夜、咲は千牙に伴われて、今日も境界に生まれる朧の名づけに来ていた。千牙の力によってその場に顕現した朧たちを前に、千牙は咲に問うた。
「咲。おぬしの大事なものとは、なんだ」
急に問われた咲は、一瞬虚を突かれ、即座に返事を返せなかった。
「だいじな、もの……」
「うむ。これだけ毎日、朧の顕現に尽力してくれているおぬしに、出来れば悲嘆なきよう、努めたい」
厳しい面持ちの千牙から、どこか緊張感を感じた。
「……なにか、起こるのですか……? よくないことが……?」
咲はサッと顔を青ざめさせた。咲の気持ちを慮ってくれるということは、今の平穏が未来までない、と言うことを意味するのだろう。おそらく、咲が心を寄せるどこかで、それが崩れて行こうとしているのだ。
しかし、自分に口を出す権利はないのだ。ここはあやかしの里。異種である自分が追いやられるのも道理だし、先程聞いた『境界の際で……』という言葉が今の千牙の言葉に掛かってくるのなら、それは人とあやかしの両者を調停する千牙の権限に従うべきだ。そもそもほとんどだれにも頼れず生きてきた。自分の行く末なら自分で責任が持てるし、千牙が決めたことなら、それを粛々と行えばいいと思う。
「私の大事なものなど、どうでもいいのです。ひとりの人間の『大事』と、人妖界の調停を司る千牙さんの抱える『大事』では、重さが違います。どうか、千牙さんの『大事』を優先してください」
微笑みながら応えた時、咲は決めた。いっときのやすらぎをくれた、この人やスズやハチたちが、このあとの永い時間、幸せで居られるよう、自分は霞のようにこの里から消えた方がいいのだと。咲が応えたあとも、千牙は難しい顔をして、口を引き結んでいた。やや黙っていると、やがて、はあ、と、大きなため息をつかれた。
「……おぬしは本当に、望みを口にしない。おぬしの望みひとつを叶えることで、私の心が安らぐとは、思わないのか」
やや脅しに聞こえるが、普段平静な千牙らしくなく眉宇が揺れて、それが本意ではないと示していた。本意でないことを咲に付きつけて、どうしたいのか。望みを叶えれば、千牙は咲から解放される。その結果を得たいのだと咲は気付き、背筋を正して言葉を発した。
「では、望みを……。……千牙さんがこの先、とこしえに幸せであるよう、……私を人の里に降ろしてください」
千牙は朧と自身の恩人である咲を、恩を付きとおすがために自ら突き放せない。であれば、咲から退くしかない。永遠の春なんてない。春を知れば、やがて夏が来て、時は移ろっていく。それが咲の時間だ。千牙の時間とは違う。交わって良い時間軸ではなかった。何気なく朧たちに名をつけたばっかりに……!
(こんなに安寧な幸せを得てしまったあとなんて、何処へ行っても私には同じ……)
居場所を得た。役割を得た。その中で、やさしさを得た。水を得た心には、ただ一人へと向かって咲き誇る花があった。でも、もうそれもおしまい。違う世界へと降りて、もう二度と会えない。会わなければ心は再び干からびて、やがて花は枯れるだろう。そうしてそうして、人の世界で生きていく。命を救ってもらった時から、決まってしまっていたことだった。咲の言葉を受けて、千牙はわずかの瞑目ののち、承った、と小さく呟いた。とこしえの春の世界で、木枯らしが吹いたように感じた。