ピッ、ピッと、心電図を映す機械音が響いている。私は今、ひとりぼっちの病室のベッドに横たわっている。
 トントンと病室のドアがノックされて遠慮なしに開かれると、そこにあったのはいつもの彼、トシキ君の姿。

「こんにちは、元気?」
「ふふっ、元気」

 トシキ君の問いにこう答えるのは初めて会った時からの変わりないやり取りだったけれど、厳密に言えば私は元気では無い。何故なら私は原因不明の病に侵され、医師から余命宣告された身だった。
 幼い頃からずっと病室、時々一時退院の毎日。調子が良い時は学校に通学していた事もあったけれど、今ではもう遠い昔の事。

「高校生になってみたかったな……」
「なんで?」
「そりゃあ制服着てみたいし。あと友達も欲しい」
「俺がいるじゃん」
「君は友達っていうか、なんていうか、戦友?」
「?」
「だって君もこの病院に入院してるんでしょ? 院内着着てるし、初めて会った時もそう言ってた」
「あぁ、そうだった。だから戦友ね」
「そう。一緒に病気と戦う戦友。君が自分の病室と私の病室を間違えた時から私、君の事を心の支えにしてるんだ」
「それはどうも。コツコツとこの病室に通った甲斐がありました」

 トシキ君は謎の多い男子だった。毎日病室から抜け出してはこうしてこっそり私に会いに来てくれるけれど、私の話を聞くだけで、彼自身の事は何一つとして教えてくれないのだ。まるですっかり忘れてしまっているみたいに。だからもしかしたら記憶関係の病気なのかなと予想を立てているけれど、そうだとしたら余計に本人に聞く事は出来なかった。きっと沢山辛い事があっただろうなと思うから。

「それでね、お母さんが持ってきた特別なお菓子は全部お姉ちゃんが食べちゃってて。その時の絶望ときたら余命宣告以来のものだったよ」
「おまえの母さん張り切って用意してたもんな。そりゃああの姉ちゃんも我を忘れて食べるわ」

 私の話を聞き続けたおかげでトシキ君は私の家族に関しても詳しくなっていて、家族と直接病室で鉢合わせた事は無いのだけれど、ちょうど帰っていく所に何回か出くわしたらしく、頭の中で顔と名前も一致している。きっと私の身の回り全てを彼は把握していると思う。それ程までに彼とは何度も何度も同じ時を過ごして来た。ずっとずっと、今日この時まで。

「私が死んだらみんな悲しむだろうな……」

 明日、私は生死を掛けた大きな手術に挑む事になっていた。家族は皆受けさせたくないと言ってくれていた。このまま少しでも長く、宣告された日まで生き続けてくれたらと。でも私は掛けたかった。このまま何もない平穏が続くより、少しでも可能性がある方に掛けたい。だってたった一回の人生だ。私の人生は自分で選択できる事なんて一つもなかった。だからこの選択だけは自分の意思で、ここに私の人生を残したかった。

「おまえは? 死んだら悲しくないの?」
「そりゃあ悲しいけど、なんか申し訳なさの方が強いかな」

 こんなに沢山の愛と時間を貰って生きてきた私だ。それに応えられなかったらと思うと急に心臓をドロリと冷たい手に握りしめられる様な心地になる。いつもいつもその感覚は私の背後に付き纏っていた。きっとそれの名前は不安。不安は私の人生の中でいつも一番近くに居た。少しでも足を踏み外したら、私は不安に飲み込まれてしまうだろう。……でも。

「私は、今の私に納得してるんだ。だから満足とまではいかないけど、充分だなとは思ってる。家族みんなが沢山愛してくれたし、それに、トシキ君にも出会えたから」

 トシキ君が毎日通ってくれるこの病室は、家族が帰った後のひとりぼっちの寂しさを埋めてくれた。今この時も病院内の何処かにトシキ君が居て、明日になればまた会えるのだと信じられたから。薬の副作用で一日中吐き気と眩暈があっても、急な発作が夜中に起こってなかなか治らないまま朝を迎えても、いつも次の日には君に会えると、元気にならなければと前を向く力を貰ってきた。
 私が私でいられたのはトシキ君、君が居てくれたおかげだ。

「トシキ君、ありがとう。もし明日成功したら、トシキ君にお礼がしたい」
「お礼? 何かくれんの?」
「うん。なんでもあげる」
「なんでも?」
「そう。生き延びたその後の人生全部掛けてでも」
「そっか……そっか。ははっ」
「?」
「いや、えっと、ふふっ、」

 トシキ君が笑う。口を押さえて俯いて、何かを抑え込むように。

「……トシキ君?」

 何か様子が可笑しいと、戸惑いながらもそっと彼に声を掛けると、「ごめんごめん」と顔を上げた彼の目の色が鈍く光った。

「何も知らないくせにと思ったらなんか、可笑しくて」
「……え?」
「なぁ、知ってる? 若いうちに原因不明の難病にかかって余命宣告されたのに、そこから奇跡の生還を果たしたって話あるじゃん? あれ、中の魂が入れ替わってんだよ」
「……は? え、何を言ってるの?」

