「私たちが生まれ持ってくる名は、いわばその者の心の臓だ。名を呼ばせるということは、その相手に力の根源を握られるという事。私はあやかしの頂点として任を受けた時から、他のあやかしの誰にもその心の臓を握らせないために、与えられた名を名乗ってきた。時は千も万も過ぎ、私の本当の名を知っているものは、もはやあやかしの世界は居なくなった。神々はそうすることで、私に人とあやかしの間の調停をしやすくしたのだ」

咲は千牙の説明をぽかんと聞いていた。名を呼ぶということに、そんな意味が込められているなんて知らなかった。じゃあ咲は、ハチやスズの心臓を握っていたことになるのだろうか?

「朧には力はない。咲がハチやスズのことを呼ぶにも、何の支障もない。力あるものだけが、名を呼ばせるのを嫌がる」

「……力あるものが、不適切な相手に名を呼ばれたら……、どうなるんですか……?」

咲の問いに、千牙はくすりと笑った。

「どうなる? 力の大小にもよるだろうが、それ相応の報いを受けるだろうな。力こそ、あやかしの全てなのだから」

ぞっとした。千牙が本当の名を、咲に知らせてくれなくて良かった。どんな力弱いあやかしよりも、人は弱い。彼の本当の名を知らずに呼んでいたら、この里に逗留を許されるまでもなく、咲は八つ裂きにされていたのだろう。しかし、羽織の上から腕をさすった咲を見て、せぬよ、と千牙は言った。

「おぬしは里のものの恩人だ。そのようなことはせぬよ。朧は弱すぎるが故に、何処の里も引き受けたがらないあやかしだ。しかし、悪鬼になってしまった後では、人との間に結んだ協定により、私は同胞を滅する以外に方法がなかった。咲は、朧たちの恩人であるとともに、私の恩人でもあるのだ。今おぬしが考えたようなことはせぬよ」

……そうなんだ……。そういえば、咲の家系が破妖の力を得たのも、大昔に、境界での交わり方について人とあやかしとの間に協定が出来たからだと、伝え聞いている。境界を越えて、結界を破って人の里に入ってくるあやかしは破妖の力を持つ一族が狩ってもいい、その代わり、人はあやかしの里には立ち入らない。そういう決まりなんだそうだ。だから咲は、早く次に生きていける人の邑を探さなければいけないし、そうだから、千牙はいっときの間の逗留のみを許してくれているのだ。

「力弱きものを言祝ぐことを知らない同胞には、出来なかったことだ。改めて、おぬしには感謝したい。出来ればおぬしに、なにか報いたいと思うだが」

深々と頭を下げた千牙に対して、咲は慌てた。

「そんな……! 私、そんな大層なことしてないです! それに千牙さんには命を救っていただきました……。私こそ、こんなこと(名づけ)でそのご恩が返せてるのか、分からないのに……」

恐縮する咲に、千牙は重ねる。

「私は、長きの間に渡って、同胞を殺めなければならない苦を背負ってきた。今、いっときでもその苦が晴れて、つかのまの安らぎを得ている。この喜び、安堵を、なにかでおぬしに返したい。なにか望みがあれば、言って欲しい」

千牙に懇願されて、咲は困った。そもそも役立たずの能無しと言われ続けた咲に、役割を与えてくれて、なおかつそれを朧だけでなく千牙にも喜んでもらえたという事実だけで、胸がいっぱいなのに。

「ええと……、それって、今こたえなきゃ、駄目ですか……?」

咲は今、とても満足している。いっときとはいえ、居場所と役割を与えられ、かつ雇い主に満足されている。今までの生活では得られなかった全てを、今の咲は得ている。これ以上なんて、今すぐパッと、思いつかない。咲の言葉に千牙はやわらかく微笑み、待とう、と応えてくれた。

「しかし、ちゃんと考えるのだぞ。あやかしは恩義に忠実な生き物。裏切りには命を屠ることで返すが、その逆もまたしかりだ。覚えておくんだな」

大きな手が咲の頭に載り、咲の頭をぽんぽんと撫でた。幼い頃のやさしい両親を思い出し、ぐっと喉が詰まる。

(ううん。破妖の家では、私は役に立たなかったんだもん……。仕方ないのよ……。それより、今、出来ていることを、誇らなきゃ……)

苦い思いを飲み込んで、咲は千牙を見た。

「私も、自分に出来ることがある今の状況が、嬉しいんです。私がいる限り、千牙さんに安心して過ごして頂けるよう、頑張りますね」

腕に力こぶを作りながら言うと、千牙は屈託ない笑みを浮かべて笑った。

「はは、それは頼もしい。いや既におぬしは十分にしてくれているとは思うが」

「ふふふ、甘いですよ。今わたし、今までの人生で一番充実しているんです。こんな環境をくださった千牙さんに頂いた分のご恩を返さなきゃ、私、人の里になんて降りれません」

ですので、安心してくださいね。

咲が繰り返して言うと、千牙が咲の肩に頭を預けてきた。

「せ、千牙さん!?」

「咲はやさしい。おぬしが里のものだったらな……」

呟きが夜の闇に吸い込まれていく。千牙の言葉に、咲も胸がきゅうと引き絞られた。そんなこと、願っても願っても、かなわないことなのに。

人とあやかしは違う世界の生き物。いずれ来る別れの時を思いながら、咲は暫く千牙に肩を貸していた。