ざあ、と春の香りと共に突風が吹き、幾万の花びらに視界を奪われる。空気を切り裂く音と共に、咲を捕らえていた鬼の腕がもげ、落ちる、と思った瞬間、誰かに支えられた。
『ぐう……!』
花びらと共に現れたのは、千牙だった。彼は咲を腕に抱え、片腕を切り落とされた鬼と対峙している。落ちた腕は、その形を崩し、淡く光り、粒になっていく。
「千牙さん! 鬼を切ってしまったら、千牙さんが苦しいだけだわ!」
咲が言うにも関わらず、千牙は鬼とにらみ合い、その太刀を引かなかった。
「おぬしを失うことに比べれば、自分が苦しいことなど些細なことだ。咲。お前は生きていなければならない。朧たちの為にも」
千牙にそう言われて、咲は閃いた。最初に千牙が鬼から救ってくれた時、斬られた鬼は光の粒になって消えていなかったか。千牙と鬼がにらみ合い、その間合いを縮めていく。
「千牙さん。では、私はあなたが苦しまないよう、頑張ってみます!」
咲の言葉に千牙がちら、と視線を寄越し、そして地を蹴った。飛び上がった千牙は大太刀を鬼の頭に振り下ろし、最初に会った時同様、鬼を一刀両断にする。鬼が切り裂かれた部分から、光の粒となって空へ上っていく。咲は両手をひろげて、その光の粒に唱えた。
「天に帰る朧たち。あなたたちの未来を祝し名付けましょう。ホマレ、キチ、サカキ、アン……」
鬼の形が崩れゆき、その場には幼い子供の笑い声が溢れていく。鬼を切った千牙もまた、驚いていた。
「これは……、解呪か……」
「シノノメ、ヨスガ、イツキ、ヒビキ……」
光が透明になり、泡となって消えていく。
「我欲に縛られ、悪鬼となった朧たちを、赦しているのか……」
「アヤ、リツ、ノゾミ、ミヤビ……。みんなみんな、行く末健やかに。そして幸多かれ……」
そして最後の一粒までが天に昇るのを見届けて、咲は腕を下ろした。その場には、最後の朧が昇天していくのを見届けた千牙と、鬼の変化に驚き呆けた市子たちの姿があった。呆けたままの市子たちに、千牙が相対する。
「おぬしたちの所業、つぶさに見てきたが、思いあがること甚だしく、利己的かつ我欲尽きるところなく、もはや酌量の余地はない。よって、古の協定に則り、おぬしたちに与えし破妖の力をはく奪することが決定した。今後はいち邑民として、心平らかに畑(はた)を耕し、つつましく暮らしていくがいい」
千牙はそう宣誓し、市子たちに向かって太刀風を吹かせた。すると市子たちは手に持っていた武器をあっけなく落とし、更にそれが持ち上がらないようだった。
「なんで!? たいして重さのない筈の飛刀が持てない!」
「太刀に指もかからない! あんた! あたしたちになにをしたんだい!」
食って掛かる市子たちを、千牙は歯牙にもかけない。やがて彼女たちを森から出てきたあやかしが囲む。千牙はその悲鳴が聞こえないところまで咲を抱いて飛ぶと、降り立った先で咲に向き直って両手を取り、こう言った。
「咲。おぬしの清き心、まことに美しい。おぬしさえよければ、この先ずっと、私の傍にいてくれないか」
えっ。
まるでとこしえを誓う求婚のようではないか。咲が目を丸くしていると、千牙は穏やかに微笑んだ。
「おぬしは朧の解呪と同じ力で、私に掛けられた呪も解いてくれた。私は新たに持ちえた桜玉の名をもって、おぬしの前に跪こう。我が愛しき咲。この命、おぬしに預ける」
彼が咲の目の前に跪く。両手を大きな手のひらに包まれて、動悸が収まらなかった。
「え……っ?」
咲が驚くと、彼はふふ、といたずらな笑みを見せた。
「私は人妖界の調停者として役を任じられた時に、本当の名をあの桜に封じられた。咲が名付けてくれたことで、私は自由になったのだ」
そんな重大な桜とは知らされていなかった。力の大きな妖が力の弱いものに名を呼ばせるとどうなるかということは、千牙自身が言及していたところなのに。
「咲にだけ、その名で呼ばれたい」
名を呼ばれることの喜びを、咲は知っている。彼もまた、名を呼ばれたがっている。
「お、……桜玉さん……」
「ふふ、こそばゆいな」
桜玉は満足げに微笑んで、こう言った。
「神々におぬしの働きを上申した。神々はおぬしの働きを褒め、その働きをもっておぬしを名づけ巫女とし、私と共に生きていく旨、了承してくれた。私は人妖界の調停者。この役割がおぬしを苦しめることになるかもしれぬが、私はどうしてもおぬしを離したくない。咲、頷いてはくれぬか」
桜玉の言葉を信じがたい気持ちで聞く。咲のしたことが褒められた? 咲に、この先ずっとの居場所をくれようというのか!?
大きな手が、震えている。まさか、咲相手に緊張している? まさか、まさか……?
喉がカラカラで、声が張り付く。上手く言葉を継げない咲を、桜玉は耐えられない、と言ったように抱き締めた。
「咲! 否やの言葉は聞きたくない。はい、とだけ言ってくれ。それ以外は、聞きたくない」
常に大人びていた彼の感情溢れる声に、咲は涙腺が崩壊してしまう。幸せすぎて、溶けてしまいそうだ。
「はい……。桜玉さん、はい、ずっと……」
彼の胸に抱きしめられて、咲は泣いた。泣き止むまで、桜玉が抱き締めていてくれた。