視線を感じた。フードコートをそっと見渡す。すぐにわかった。出入口近くに独りで座った女性だ。
 母より少し年上だろうか。痩せて長い髪をしている。こちらに気がつき、目を伏せた。
 私もなるべく自然に顔をそむけ、オレンジジュースに口をつける。机の下でワンピースのお腹に手を当てた。知らない顔だ。気味が悪い。
 半年前の今年春、このショッピングモールから少し離れた新居に越した。市役所の防犯メールに登録すると、三日に一度は「不審者情報」が流れてくる。住民同士に顔見知りが減ったことも理由だろう。
 思えば高校時代の二〇二〇年代はのどかだった。マンションが相次ぎ建てられたのはここ十年のことなのだ。あの頃、高台の母校の裏から田舎道が延びていた。モールまで徒歩十分。フードコートは寄り道の定番だった。一年生が終わる春、環奈にライブに誘われたのもこの場所だった。

「聞いてよ、詩織。蓮ったら『絶対行かねえ』ってすねてるの。そういう焼きもち、格好悪いよ、とたしなめたんだ。そしたらますます臍曲げちゃって」
 環奈が苦笑いしながらチケットを差し出した。「スプリングライブatザ・ガレッジ」と刷られている。その脇に五つのバンド名が並んでいた。ザ・ガレッジは高校の最寄り駅にあるライブハウスだ。
「蓮と行こうと思ってたから、颯太くんから二枚買っちゃったんだよね。ほかのバンドに興味はないけど、颯太くんのギターは聴きたい」
 小笠原颯太。環奈と同じ一年三組。「マニッシュ・ミューズ」のリードギター。
 昨秋の文化祭で環奈に連れられ、初めて視聴覚室でライブを見た。音楽には明るくない。友だちと話が合うように、動画サイトで流行りモノを聴くぐらいだ。その程度の私でも、颯太くんのテクニックが頭一つ抜けてることは理解できた。
 ほかのバンドがJ-POPや洋楽のロックをコピーする中、マニッシュ・ミューズはオリジナルのフュージョンで勝負していた。歌の代わりにギターがメロディーを奏でている。
 颯太くんの左の指は、まるで精緻なからくり時計のようだった。ギターの指板を、時に素早く時にゆっくり這いまわり、鮮やかな音の粒をつむぎだす。
 環奈は最前列に陣取った。小さな体で飛んだり跳ねたりしながら、歓声をあげている。蓮くんは隣で苦虫をかみつぶしたような顔をしていた。
 二人とも同じ中学出身だ。環奈が打ち明け中三の秋からつきあっている。蓮くんは情にもろく、温かい。環奈をとても大事にしている。もちろん環奈も蓮くんが大好きだ。
「推しと彼氏は別腹なのに」と環奈はのんきに笑っている。でも本物のアイドルならいざ知らず、同級生のギタリストにお熱とあらば、蓮くんだって心中穏やかではいられないだろう。しかも相手はイケメンなのだ。
 長い髪に、切れ長の目、薄い唇。身長はたぶん一七五センチを超えている。赤いギターを首から吊るし、腰の辺りで奏でる様は、同性の目にも格好いいに違いない。
 才能にも容姿にも恵まれているうえ、MCだってそつなくこなす。女子にモテないわけがない。
 結局、私はチケットを引き受けた。「代打でこっちが誘ったんだから、お金はいいよ」と断る環奈に五百円玉を握らせた。
 スプリングライブが終わった後、ドトールに立ち寄った。アイスティーを飲みながら、「はぁ、神だ」と環奈がうっとりしている。
 マニッシュ・ミューズはトリだった。颯太くんは文化祭よりさらに腕をあげていた。美しい指の動きに魅せられる。ライブの最後、「来てくれてありがとう! みんな愛しているぜ!」と叫びをあげた。
 その瞬間、私はさめた。
 神様からのギフトみたいに何でも持ってる颯太くんは、躊躇なく「愛してる」なんて口にできる。私には絶対言えない一言だ。特別な接点はないけれど、この人とはわかりあえない。一方的にそう感じた。
 二年にあがり、クラスが替わった。着席は出席番号順だった。「遠藤詩織」の私の後ろに「小笠原颯太」が座っている。
 颯太くんは左手に、ぐるぐると包帯を巻いていた。

