わたしが所属する文芸部は幽霊部員ばかりだ。真面目に部室に来ている人なんてわたしぐらいしかいない。家で小説を書いて提出する人もいるが、ほとんどの人が名前だけ所属している。
そして、ここには名前すら所属していない幽霊部員もいる。
「今日も誰も来ないね」
「そうだね」
隣を見遣れば、小説を読んでいる男の子が一人いた。
彼はぐぐっと背伸びをして、ふわふわと宙に浮いた。
そう、宙に浮いたのだ。それがまるで当たり前のように、極々普通にふよふよと漂っている。初めてこの光景を見た時はとても驚いたものだ。
彼は正真正銘の幽霊である。
幽霊のくせに小説とか筆記用具は触れるらしい。その割には、わたしには触れない。よくわからない幽霊だ。
「はい、書けたよ」
「待っていました!」
原稿用紙を彼に渡す。
まるでお菓子を貰った子どものように彼は目を輝かせた。
「それでは早速」
彼に手渡したのは、わたしが書いた小説だ。
パソコンなんてものは部室に置いていないので、手書きで原稿用紙に書いている。
彼の言った三つのお題から即興でお話を書く――所謂三題噺である――のが最近の日課た。
隣で自分が書いた小説を読まれてドキドキする。この時間には全然慣れない。
彼が読み終わるまでじっと待つ。面白かったのかどうか訊ねるのが怖くて、けれど反応が気になって仕方がなかった。
「はー、今日もごちそうさまでした」
「お粗末さまでした」
原稿用紙を置いて、手を合わせた彼にわたしも頭を下げる。
彼は楽しそうに笑っている。
「男の子とペンキ缶が一緒に色塗りの旅に出掛ける話か……いいね、絵本みたいで優しくてあったかいお話だった。創作意欲が刺激されたよ!」
「それはよかった」
褒められて、何だかむずむずして恥ずかしい。わたしは顔をそっと俯けた。
「さて、それじゃあ次は僕の番だね」
そう言って、彼が鉛筆を持った。スケッチブックを開いて白紙のページに鉛筆を走らせる。
わたしは彼が読んでいた小説を手に取った。
わたしがぱらぱらと小説を捲る音と、彼がさらさらと絵を描く音が静かな部室に響く。
暫くすると「できた!」と彼が言った。
「はいどうぞ」
「いただきます」
渡されたスケッチブックを見る。そこには、一人の男の子と手と足の生えたペンキ缶が描かれていた。
「本当に上手だね」
「ありがとう。お世辞でも嬉しいよ」
「お世辞じゃないって」
照れくさそうに彼が頬を掻いた。
彼曰く、生前は美術部員だったとのこと。
確かに、彼の絵はとても上手い。独特のタッチで陰影が付けられている。柔らかくて優しい絵だ。
ほう、とわたしは息を吐いた。
「やっぱりこうして自分の小説に絵がつくと嬉しいな」
「僕もいろんな絵が描けて楽しいよ。君の小説を読んでいるのも楽しいし」
自分の拙い小説がこうして誰かの創作意欲に繋がっているんだと思うと嬉しかった。
彼の緩やかな笑みを見て、胸があたたかくなるのを感じた。
じっと貰った絵を眺めていると、ふと、視線を感じた。
そちらを向けば、彼がわたしのことを見ていた。
「僕さ、こうして誰かのために絵が描きたかったんだよね」
こっそりと彼が囁くように言った。
「ありがとう。君のおかげで願いが叶ったよ」
眼差しが柔らかい。優しげなその表情に段々と自分の顔に熱が集まっていくのを感じた。
「きゅ、急に何……改まっちゃって」
「言える時に言っておかないとなぁと思って」
「そ、そう……」
顔が熱い。きっとわたしの顔は真っ赤になっていることだろう。
恥ずかしくて顔を逸らすと、彼がぷはっとふき出した。
「笑わないでよ!」
「ごめんごめん……いやー、可愛いなって思って」
顔を近づけて言われた。
思わず拳を振るったがそれは当たらない。
何だか悔しくて、彼を睨む。すると、もっと彼が笑った。「もう!」と膨れたけれど、案外こういう空気も嫌いじゃない。
そんな日がこれからもずっと続くのだろうとその時は思っていた。