 そんな私の反応に、彼はまたゲラゲラと笑う。   
 知らない、こんな彼は知らない。そこに居るのは紛れもなくトシキ君なのに別の人に見えた。

「身体の寿命と魂の寿命って別なんだよな。互いに作用し合ってるから大体同じになるんだけど、たまにそこがバグった奴が生まれて来んだよ、おまえみたいに。寿命短いやつの原因は大体それ。だからいくら身体切って中探しても無駄、原因は身体じゃなくて魂なんだから。つまりおまえはもう手の施し様が無いんだよ」
「……明日の手術は、失敗に終わるって事?」

 彼は、にっこり笑って頷いた。
 そんな嘘みたいな話に、何でそんな事が分かるんだとか、根拠がないだとか、そんな事は頭の中に一切浮かばなくて、ただただそうなんだと受け入れた先に崩れた足元が見えた。ぷつりと途切れた私の先の道のり。私の人生。悲しむ、家族の姿。

「だからおまえの人生、俺が貰うな」
「……え?」

 ハッと意識を彼へ戻すと、嬉しそうな彼の表情が目に飛び込んで来る。

「つまり、今からおまえは俺に乗っ取られるって事」

 そう言ってじわりじわりと近寄ってきた彼に、慌ててちょっと待ってと静止をかける。急過ぎる、さっきからずっと言ってる意味が分からない。

「ど、どういう事? 乗っ取るって? 私を?」
「厳密には、おまえの身体を。今からおまえと俺の魂を入れ替える」
「そんな事出来るの?」
「俺はそうして何百年も生きてきた。おまえは次の器だよ」

 じっと私をその鈍く光る瞳で見つめる彼は言う。つまり、彼は人間では無く魂だけの存在で、ずっと人に乗り移って生きてきた生き物だと、そういう事……?

「じゃあ、私の魂は?」
「知らない。消えるんじゃないの? とにかく俺の器は昨日死んでるから俺自身も時間がない。丁度良かった」
「? トシキ君、死んでるの……?」
「初めて会った時からこっちの器は寝たきりの爺さんだし、トシキってのもそいつの名前だよ。本体の俺は爺さんから抜け出して次の器を探してたらおまえを見つけたって事。おまえ、俺が見えるだろ? 死期が近い人間の証拠だよ。そういうやつは乗っ取り易いんだ」
「……じゃあ、初めからずっとトシキ君は本当のトシキ君じゃなかったんだ」

 その言葉に、「は?」と、私と同い年ぐらいの姿をしている目の前のトシキ君は怪訝そうにする。

「だってトシキ君、本当はおじいちゃんなんでしょ?」
「だからそれは俺の魂の器だって、」
「じゃあ次に私を乗っ取ったら今のトシキ君は何て名乗るの? 私の姿形をしてトシキとは名乗れないよね?」

 ……そうか、分かった。

「君がすぐに私を乗っ取らなかったのは私の身の回りを知る為だね? その方が乗っ取った後の人生を辿りやすいから」
「…………」
「でもそれって本当に君の人生なのかな。私の人生の延長を演じているだけじゃない?」
「……うるさい」
「何百年も、何十人もの人生を歩んできて、今の君は本当に君なの?」
「うるさい!」

 ガタンとトシキ君が立ち上がると、その両手を私の首に伸ばした。

「……殺すの? そしたら君も死んじゃうよ」
「…………」

 ぐっと眉間に力を込めたまま、彼は私の首を両手で掴んで離さない。殺すつもりは無いのだろう力加減ではあったけれど、葛藤するような彼の表情から彼の中にある何かしらの地雷を踏み抜いてしまったのだろう事は容易に想像がついた。
 長い、長い間を生きてきて。その度に姿を変え、何度も命の始まりと終わりを経験してきたのだ。その時々の器となった人の人生があって、それを辿りながら彼は長い間生きて来た。

「……君にあげるよ、私の身体。君がちゃんと私を演じてくれるのなら」

 私の顔の目と鼻の先にある彼の瞳に動揺の色が映る。それをじっと見つめながら、私は心の中にある本心を告げた。これからするのは君の話を聞いて思いついた、私の最善の未来の話だった。

「私はどうせ何を選択しようと予定通りに死んでしまうんだよね? でも君が私を乗っ取って、私としてこの先の人生を生きてくれるのだとしたら、私の家族にとっての私の人生はこれからも続いていくという事でしょう?」
「…………」
「私は家族を悲しませたくないの。私の為に費やして来た時間を無駄にさせたくない。私の事を全部知り尽くしてる君ならきっと私になりきれると思うから、そういう事なら私は快くあなたに差し出すつもり……でも、」

 そうだとすると、

「君の人生は、どこへいくの?」
「…………」
「それは、君の人生が続いていく事になるの?」
「…………」
「私はそうは思わない。きっと私の家族も。君の事を知る人は誰一人としていない中、ずっとずっと君は私として命を繋いでいくの?」
「…………」