 土曜日のフードコートは混んでいる。バッグから読みかけの文庫本を取り出した。昔から恋愛小説は苦手だった。少女漫画も避けてきた。恋に恋することに怯えていたのだ。うっかり誰かを好きになったら、自分で自分を失恋させなきゃならない。傷つきたくない。だから恋には憧れない。思春期の入口で、そう決めた。
 読書自体は好きだった。一時はそれしか娯楽がなかったからだ。児童向けの童話で目覚め、ジュブナイル小説を読みふけり、やがて漱石や芥川、太宰などを手に取った。恋愛がテーマの物語もあったけど、今とは時代がかけ離れている。主人公やヒロインに、自分を重ねてしまうことはない。
 いま読んでいるのは川端康成の『みずうみ』だ。大学生の頃、『雪国』を再読し、文章の美しさにため息が出た。『みずうみ』は異色作だ。教え子に手をつけた元高校教師が、女性をストーキングする話なのだ。おぞましいのに筆力が圧倒的で、引き込まれる。
 二十ページほど読み進め、しおりを挟んで本を閉じた。前を向く。
 さっきの女性がじっとこちらを見つめていた。

「ひゃん!」と思わず声が出た。セーラー服の背中の真ん中を、すっと指が這い下りたのだ。振り向くと、詰襟姿の颯太くんが悪戯っぽく笑っている。「感じやすいんだ、遠藤さん」
「初対面の女の子にこういうことをするのはセクハラだよ」
 二年生最初のホームルームが始まろうとしていた。颯太くんは悪びれず、「初対面じゃないじゃん。蓮の彼女とスプリングライブに来てただろ。それから去年の文化祭にも」
 驚いた。覚えていたんだ。
 はしゃぐ環奈の横に立ち、私は手拍子していただけだった。文化祭ではセーラー服、ライブハウスでは白いシャツにオーバーオール。完全にモブのいでたちだ。人込みだから、加えてマスクも着けていた。
「あのさ、小笠原って声に出すと五文字で長いし、颯太でいいよ。遠藤さんは下の名前、何だっけ?」
「詩織。詩歌の『詩』に織物の『織』」
「席が前後なのもなんかの縁だ。『颯太』『詩織』で仲良くしようぜ」
 さすがだった。無数の女子をきゅんきゅん言わせてきただけのことはある。
 いつもギターケースを背負っているから、颯太くんは人目を引く。昼休みや放課後に、バンド仲間とアンプにつながず練習していた。そんな姿は何度か見たけど、会話するのは初めてだ。にもかかわらず、しれっと名前の呼び捨てを提案してくる。応じられる自信があるのだ。イケメン仕草が腹立たしく、今どきそれもセクハラだから、とたしなめかけて先を越された。
「『しおりん』でどう?」
「え?」
「呼び捨てに拒否感ありそうだから、あだ名にするよ。どう『しおりん』?」
 拒もうとしたところで、教室に新担任が入ってきた。颯太くんは子どもみたいにニヤッと笑い、右手でピースサインをつくっている。以来、私は「しおりん」だ。
 しばらくは意地になって「小笠原くん」と呼び続けた。そのたびに「颯太だろ」と訂正される。校庭の桜が鮮やかな葉桜に変わる頃、私は折れた。面倒臭い。言い合いをクラスメイトに冷やかされるのも癪だった。ささやかな抵抗として「くん付け」だけは死守をした。
「颯太くん」と「しおりん」が定着した頃、颯太くんの左手から包帯が消えた。なのに肩のギターケースは戻らない。
 ゴールデンウイークを間近に控えた放課後だった。隣のクラスの環奈と連れ立ち、家庭科室に向かっていた。途中で机にスマホを忘れてきたと気がついた。
「そそっかしいな、しおりんは」
「環奈まで。やめてよ、その呼び方」
「まんざらでもないって顔しているよ」
「ないない。前に言ったと思うけど、私、恋はしないんだ」
 環奈はきまり悪そうに「ごめん、そうだったね。推しが最近、詩織と近くて、ちょっと妬いた」と肩をすくめる。小学校からの幼なじみだ。環奈は私の事情を知っている。
「颯太くんとはただ席が前後になっただけ。また蓮くんに勘繰られるよ。せっかく調理部頑張ってるのに」
 入学直後、環奈に入部を誘われた。中三の時、女子バスケ部の部長を務めた環奈は、夏の市大会で準決勝まで駒を進めた。てっきりバスケを続けるものだと思っていた。尋ねると「もういいや。一五五センチじゃタッパが足りない」と薄く笑った。
 最後の試合を市立体育館まで見に行った。鮮やかなドリブルで敵陣に切り込んで、ゴールを目指しボールを放つ。でもことごとく、背の高い相手校の選手たちにはたき落されるのだ。それでも決して諦めず、短い髪を振り乱し、環奈はボールを追いかけた。
 ゲームが終わり、コートにぺたんとしゃがみ込む。悔しそうに泣いていた。男子の部長の蓮くんが、環奈の頭をぐりぐりなでる。二人がつきあい始めたのは、その少しあとのことだった。
 蓮くんは高校でもバスケを続けるそうだ。私には運動部という選択肢はない。部活動を決めかねていた。
「蓮にお弁当やお菓子を作ってあげたいんだけど、私、調理駄目なんだよね」
 環奈は照れ臭そうにつぶやいた。あまりに乙女な入部動機に、私はちょっと感動した。恋は人を変えるのだ。
 しばらく考え、誘いに乗った。環奈のように色っぽい理由じゃない。将来のために食を自分で管理して、料理のバリエーションを増やしたいと思ったからだ。
 環奈に先に家庭科室へと向かってもらい、スマホを取りに引き返す。
 がらんとした教室で、颯太くんが独り外を眺めていた。