*
待てども待てども来ない。誰がと言えば、彼がである。
「全く、何処に行っちゃったんだろう」
彼はずっと部室にいる訳ではない。校舎内をうろうろと歩き回ったり――浮遊していると言った方が正しいかもしれない――している。
でも、部活の時間になると必ず文芸部に来る。それが当たり前だったのだけれど、結局その日、彼は来なかった。
次の日も部室に彼はいなくて。わたしは、校舎内を歩いた。何処かにはいるだろうと思ってふらふらと歩き回ったけど、彼とは会わなかった。
その次の日も彼は部室に来なかった。校舎内を探したけれど、彼はいなかった。
「何処に行っちゃったの?」
図書館に資料室、音楽室。教室内を見たけれど、彼はいない。これだけ探しても彼の姿は何処にもなくて。
ある考えが私の頭の中を過った。
「もしかして、成仏しちゃった……?」
幽霊は成仏していなくなる。小説でもよくある話だ。
彼の心残りが何だったのかわたしは知らない。けれど、もし、絵に関することだったら。
彼は言っていた。「こうして誰かのために絵が描きたかったんだよね」って。
わたしの小説に絵を描いて、彼は満たされてしまったのかもしれない。
「こんなことなら、彼に絵を描いて貰うんじゃなかった……」
弱々しい声が口をついて出た。
彼が描いた絵は今もここにある。それは、彼が確かにここにいたことを証明していて。
絵を見て思い出すのは、いくつもの彼の顔だった。わたしの小説を読んで楽しそうな顔。絵を描いている真剣な顔。子どもみたいな無邪気な笑顔。
次々と浮かんで来て、胸が張り裂けそうになった。
彼に絵を描いてもらえたわたしは確かに幸せだった。それは何よりも大切な時間だった。その幸せを否定したくはなかった。
わたしは、スケッチブックを抱きしめた。
「せめてお別れぐらい言いたかったな……」
とても苦しくて切なくて……ああ、わたしは彼のことが好きだったんだなと自覚した。
*
待てども待てども誰も来ない。誰がと言えば新入部員が、である。
今はもう散ってしまった白木蓮が窓から見える。部活動の勧誘の声がここまで聞こえて来る。
「わたしも勧誘しに行った方がいいのかな……」
そう思いつつも、動く気がしなかった。一人で勧誘なんて寂し過ぎる。
溜め息をついて机に突っ伏した。
運動部の掛け声。廊下を歩く音。吹奏楽部の楽器の音。帰宅する生徒の声。耳に入って来るのは、様々な音だ。
対して、この部屋はとても静かで。まるで、ここだけ空間が切り離されているように感じた。
不意にがらがらと扉を開ける音がした。
わたしは慌てて顔を上げる。
「文芸部へようこ、そ……」
掛け声は尻すぼみになった。
静寂が辺りを包み込む。わたしは瞠目した。
「文芸部に入部しに来たんですけど」
男子生徒はそう言った。声もその姿もずっとずっと会いたいと思っていたものだった。瞬きをしても彼は消えることなくそこにいた。
「何で……」
声が震えた。
わたしは席を立ち、ふらふらと彼の元へと歩いて行く。
彼は宙に浮いていない。地面にちゃんと足が付いていた。
思わず彼に手を伸ばす。彼はわたしの手を握った。
「触れた……?」
「触れるよ。だって僕、生きているから」
頭がついていかない。
まるでわたしに言い聞かせるように彼が説明する。
「事故に遭って死んだと思ったけど、僕まだ生きていたみたい。あれは死霊じゃなくて生き霊の姿だったようだね」
何てことないように言われる。
わたしの目から涙が溢れた。
流れ落ちる涙を彼が苦笑しつつも拭ってくれる。
「君に会いたくてリハビリ頑張ったんだ。これからも、君の小説の絵を描いてもいい?」
目線を合わせて、真っ直ぐ見つめられる。
答える代わりに彼に抱きついた。しっかりと受け止めてくれたそのあたたかさに、わたしはまた一つ涙を零す。
「好きです。わたしは貴方が好き」
