「……では、『桜玉』と。千牙さんの末なる友として、千牙さんを支えてくれるように」
「ほう、良い名だ。桜玉も喜んでいる」
千牙は穏やかに桜を見上げ、誇らしげに咲いている花を一輪手折ると、咲の髪に刺した。
「咲。今後、なにか困ったことがあれば、桜玉の名で助けを呼べ。桜といえど、桜玉もおにかみの里の命。名の礼として、きっとおぬしを助けてくれる」
「え……っ、でも……」
咲が遠慮を見せると、こつん、と指で額を弾かれた。
「そもそも、おぬしがなにも望みを考えぬから仕掛けたことだ。否とは言わせぬ」
千牙はそう言って、結構な迫力で咲に是と言わせた。咲が頷いたことで、どこかしら機嫌の良さそうな千牙をちらりと仰ぎ見る。
(困ることって……。あやかしの里の桜なら、なにか不思議な力でも働くのかしら……。でもこれから私は何処かの人の邑に行くのだし、そうなれば桜玉の助けを借りずに、自分の力で生きて行かなきゃいけないもの……)
そうは思いつつも、千牙の配慮を嬉しく思う。嬉しく思うが、その心が自分を弱くしないと良いが……、と、咲は気を引き締めた。
部屋に戻ると、小夜が待っていた。どうやら千牙を呼びに来たらしい。咲が最初に千牙と契約について話をしていた時も部屋に控えていたし、小夜はきっと千牙に近しい地位のあやかしなのだろう、と思う。
「おや、その桜は」
小夜が咲を見て、そう気が付いた。髪に刺してもらったままになっていた桜を指摘されて、なんとなく照れる。
「長に贈られましたか」
「は、はあ……」
小夜は、ハチやスズのように感情を面に載せない。始終穏やかに微笑んでいて、それが里の長たる千牙の傍に控える立場の余裕なのだろうと思う。その余裕を、すごく、いいな、と思う。
(? 『いいな』?)
ふと、湧いた感情を疑問に思っていると、千牙がぽんぽんと咲の頭を撫でて、また来る、と言い残し、小夜と部屋を出て行った。部屋の襖が閉じる間際に聞こえた、『境界の際で……』と言う言葉が耳に入る。また、朧が生まれるのだろうか。思案していると、小夜が部屋から出ていくのを見計らって、部屋の隅から近づいてきたスズが、満面の笑みで咲に話し掛けてきた。
「咲さま、よかったですね! 庭の桜は、長そのものだと聞いております。その花を贈られただなんて、素敵です~!」
ああ、千牙が双子同然と表現したことか。その件については、咲の心中でも、御しがたい感情が走っている。千牙が去った今、改めて桜に触れてみて、その意味を推しはかろうとしている。
「あの……、花を贈ることは、なにか特別な意味が……、あったりする……? その、憐みを与えるというような意味合いの……」
故郷の邑では、咲になにかを与えようなどと考える者はいなかった。咲が無能の役立たずだったからだ。この里では、かろうじて千牙の役には立っているらしいから、食べ物ではないにしろ、これは餌付け……?
咲の言葉に、スズは吹き出した。
「やだ、咲さま! 殿方からの贈り物……、それも長からの贈り物を、憐みの所為だなんて思っちゃ駄目ですよう! これはれっきとした好意! そうに決まってます!」
なんて言ったって、朧に名をくださる咲さまのおやさしさに、感銘を受けられたのだわ!
なとど、スズが興奮している。それとは反対に、襖の外に控えていると思しきハチの声が、部屋に届いた。
「スズ。お前が長と咲さまの間に、なんの浪漫を感じているか知らないが、咲さまは人の里に帰られるお方だぞ。長だって、そのあたりはお分かりになっていらっしゃるんじゃないのか。俺たちは、咲さまの逗留中になんのご不便もないよう心を尽くすだけの役割で、勝手にお二人の関係を想像して良いってもんじゃない」
ハチの冷静な言葉に、咲も我に返ることが出来た。そうだよね、ここに居られる期間は限られているわけだし、そもそも違う種族の生き物。千牙がなにかを想って桜をくれたなどと、思っちゃ駄目だよね。
咲がそう思う中、スズはハチの言葉に不満のようだった。ハチは乙女心を分かってない、とか、長が執務室から頻繁に出てくるなんて、珍しいことだって小夜さんが言ってたんだから、などと、ぶつぶつ言っている。そうなると咲としては、スズを宥めるしか他なく……。
「スズ。私は大鬼の前で命が途切れるところを、千牙さんに救って頂いただけで、もうそれ以外は何もいらないの。もし、次に行く邑が、破妖の力とは関係のない邑だったら、無能の私でも穏やかに生きていけるかもしれないでしょう? だから、その未来が来るまでの間、少しだけハチやスズと仲良く出来たら、それだけで私は満足よ」
にこりと微笑むと、スズは、咲さまぁ~、と涙ぐんで、ぎゅっと咲に抱き付いてきた。
「わたし、咲さまとお別れしたくないですぅ~……。咲さまが、ずっとこの里に居て下さればいいのに……」
「スズがそう思ってくれた、っていう事実だけで、私、これからを生きていけるわ」
スズの背を撫でながら、咲は言う。でもこれが千牙だったら、自分はどう思っただろう、などと言うことをふと思ってしまって、咲はその思考を否定するのに苦労した。