 微かに肩を震わせてるのが遠目にわかる。女性はまるで落ち着かない。机にはコーヒーカップが載っていた。誰かと待ち合わせでもしているのだろうか。
 ハンバーガーやお好み焼き、ドーナッツ……。塩っ辛くて甘ったるい、独特の空気がフードコートを満たしている。
 母校の制服を着たカップルが、一つのパフェをシェアしていた。幼い子どもがジュースをこぼし、母親が天を仰ぐ。向かい合った老夫婦が、仲睦まじげにラーメンをすすっていた。にぎやかだ。あの女性の周りだけ、空気が違う。
『みずうみ』をバッグにしまった。同性のストーカーに狙われるような覚えはない。ちらりとのぞくと、再び視線が重なった。どうしよう、と私は考え、ぬるいジュースで喉を湿らす。

「よお、しおりん」
 ドアを開けた私に気づき、颯太くんが笑顔を向けた。「調理部じゃなかったのかよ?」
「スマホを忘れて取りに来た。そっちこそ一人でなにしているの?」
 すぐには答えず、颯太くんは再び窓の外に視線を向けた。西日が遠くの山を照らしている。開け放した窓からは、緑の匂いをたっぷり含んだ春の風が流れてきた。
「メジロの声を聴いていた。Fの音で鳴いていた」
「F?」
「ああ、ドレミファソラシドのファのこと」
「ふうん、そんなの聴き分けられるんだ。やっぱりギタリストは耳がいいね」
「もうギターはやめたけどね」
 外に顔を向けたまま、颯太くんはさらりと言った。不意打ちだった。ギターをやめた? あんな上手に、あんな楽しそうに弾いてたのに? 
「スプリングライブの帰り道、自転車に乗ってて大ごけした。暗がりで、川辺のサイクリングロードに小さな猫が飛び出してきたんだ。よけようとして土手を派手に転げ落ちた。ギターを庇って受け身をしくじり、左手をフロントフォークとハブの間に挟まれた。で、人差し指と中指の腱がぶちん。手術でつないでもらったけれど、今もほとんど動かない」
 私に向いた颯太くんは、左手を差し出した。親指と薬指、小指を曲げ伸ばししてみせる。けれどあいだの二本の指は、伸びたままだ。
「利き手は右だ。包帯が取れてからはほとんど生活に不自由はない。だけどギターはもう無理だ」
「……リハビリしても?」
「医者にも言われてるけど、元に戻ると思えない」
「やってみなきゃわからないでしょ?」
「俺、小さい頃、喘息だったんだ」颯太くんがつぶやいた。「外では遊べず、友だちもほとんどいない。病弱でいじけたガキだった。昔バンドをやってた親父が、古いギターを貸してくれた。夢中で練習するうちに、少しずつ上手くなり、自分に自信が持てるようになっていった。取り柄らしい取り柄もないから、ギターは俺の全部なんだ」
「そんなことないよ。颯太くん、自分の魅力をわかってない。身長にも容姿にも恵まれて、喋りも上手い。いつも明るく、女の子の黄色い声を浴びている」
「外見なんてまったく俺の努力じゃない。陽気に振る舞い、話せるのだって、ギターを握っているからだ」
 次の瞬間、いきなり左腕を掴まれた。そのままぎゅっと引き寄せられる。よろめいて、颯太くんの胸元に頭があたった。石鹸とシーブリーズの匂いがする。
