しかし同時にもう一つの淡い期待を胸に抱いた。未来は変えられなくても、過去なら変えられるんじゃないか?

僕は簡単な実験をすることにした。まずはカッターナイフを手に取る。

それを自分の手首にあてがって力を込める。

当然手首からは出血、無惨な傷痕が残る。所謂リストカットというやつだ。

ここまですれば物語として記憶されるはずだ。

傷心していても痛みは感じる事ができた。まだ僕は生きているという証拠だ。

そして液晶に紡がれた「刹那はリストカットをした」という文。

その文をdeleteのキーをタッピングして消していく。

すると不思議な事が起きた。いや、これを期待していたのだ。

文を消した途端、リストカットしたという過去が消されて、僕の手首から無惨な傷痕は、幻覚を見ていたかのように綺麗に消えていた。

過去が消えた。消す事ができた。なら、あの事故の過去を消せれば!

僕は一心不乱に過去のあの日まで物語を遡る。

そしてやっと見つけた。あの事故が事細かく物語として綴られている。

これを消せば………… これを消せばどうなる?過去はどう変換される?

あの事故が無かったとして、今ある未来はどう変わるんだ?

そもそもあの事故が起きた理由は?もともと僕が描いたシナリオ通りではないか。

そのシナリオが崩れた時、この世界は存在することは出来るのか?そもそもこの世界は僕が作り上げた世界なのか?

様々な疑問符が脳内を駆け巡る。

くそっ!くそっ!落ち着け。落ち着いて。とりあえず、浅井晴也の死なない過去を作らなければ。

また疑問符に押し潰されてしまう前に、僕の右手人差し指はdeleteのキーをタッピングしていた。

そしてあの事故の詳細は全て消し去った。これで。これで未来が今が変わる!

その瞬間を目に焼き付けたい気持ちもあれば、怖さも感じていて思わず目を瞑ってしまう。

次に目を開けたその時、きっと僕を取り巻く環境は大きく変わっていることだろう。

あの日。転校してからのこれまでの日々。潮騒部で少した日々。この人生最高と呼ぶに相応しい夏も。

全てが無かったことになるのだ。きっとこれが恐怖心の元凶だ。

それでも。変わった世界で僕らの関係が崩れていたとしても、また友達になれるよね?そんな自信のない願望が最後の救いだった。

もうそろそろいいだろう。変わった世界を見に行こう。

変わった僕らを見に行こう。

そう覚悟を決めて僕は目を開いた。

目の前に広がるのは変わらない景色。さっきまで見ていた景色と全く同じ。

まぁ、過去が変わったとして、今日という日は訪れる訳で、夏休み中にこうして部屋に引きこもることも珍しい事ではない。

とりあえず電話をかけてみようか。いや、メッセージアプリの履歴を見た方が早いか。

そう思い、PCの隣に置かれたスマートフォンに手を伸ばす。その時に何の気なしにPCの液晶に目を向けた。

「え?」

そして僕は目を疑った。

「変わって…………ない?」

確かに消去したはずだ。覚えている。この視界にまだ消えた時の残像は残っている。

何故だ?何故消えていない?

半ば自棄になりつつもう一度カーソルを合わせて消去を試みる。

deleteを長押しすると文字は呆気なく消え去っていく。

消えた。やはり消えた。

しかしその刹那、消えたはずの文字達が、滲み浮かび上がる。

「なんで!!」

思わず机に量の手の平を力強く叩きつけてしまう。

そして先ほどリストカットした手首に目線を向ける。

消えている。やはり傷痕は消えている。

なぜ?何か。何か法則性があるのか?それともそう易々と過去は変えられないってことか?

とりあえず試すべきだろう。そうだな。1週間前。ちょうど1週間、ナルと一緒にゲームセンターに行った。

その時にクレーンゲームで手に入れたぬいぐるみがベッドの上に置かれている。

こいつで試してみるとしよう。

僕は1週間前が綴れた部分までホイールを回すと、ゲームセンターに行った事、クレーンゲームでぬいぐるみを取った事、その過去を消し去った。

「さぁ。どうなる?ここからどうなる?」

ディスプレイを凝視する。文字が浮かびあがる瞬間を捉えようと。

しかし、一向に文字が浮かびあがる事はない。

急いでベッドに目を向ける。

「!!…………なくなってる」

ぬいぐるみがあったはずの場所が無の空間と化している。

今度は過去が変わったということか。

じゃあ、今度はそうだな。

子供時代の過去で試してみよう。もしこれで変わらなければ、改変できる期間が決まっているという推測がたてられる。

こうして僕は過去を遡り、現代に大きな影響がでないような過去を消し去ることにした。

何度か試してこの過去改変のルールを憶測でしかないが把握した。

完全に把握するまで試してしまっては、現代に大きなうねりを生んでしまいかねないから慎重に過去に関与した。

一つ、変えられる時期については規定はなく、ここに綴られたすなわちあの日から今日まで、どの時間軸にでも関与することはできるということ。

一つ、変えられる過去は直接僕に関与した事だけ。つまり、あの事故は僕の関与関係なく起こってしまう事故であり、いくら事故を無かったことにしようとしても無駄だということ。

一つ、過去を改変した際の記憶は残らない。しかし、僕だけには適応されない。僕にだけ記憶はしっかりと残っている。

これすなわち。あの日を変えるということはできないということだ。いや、出来なくはないと言うべきだろうか。

僕があの日助けるという選択をしなければ、僕の描いたシナリオ通り、浅井晴也は生きているかもしれない。

でもそもそもこの世界は僕の描いた小説と似て非なる物だ。

この世界にはいるはずのない保月刹那という人物が登場しているからだ。

つまり、僕が助けなかったという選択をしたとしても元のシナリオ通りに行かずに、浅井晴也、更には椿と七海もという最悪の展開になる可能性だってあるのだ。

更に言えば、そうなったとして、僕は過去にナル達と出会わなかったという結果になる。

そうなれば移ろう現代、今のような関係性でいられるとも限らない。

成功すれば獲るものは大きい。でも、失敗すればそれ以上に大きな物を失うのだ。

そんな博打を今の僕にできるわけなく。それでも過去を変えられるという力を手にした今、この世界を在るべき姿に戻す方法はたった一つしかない。

そもそもこの物語から、保月刹那という登場人物を消し去るということ。

そう異物のない世界に作り変えるということ。そして、浅井晴也の生きる未来に繋がる。

これが確実な方法。しかし、そうなれば僕はどうなってしまうのだろうか。

現世の僕はまだ生きているのか、はたまた所謂転生というものの加護を受けこの世界に生まれてきたのか。

それすらわからない。

つまりこの保月刹那を消すという選択は、僕にとっての死という選択になる可能性があるということだ。

背筋が凍る思いだった。自分の死を受け入れる事なんて簡単に出来るはずがない。

でも少しだけ沸き立つ思いもあった。

僕の命を代償に、浅井晴也が生きる未来を作るなんて、まるでヒーローみたいじゃないか。

ああ。そうか。性懲りもなく僕はまだ、ヒーローになりたいって思っているのか。

気づけば空は夕焼けに染まっていて、それが不安と希望の入り雑じった瞳に綺麗に反射した。