ーーーー夏休みも明けて数日が過ぎたとある日の部室。

僕らの日常に起きた大きな変化はというと、まずナルは毎日ではないが、頻繁に水泳部に顔を出すようになった。

というのも水泳部にも入部するという宣言を実行に移し、日々鍛練に明け暮れているようだ。

それともう一つ変化があったと言えば七海だ。

今、こうして日課のように本を読んでいる僕の隣、肩も膝も腕もくっつくほど近くで同じように本を読んでいる七海。

これだけではなく、登下校も一緒にするようになったり、休み時間の度に僕らの教室に来てくれるようにもなったり、お弁当を作ってきてくれたりと、好意をしっかりと見せてくれるようになった。

これはどんなに鈍感な主人公でも気づいてしまうレベルだろう。

そしてそんな矢印を向けられた僕は複雑だった。

この世界は僕の描いた小説の中だということを知ってしまったからだ。

つまり、椿もナルも美琴も香坂先生も、そして七海も僕の描いた登場人物だということ。

そして正直に言ってしまえば、七海は僕の理想を詰め込んだ登場人物でもあるということ。

嫌いなはずはない。でも自作自演というかなんというか、とにかく複雑なのだ。

それにまだみんなには言っていない事。あのメモリースティックの事。過去が変えられるかもしれないという事。それには僕がこの世界から消えてしまうという事。

ずっと言えずに心に止めた言葉たちが、日に日に枷を付けられたように重くなっていた。

話さなければいけない。そして行動に移さなければいけない。それがこの世界にとって一番なのだから。

「そういえば。これ。ナルと椿は達成した訳だけど、他の2人の進捗はどうなのかしら?」

重い思考に意識を持ってかれていた僕は、向けられた言葉にハッとしてしまう。

「ん?どうしたの?何か変な事いったかしら?」

「ううん!何でもない!ちょっとそれ見せて!」

僕は場を誤魔化すように美琴が人差し指で指し示したノートを催促する。

合宿中に行った例の宣言を書き写したものだ。

そういえば僕はどんな宣言をしたっけ?合宿以降色々、主にあの小説のおかげですっかりと忘れてしまっていた。

パラっとページを捲る。達筆で書かれた名前の下につらつらとそれぞれの宣言が書かれている。

そして僕の自分自身で発した宣言に度肝を抜かれるとは思わなかった。

3番目の宣言。僕はこう言っていたらしい。
「僕はみんなの前から消える」と。

無論これは本心なんかではなかったはずだ。でも、こうして今を考えればまるで運命。いや、無意識下に退路を閉ざそうとしていたのだろうか?

深層心理では実はこうなることを知っていて…………いやいやバカらしい。そんなうまいこと出来てるわけない。そんなの小説やアニメとかのフィクションでの世界の話であって、いや、そもそもここは僕の描いた小説の世界か。

やっぱり僕はこの世界にいるべきではない。そう強く思った。

「刹那くん?大丈夫?」

「え?」

ふと耳に届いた椿の声に顔を上げる。

「どうかしたの?」

椿の顔に浮かびあがるのは困惑だ。おそらく僕の表情筋が顔を強張らせているのだろう。

「ううん。何でもないよ!大丈夫!あ、そうだ。今日はちょっと用事があるからさ、先に帰るね!」

このタイミングでこんな台詞を吐く事はもう後ろめたさ全開だと思う。

しかし、どう足掻いてもこうして現実と向き合わされる現状に1人で向き合いたかった。

そうすれば僕のひきつった笑顔もみんなに披露しなくてもすむだろうし。

僕はみんなの返答を聞く間もなく鞄を手に、逃げるようにして部室を後にした。

ーーーーやってしまった。明日からどんな顔でみんなと会えばいいのだろうか。

ぼんやりと波打ち際に立ち海岸線を眺める。

全ての始まりの海。どこまでも続いていると思っていたこの海が、今は水平線までいけば、あの空も遠くの青も全部張りぼてのように感じてしまう。

ここは僕の創造の世界。本物のようで偽物なんだ。でも。ここまで生きてきて、培った感情も思い出も言葉も景色も関係の、その全てを偽物と呼ぶには抵抗はある。

この世界で偽物なのは僕だけなのか。

潮風がいつもより冷たく感じる。

「刹那先輩!!」

風に身を任せ目を閉じた僕の背後から、そんな弾けた声が浴びせられる。

足音にさえ気づかずに居たのかと、それほど追い込まれていたのかと自分にうんざりする。

おかげでその呼ばれた声にビクリと肩を震わせてしまったではないか。

先輩として、1人の男として、その声の主にこんな恥ずかしい姿は見せたくなかったのにな。

僕は必死に零れそうになっていた涙を瞳の裏に隠すと、その僕の理想でもある後輩の方へと振り返った。

「刹那先輩」

振り返り見た七海は慈愛に満ちたような表情で微笑む。

「どうしたの七海?」

「それはこっちの台詞です。刹那先輩」

互いに探るように視線を交わらせる。無理もないか。あんな感じに出てきてしまえば、心配の一つもさせてしまうだろう。

「いや、なんというかね。人生を考えていたんだよ。僕の生きる意味って言ったら大袈裟かもしれないけど」

と口にしたものの。さほど大袈裟な話でもないと内心で囁く。

「人生?ですか?生きる意味ですか?」

「うん。そういう物を急にさ目の前に叩きつけられて、でもその叩きつけられた中身は嫌になるほど正しくて、そう思ってしまったら、今までの自分を全て否定してしまうかのような。まぁ、何言ってんだよって話なんだけどね。そんな事があったんだ」

いつかは打ち明けなければいけない秘密を、未だ隠し通そうとしている愚かな自分に呆れる。

「分かりませんね。私はそんなに頭が良くありませんから。でも、生きる意味ってきっと誰かに提示される物ではないと思うんです。好きなものを食べて。好きな音楽を聴いて、好きな景色を見て、好きな人と一緒にいて。人生を彩るのはそんな好きという感情、それを体現してはじめて最高の人生だったと胸を張って言える気がします」

そんな実直な七海の言葉に妙に納得した。

それもそのはずだ。僕は生まれてこの方好きなように生きてきた。

好きな物語の創造を文字にして、自己満足だと言われようと、1つの物語を紡ぐ事にこの上ない幸福を覚えていた。

好きな事で生きていく。それがどんなに幸せな事なのか。それは僕にとっても身近な存在でもあった。

だからこそ思う。僕の思い描いたこの物語が、僕1人の存在によって崩れてしまってはいけないのだと。それは僕にとっての幸せではないということを。結局ほら、また自己満足の海を僕は航海しようとしているんだ。

「自己満足ほど幸せの物はないよね。その自己満足が誰かの幸せになるのなら尚いいと思うけどそうもいかないし、でもその手段を見つけたとしたら七海だったらどうするかな?」

僕は意地が悪い。

「もちろん!自分の好きで誰かを幸せにできるなら迷いはないですよ!」

そう七海なら言ってくれると分かっていた。僕はきっと意図的でも誰かに背中を押して欲しかったんだ。僕の考えは間違いじゃないんだって。

七海の実直を利用したような形になったとしても。