだ。
「ふふふ。最期にお前のその顔を見られて、満足よ。役立たずは、最初からこうしていればよかったんだわ」
家族によってそこらの木の幹に縛り付けられ、置き去りにされる。ひやりと冷たい空気が流れ、辺りを覆う靄で何も見えない中、傍に寄って来たハチとスズが咲に話し掛けてきた。
『大丈夫だ。大きなあやかしも、小さなあやかしも、手あたり次第には人を襲ったりしない』
『咲はここいらの小さなあやかしたちの恩人だもの。今、咲が結界の外に出たことを、伝令が長に伝えたから、きっと悪いようにはならないはず』
そう言われても、咲に刺さる不穏な気配に舌なめずりの音の中、咲は平常心を保てなかった。
「そ……、そんなことを言ったって、あの岩場の影とか、森の奥から、なにか殺意を感じるのよ……。私はここでお母さまたちが言っていた、あやかしに、食われるんだわ……」
ぶるぶると震えあがる咲に、ハチやスズの慰めは焼け石に水だった。
震えたまま辺りを窺っていると、どこからかこだまのような声が聞こえてきた。その声は徐々に近づいてきて、やがて咲の目の前に現れた。
大きな鬼だ。薄く透けた体をしているが、大きな角、鋭い牙、長く伸びた爪は、咲を恐怖たらしめるのに十分すぎる鋭利さを持っていた。あの牙で喰い裂かれたら、咲のやわい体などズタズタにするなど造作もないだろう。鋭い爪をした手を握ったり開いたりしながら、一歩ずつ距離を詰めてくる鬼に、咲は命の終わりを知った。
(でも、私の命で、邑が少しの間、平穏で居られるなら……)
無駄ではない。だって、邑の人たちは常にあやかしを恐れていたもの。そう思いこもうとした時。