彼の目を真っ直ぐに見つめて言った。
彼はその瞳を大きく見開いた。そして、顔を緩めて、優しく微笑んだ。
そして、ここには名前すら所属していない幽霊部員もいる。
「今日も誰も来ないね」
「そうだね」
隣を見遣れば、小説を読んでいる男の子が一人いた。
彼はぐぐっと背伸びをして、ふわふわと宙に浮いた。
そう、宙に浮いたのだ。それがまるで当たり前のように、極々普通にふよふよと漂っている。初めてこの光景を見た時はとても驚いたものだ。
彼は正真正銘の幽霊である。
幽霊のくせに小説とか筆記用具は触れるらしい。その割には、わたしには触れない。よくわからない幽霊だ。
「はい、書けたよ」
「待っていました!」
原稿用紙を彼に渡す。
まるでお菓子を貰った子どものように彼は目を輝かせた。
「それでは早速」
彼に手渡したのは、わたしが書いた小説だ。
パソコンなんてものは部室に置いていないので、手書きで原稿用紙に書いている。
彼の言った三つのお題から即興でお話を書く――所謂三題噺である――のが最近の日課た。
隣で自分が書いた小説を読まれてドキドキする。この時間には全然慣れない。
彼が読み終わるまでじっと待つ。面白かったのかどうか訊ねるのが怖くて、けれど反応が気になって仕方がなかった。
「はー、今日もごちそうさまでした」
「お粗末さまでした」
原稿用紙を置いて、手を合わせた彼にわたしも頭を下げる。
彼は楽しそうに笑っている。
「男の子とペンキ缶が一緒に色塗りの旅に出掛ける話か……いいね、絵本みたいで優しくてあったかいお話だった。創作意欲が刺激されたよ!」
「それはよかった」
褒められて、何だかむずむずして恥ずかしい。わたしは顔をそっと俯けた。
「さて、それじゃあ次は僕の番だね」
そう言って、彼が鉛筆を持った。スケッチブックを開いて白紙のページに鉛筆を走らせる。
わたしは彼が読んでいた小説を手に取った。
わたしがぱらぱらと小説を捲る音と、彼がさらさらと絵を描く音が静かな部室に響く。
暫くすると「できた!」と彼が言った。
「はいどうぞ」
「いただきます」
渡されたスケッチブックを見る。そこには、一人の男の子と手と足の生えたペンキ缶が描かれていた。
「本当に上手だね」
「ありがとう。お世辞でも嬉しいよ」
「お世辞じゃないって」
照れくさそうに彼が頬を掻いた。
彼曰く、生前は美術部員だったとのこと。
確かに、彼の絵はとても上手い。独特のタッチで陰影が付けられている。柔らかくて優しい絵だ。
ほう、とわたしは息を吐いた。
「やっぱりこうして自分の小説に絵がつくと嬉しいな」
「僕もいろんな絵が描けて楽しいよ。君の小説を読んでいるのも楽しいし」
自分の拙い小説がこうして誰かの創作意欲に繋がっているんだと思うと嬉しかった。
彼の緩やかな笑みを見て、胸があたたかくなるのを感じた。
じっと貰った絵を眺めていると、ふと、視線を感じた。
そちらを向けば、彼がわたしのことを見ていた。
「僕さ、こうして誰かのために絵が描きたかったんだよね」
こっそりと彼が囁くように言った。
「ありがとう。君のおかげで願いが叶ったよ」
眼差しが柔らかい。優しげなその表情に段々と自分の顔に熱が集まっていくのを感じた。
「きゅ、急に何……改まっちゃって」
「言える時に言っておかないとなぁと思って」
「そ、そう……」
顔が熱い。きっとわたしの顔は真っ赤になっていることだろう。
恥ずかしくて顔を逸らすと、彼がぷはっとふき出した。
「笑わないでよ!」
「ごめんごめん……いやー、可愛いなって思って」
顔を近づけて言われた。
思わず拳を振るったがそれは当たらない。
何だか悔しくて、彼を睨む。すると、もっと彼が笑った。「もう!」と膨れたけれど、案外こういう空気も嫌いじゃない。
そんな日がこれからもずっと続くのだろうとその時は思っていた。
*
待てども待てども来ない。誰がと言えば、彼がである。