 それはとても悲しくて寂しくて、虚しい事の様に思えた。何百年と続けてきたのだとしても、その中できっと自分の在り方に疑問が生まれていたから今、私の言葉に彼は怒りを露わにしたのだ。それは正しく図星を突かれた人間の反応だった。そうなのだとしたら、

「今、何者にもならないでここに居る君こそが、本当の君なんじゃないのかな」

 君が君であるとしたら、きっと誰の目を気にする事も無い今のような時間。私にしか見えていない、私に自分の過去を明かした今この瞬間。つまり、

「私の病室に来てくれた君は、ずっと君だったんだよね?」

 魂のまま、君のまま、毎日ここに来てくれていたんじゃないのかな。だから本当の君じゃないって言われて怒ったんじゃないのかな。

「……私は君との時間が好きだったよ。君はどう?」

 いつも君は私の悩みを聞いてくれたし、私のバカみたいな話にも楽しそうに付き合ってくれた。和やかで穏やかな時間だったと思う。毎日楽しみだったのは私だけだったのかな。君も同じ気持ちだって、あの時の私には真っ直ぐに伝わって来ていたのだけれど、今の君にとってはどうなのだろう。

「…………」

 そっと、首に添えられえた両手から力が抜けていく。彼の瞳がゆらゆらと揺れている。それはまるで深い海を覗いている様な心地だった。奥底に揺らぐのはきっと、彼の感情。

「……俺も、楽しかった。俺が俺でいられる、おまえとの時間が」
「! じゃあ、」
「でもこのままじゃ、俺は死んでしまう。それは絶対に嫌なんだ。だって俺はまだ何も出来てない、何も成し遂げられてない! 何も、まだ何も……これほどまでに長い時間を、それだけの努力を、忍耐を、こんな所で簡単に手放せる訳がない!」

 声を荒げた彼の心の叫び。それはまるで、彼が自分自身に言い聞かせている様だった。引っ張られる様にして彼の瞳に力が戻り始める。
 忘れてはいけないと、きっとこの気持ちを支えにして今日まで生きてきたのだろう。何かを成し遂げるまで死ねない、その気持ちはなんとなく分かった。私でいうなら家族に恩を返すまで。このまま病院の中でだらだらと生き続けたとしても家族の為にはならないと思ったから、私は明日の手術を選んだ。家族には選べない、私が選んだ人生の形。
 きっとそんな選択をし続けながら生きていく先に、自分の人生があるのだろう。成し遂げたい目標。人生の目的。それらを知りたいと願いながら今日も選択して生きていく。自分の中の、新しい選択を。

「……私に提案があるの」

 私の言葉にじっと彼の視線が答える。聞いてやるから言ってみろと彼の瞳が言っている。

「私の魂が身体を保てないくらいに弱ってるなら、足りない所に君の魂が入る事は出来ないのかな」
「……おまえの身体に俺とおまえ、二つの魂が入るって事?」
「そう。そしたらきっと魂の寿命も伸びるんじゃない? 電池が切れて動かなくなっても片方新しいの入れると動かせるし、その要領で」
「それが出来たとして、それは俺を生きる事になるのか?」
「君と私次第だよ。今までみたいに心の中でお話ししてもいいし、私の病室に来てたみたいに身体の外に出れるなら、身体は私に任せて前より沢山外に出れば良い。弱っていても魂がからっぽの状態よりは長持ちするはずでしょ? そうやって私がずっと君の人生を支えられれば、君は君らしい生き方をこれから探していけるはず」
「……駄目だったら俺はおまえを乗っ取るよ」
「それならそれでいいよ。私はもう、余命宣告されてからずっと終わりに向けて心を決めてきたから。明日終わると思っていた命が繋がって、家族にも未来の私を見せる事が出来るなら、これ以上の事はないんだよ。だからもう、私に悔いは無い。君にいつ乗っ取られてもいいの」
「…………」
「ねぇ、やってみようよ」
「…………」

 渋る彼にどうしたのかと尋ねると、「失敗するかもしれない」と、返ってきた。この意気地無しめ。

「じゃあ今から乗っとればいいじゃん!」
「……でもそれじゃ、」
「自分らしく生きられるかもしれない別の未来が捨てられないって? でもやるかやらないかだよ、現実は。たった一回の人生なんだから。何回もだらだら繰り返してるからこういう時に思い切れないんだよ!」
「!」
「やるならやれ! 死ぬ時は一緒なんだから、これは私達の挑戦だよ! やろう、トシキ君! 私達の人生の為に!」
「…………」

 すっと目を閉じたトシキ君が何泊か置いて目を開ける。心を決めた様子で私の胸に手を翳した彼は、「ココロだよ」と言った。

「ココロ?」
「俺の名前」
「ココロ君。良い名前だね」

 ふっと笑った彼の手が私の身体にヌッと入ってきたのを感じながら、私はそこで記憶が途切れた。