彼との出逢いは高校二年のクラス替え。
窓際二列目の席、隣の席の彼に私は恥ずかしくも一目惚れしてしまった。
それまでの私は恋心など、すこしも抱いたことがなかったのに。

「おはよう、一年間よろしくね」

 そんな平凡が彼との最初の言葉だった。
幼い頃から、身体が弱かった私は未熟な人間関係のまま今になった。

「おはよう、こちらこそよろしくね」

 彼から言葉が返された後、私達の会話は途絶えた。
授業中、居眠りをする彼をバレないようにみることが私ができる最大のアプローチ。
彼の名前は、胸元についている名札から知った。
『志貴』という、上手く言葉にできないけれど彼の綺麗な容姿に沿う素敵な名前だと納得した。
そんな私達の日常を変えたのは、偶然な不幸の重なりだった。

「志貴君……?」

「栞さん……だよね、隣の席の」

 毎日数時間顔を合わせているとは思えない程ぎこちない距離感の彼に、その時の私の姿をみせてしまうことが怖かった。
大学病院の待合室、点滴の管を通したままの右腕を背の方へ隠す。

「……志貴君は誰かのお見舞い?」

「いや、持病の通院だよ。栞さんはどうして」

「私は術後の経過観察に来ててさ」

「そっか……奇遇だね、僕は手術前の検査だったんだよね」

「えっ……」

「生まれつき身体が弱くてね、まさか同じ境遇の同世代に出逢えるなんて」

 それが、初めてみる彼の笑った顔だった。
無邪気で、素直で、ちょっと間抜けな笑顔が私の目を離させない。
無意識に私の右腕は背を離れていた。

『おはよう、栞』

 彼が私を呼ぶ時に自然と手を振るようになった頃、私と彼は恋人同士になった。
クラス替えから約半年、クラスメイト誰一人も知らない秘密の恋人。
朝起きてスマートフォンの通知を確認すること、彼がいない空席をみて不確かな無事を祈ること、季節が移ろう度に一緒に行きたい場所が生まれること。
恋を知らなかった私は、彼との間で生まれる感情から恋を覚えていった。

「僕、このバンドが好きなんだよね」

「この人達って……四年前に解散して去年再結成したバンドだっけ」

「そうそう!いつかライブとか行ってみたいよね……フェスとか一緒に行きたいな」

「いいね!ラバーバンド着けてタオルとか回しちゃってさ、絶対楽しいよ」

 そして私達の間にもうひとつ、共通の幸せをみつけた。
それは、偶然にもふたりが追いかけていたバンドについて語り合うこと。
まだ知名度の低いそのバンドは新曲を投稿しても、再生回数は千と少し。彼が時々口づさむメロディーがそのバンドのサウンドに似ていて『もしかして』と尋ねたことが始まりだった。

「いいなぁ、僕もカッコよくギターとか弾いてみたい」

「私はベースがいいな、立ち姿がカッコよくない?」

「確かに、栞は可愛いしギャップ萌えしそう……」

「そんなこと言われたら照れちゃうよ」

「ねぇ栞」

「なに?」

「もし僕が将来バンドマンになったら、栞は僕から離れていっちゃう?」

「どうして?」

「よく聞くじゃん『バーテンダーとバンドマンと美容師は付き合うな』みたいなこと」

「どこかで聴いたことはあるけど……今の私のままだったら離れるなんてしないと思うよ」

「そっか、それならよかった」

「もし私が離れたら志貴はどうするの?それでもバンドマン続ける?」

「その時は栞のことを音にして歌うよ」

 そんな将来を語り合った日が懐かしい。
彼が離れていってしまうと当時は不安になったけれど、今はそんな心配もない。
彼は私の隣で、変わらない暖かさをくれると知ったから。


『                 』


 彼との日常に、平凡なんてものはなかった。
付き合って何日経ったか、そんなことを数えている暇もないほど私達は私達の時間を生きていた。
数え切れない程の写真を撮って、声を聴いて、同じ景色をみた。
半目でブレた写真をみて笑って、風邪で掠れた声にそばへ駆け寄りたくなって、またこの景色を見たいと願って、そんな儚く過ぎ去ってしまう一瞬がふたりにとっての宝物になった。

「もしもし、聞こえてる?」

「聞こえてるよ、明日も学校だけど声が聴きたくなっちゃった」

「私もだよ、志貴の声が聴きたくなった」

 そんな深夜の通話は、夜の寂しさを消し去らせた。
大したことを話すわけではない、『他愛のない』にすら分類されないほど他愛のない言葉達が私達を繋いだ。

「栞の声、眠そう」

「……眠くない、志貴の声の方が眠そう」

「……僕は眠くても授業中寝るから大丈夫」

「それじゃ留年しちゃうよ」

「せっかくふたりで話してるのに耳の痛い話しないでよ……」

「……志貴と一緒に進級したいんだもん」

「じゃあ僕も頑張らないとね」

 時々聴こえる電波越しの心臓の音が、彼が生きていることを知らせてくれる。
人の一生の心拍数は約二十億回と、いつかの看護師さんに教えてもらった記憶がある。
二十億回という果てしなく感じてしまう数にも、いつか終わりが来てしまう。
あと何回、私は彼のその一回を抱きしめられるだろう。