「全く、何処に行っちゃったんだろう」
彼はずっと部室にいる訳ではない。校舎内をうろうろと歩き回ったり――浮遊していると言った方が正しいかもしれない――している。
でも、部活の時間になると必ず文芸部に来る。それが当たり前だったのだけれど、結局その日、彼は来なかった。
次の日も部室に彼はいなくて。わたしは、校舎内を歩いた。何処かにはいるだろうと思ってふらふらと歩き回ったけど、彼とは会わなかった。
その次の日も彼は部室に来なかった。校舎内を探したけれど、彼はいなかった。
「何処に行っちゃったの?」
図書館に資料室、音楽室。教室内を見たけれど、彼はいない。これだけ探しても彼の姿は何処にもなくて。
ある考えが私の頭の中を過った。
「もしかして、成仏しちゃった……?」
幽霊は成仏していなくなる。小説でもよくある話だ。
彼の心残りが何だったのかわたしは知らない。けれど、もし、絵に関することだったら。
彼は言っていた。「こうして誰かのために絵が描きたかったんだよね」って。
わたしの小説に絵を描いて、彼は満たされてしまったのかもしれない。
「こんなことなら、彼に絵を描いて貰うんじゃなかった……」
弱々しい声が口をついて出た。
彼が描いた絵は今もここにある。それは、彼が確かにここにいたことを証明していて。
絵を見て思い出すのは、いくつもの彼の顔だった。わたしの小説を読んで楽しそうな顔。絵を描いている真剣な顔。子どもみたいな無邪気な笑顔。
次々と浮かんで来て、胸が張り裂けそうになった。
彼に絵を描いてもらえたわたしは確かに幸せだった。それは何よりも大切な時間だった。その幸せを否定したくはなかった。
わたしは、スケッチブックを抱きしめた。
「せめてお別れぐらい言いたかったな……」
とても苦しくて切なくて……ああ、わたしは彼のことが好きだったんだなと自覚した。
*
待てども待てども誰も来ない。誰がと言えば新入部員が、である。
今はもう散ってしまった白木蓮が窓から見える。部活動の勧誘の声がここまで聞こえて来る。
「わたしも勧誘しに行った方がいいのかな……」
そう思いつつも、動く気がしなかった。一人で勧誘なんて寂し過ぎる。
溜め息をついて机に突っ伏した。
運動部の掛け声。廊下を歩く音。吹奏楽部の楽器の音。帰宅する生徒の声。耳に入って来るのは、様々な音だ。
対して、この部屋はとても静かで。まるで、ここだけ空間が切り離されているように感じた。
不意にがらがらと扉を開ける音がした。
わたしは慌てて顔を上げる。
「文芸部へようこ、そ……」
掛け声は尻すぼみになった。
静寂が辺りを包み込む。わたしは瞠目した。
「文芸部に入部しに来たんですけど」
男子生徒はそう言った。声もその姿もずっとずっと会いたいと思っていたものだった。瞬きをしても彼は消えることなくそこにいた。
「何で……」
声が震えた。
わたしは席を立ち、ふらふらと彼の元へと歩いて行く。
彼は宙に浮いていない。地面にちゃんと足が付いていた。
思わず彼に手を伸ばす。彼はわたしの手を握った。
「触れた……?」
「触れるよ。だって僕、生きているから」
頭がついていかない。
まるでわたしに言い聞かせるように彼が説明する。
「事故に遭って死んだと思ったけど、僕まだ生きていたみたい。あれは死霊じゃなくて生き霊の姿だったようだね」
何てことないように言われる。
わたしの目から涙が溢れた。
流れ落ちる涙を彼が苦笑しつつも拭ってくれる。
「君に会いたくてリハビリ頑張ったんだ。これからも、君の小説の絵を描いてもいい?」
目線を合わせて、真っ直ぐ見つめられる。
答える代わりに彼に抱きついた。しっかりと受け止めてくれたそのあたたかさに、わたしはまた一つ涙を零す。
「好きです。わたしは貴方が好き」
彼の目を真っ直ぐに見つめて言った。
彼はその瞳を大きく見開いた。そして、顔を緩めて、優しく微笑んだ。