アトリエの窓から差し込む仄かな明かりに照らされて、彼女の髪は美しく光を纏う。それまで持っていた画材では表しきれずに、僕は新しく絵の具を買い足した。

 その時、偶然村の外から来た商人の話を耳にした。
 山の向こうの遠くの町で、とある令嬢が行方知れずになったのだと。

 令嬢は生まれつき病弱で、過保護な両親に命じられ、一度も屋敷を出たことがなかったという。
 けれど主治医に余命を聞いた翌朝に、ベッドはもぬけの殻だったらしい。

 外に出られなかったのは、何かを警戒してのことだけではない。寒さで身体を壊しては、本当の意味で命取りだったからだ。

「レイ。きみのご両親が、もうじき迎えに来るそうだ」
「……!?」
「大丈夫。きみが町へ戻っても、絵は描き続けるよ。もうほとんど完成なんだ」
「嫌よ……帰らない。わたしは、自由になりたいの……一生ベッドの上で過ごすなんてうんざり!」

 家から持ち出した宝石や金を売ってこの村までの路銀にしたらしい彼女の足取りは、とうに割れていた。雪に閉ざされていなければ、とっくに連れ戻されていただろう。

 雪道に慣れた商人が、道中豪華な馬車を追い抜いたと話していた。迎えが来るなら、きっともうすぐだ。

「それでも……帰るんだ。きみの身体に、冬の寒さはこたえるだろう」
「わたしは、平気……どうせ春まで生きられないもの」
「いいや、まだだ。だって、絵はまだ完成していない。きみは僕の絵が出来るまで、何としても生き延びるんだ」

 彼女の瞳に帯びた熱は、薄く色づいた頬は、絵への期待ではない。ましてや、僕に向けられた熱なんかではない。実際に、体調を崩して熱を出していたのだろう。

 ずっと彼女を見てきたのに、ずっとこの時間が続けばいいと、身勝手に気付かぬふりをしてきたのだ。
 そんな愚かさに自分を殴りたくなる気持ちを抑えて、僕は彼女を説得する。

「無理よ。だからわたし、あなたにわたしを描いて欲しかったの……わたしが死んでも、あなたの絵の中で生き続けられるように」
「……どうして、僕の絵だったんだ? 画家なら町にだっていくらでも居ただろう」
「……昔、商人があなたの絵を持ってきたことがあったの。何の変哲もない、田舎の村の風景画。……そうね、きっと雪がなければ、ちょうどこの窓から見える景色」
「……」
「無名の画家の、何の価値もないとされた絵……でもわたし、その広々とした自由な世界に、一目惚れしたのよ」

 度々訪れた商人に、何度もこの村の話を聞いたという。屋敷に閉じ籠り、絵本ばかり読んで暮らしてきた令嬢には、広大な田畑も、何もない田舎道もきっと別世界のように映ったのだろう。

「……何もない、つまらない世界だろう?」
「ええ、でも。その分自由だわ。真っ白なキャンバスには、何だって描けるもの」

 彼女はそう言って、子供のように無邪気な笑みを浮かべた。


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「家に帰って、栄養のある食事をして、薬を飲んで……春になって体調が良くなったら、完成した絵を見てくれ。今度は僕が届けに行くから」
「……春まで、頑張らないといけないのね」
「屋敷から抜け出して、こんな辺鄙な場所まで来られる勇気も意思もあるんだ。レイなら大丈夫だよ」
「さあ、レイチェル。帰るわよ」
「画家さん、娘が世話になったね」
「いいえ……大したおもてなしも出来ずすみません。娘さんにも、不自由をさせたと思います」
「いいや、この極寒の地で娘が生きて無事見付かったんだ。君が保護してくれたお陰だよ」
「……ねえアルト、約束よ。春になったら、絵を見せに来て」
「ああ。約束だよ、レイ」

 こうして迎えに来た身なりのいい両親に連れられて、彼女はアトリエを去った。

 彼女の両親からは、娘を保護してくれた謝礼金と絵の前払いとして、少なくない金銭を受け取り、僕はそれを画材の足しにした。

 冬の間、僕は買い足した画材でレイの絵を描き続けた。

 真っ白なキャンバスには、自由がある。泣き出しそうなほどの孤独と静寂すら、理想を描く糧となった。
 目の前に彼女が居なくても、瞳の奥の深い色も、髪の毛一本一本の艶も、叶わぬ自由に焦がれる切ない表情も、最後に見せた年相応な笑顔も、全てが脳裏に焼き付いていた。

 僕は寝食も忘れ、見たままを描いた最初の一枚だけではなく、何枚もの彼女を描き出す。

 一目惚れしたという窓からの景色、その中心で微笑むレイ。
 春の花々に囲まれて、夏の海辺を裸足で歩いて、秋の実りを頬張って、冬の雪原で踊る彼女。

 約束の春に、ありとあらゆる自由を彼女に贈りたかったのだ。


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