「そろそろ眠くなってきたかも……」

「僕もかな……もう三時だって、今までで一番遅いね」

「でもすごく幸せだったよ」

「それは僕もそうだよ」

「よかった……じゃあね志貴、おやすみ……」

「待って、栞」

「ん……何?」

「『じゃあね』じゃなくて『またね』って言ってほしいなって思って……」

「そうだった、またね志貴」

「またね、栞。おやすみ」

 『じゃあね』を『またね』と言いたがる。
それは、彼が唯一譲らないところ。
下校途中の分かれ道も、会えなくなる週末も、通話を切る最後も、彼は必ず『またね』を伝える。
そして本当に、その『また』を叶える。
それが私達の、形のない約束だったりする。

「全部懐かしいね」

 そんなことを呟きながら、私は歩く。数メートル先の、ある場所を思い描いて。
空の青さを鬱陶しく感じてしまうほど、身に纏っている黒の意味を疑ってしまうほど、私と彼は笑っている。
変わらない、何年経っても変わることのない幸せを抱えたまま、過去の想い出に浸る。

「私ね、志貴に伝えたいことがあるんだ」

 伝えたいこと。愛してるなんて言葉では足りない、既にこの世に存在する言葉では表しきれない言葉を伝えたい。

「私ね、志貴に出逢えたから生きていてよかったって思えたんだよ」

 私の言葉を、彼は何も発さぬまま受け入れた。
全てを包むように、私が一目惚れした瞬間から変わらない穏やかな雰囲気で。

「手術をしないと生きられない不完全な身体に生まれて、こんな身体で幸せになれるわけがないって思ってた」

「……」

「手術を繰り返して少しだけ身体が普通になって、それでも私は幸せじゃなかったの。ずっと病室にいて、人との関わり方を知らなかったから」

 言葉にして初めて気づく、私自身の心情。
それを全て知っていたかのように受け取る彼。

「でもね、全部、全部、志貴が教えてくれたんだ。私に無かったものを授けてくれたのは、志貴だったんだよ」

 言葉の通り、私に全てを授けてくれたのは他でもない彼一人。
幼い頃の私の通院生活に疲弊した両親とは、私の身体が普通に近づくにつれ疎遠になった。友達と呼べる存在は一人もいない、異動の激しい先生と看護師とも深い関係を築けず、ずっと独りだった。
それでも誰かの力を受けることでしか生きられない身体でいることが苦しくて、生まれてきたことを憎んだこともあった。きっと、数えきれないくらい。
それでも私は確かにあの瞬間、彼と出逢い言葉を交わした瞬間。生まれてきてよかったという言葉が微かに頭を過った。
これから数十年生きていくであろう私の中で、忘れることのない瞬間の一つ。


「志貴、私はそろそろ大人になるね」


 彼は変わらない顔で笑う、変わらない、変わることのできない姿で。
ずっと動かない写真の中で、彼はきっと私を想像もできないほど高い場所からみている。
きっとこの、鬱陶しいほどに青い空から。


『またね』


 それが、彼との最期の言葉だった。
付き合って二度目の冬を迎える頃、彼は手術を受けた。
『僕の手術が終わったらクリスマスデートの予定を立てようよ』なんて幸せなことを考えながら、彼の心臓は止まった。

「志貴……」

 私は今、彼のお墓の前に無力に立っている。
彼の息が止まった三年前の今日、痛いほど鮮明に覚えている、今日とよく似た空。
当時は受け入れられなかった彼の存在の所在を、私は受け入れ始めている。
私にとっての全ての初めてを失った瞬間。それは彼が、私に初めて大切が消える辛さを授けた日。
何を語りかけても、返事はない。
きっと『何も発さぬまま受け入れた』は、ただの私の空虚な妄想。

「……」

 目を瞑り、掌を合わせる。
明日、私は大人になるためにこの街を去る。
最後の日に彼に想いを伝えられたことが不幸中の幸いなのかもしれない。
互いの不幸が重なって始まった私達の、最大の幸せ。

「いってきます、志貴」

 振り返らない、ここで振り返ってしまったら名残惜しさで足が止まってしまうから。
頬が濡れないように空をみる、そうすれば彼と目が合うかもしれない。


『栞』


 聴こえた、もう一度聴きたいその声が聴こえた。
振り向いてはいないけれど、足は止まってしまった。
何故かはわからないけれど、前へ進むことができない。
 

『栞、じゃあね』


 そんな声が聴こえて、私はまた初めてに出逢う。
無意識に涙が溢れる痛さ、誓ったはずの決心に逆らってしまうほど誰かに縋りたくなる感覚。
そんな初めてに、出逢ってしまった。
違う、私達は『じゃあね』じゃない。それだけは、私達の形のない約束だから。

 
『またね、志貴』


 ごめんね。
どれだけ彼が『じゃあね』を望んでいたとしても、私はまたここへ戻ってきたいと思ってしまうから。