「しおりん、俺を支えてくれないか?」
 予想もしない台詞だった。交際相手の噂はきかない。でもこの人だったら相手は選び放題だ。なぜ私みたいに平凡で、可愛げのない女子に頼るのだろう。
「視聴覚室で初めて見た時、この子は俺とおんなじだ、と直感した」
「おんなじって?」
「他人に言えない、心の疵を抱えている。俺にはギターがあったけど、しおりんにはそれがない。痛々しかった。それでずっと気になってたんだ。俺はもうギターを弾けない。楽器が理由でちやほやしていた女子たちだって、そのうち俺に興味をなくす。でもしおりんは、たぶん違う。なあ、俺を支えてくれないか? 代わりに俺はしおりんの支えになる」
 抱き締められ、一瞬体をゆだね、すぐに両手で突き放す。
「そんなの疵の舐めあいだよ」
「……まどろっこしい言い方をしたけれど、俺はきっと、しおりんに惹かれている」
「違うよ、ギターをなくして単に心が弱ってるんだ。それで身近なクラスメイトに甘えている」
「そうじゃない!」
 真っすぐに私を見つめ、颯太くんは言い切った。
 危うく流されそうになる。駄目だ。私は恋をしない。関係が進んでから、相手に幻滅されたくない。
 スマホを握り、クラスを飛び出す。颯太くんは追いかけてこなかった。
 胸がじくじく痛みだす。急に走ったからだろう。颯太くんとは関係ない。そう自分に言い聞かせた。
 家庭科室には立ち寄らず、昇降口で上履きをローファーに履き替えた。外に出る。春の西日を浴びながら、荒い息を整えた。このまま帰ろう。調理部は欠席だ。今の自分は笑顔で環奈と話せない。
 ひと月前、こっそりと打ち明けられた。
「春休みに蓮と初めて経験した。最初は少し怖かったけど、めっちゃ愛されてるって感じがした」
 環奈と颯太くんの言葉が交互に頭に浮かんできた。泣けてくる。颯太くんは勘まで鋭い。
 本当は私だって環奈みたいな思いがしたい。恋をして、受け入れられて、愛する人に抱き締められたい。
 でも無理だ。わかっている。ないものねだりだ。私は異性に肌を晒すことなどできやしない。
 鎖骨の下からみぞおちまで。私の胸には醜いミミズのような古傷が這っている。

 一瞬目を離したすきに、女性の姿は消えていた。ホッと胸をなで下ろす。きっと偶然視線が合ったのだ。最近ナーバスになっている。
 ホルモンの影響だろうか、それとも近い未来の一大事に、今から恐れを抱いているのか。
「あの……」
 うしろから呼びかけられた。慌てて振り向く。さっきの女性が立っていた。全身が粟立つ。座ったまま、バックをお腹にのせて身構えた。
「……ぶしつけなので、迷ってました」女性はつぶやき、逡巡を振り切るように言葉を継いだ。「お願いがあるんです」

 二年生の夏休み明けに席替えがあった。私は廊下側の前から二番目、颯太くんは窓際のいちばん後ろの席だった。鉛筆や消しゴムを貸し借りするような距離ではない。もう背中もいじられない。
 学校生活で必要ならば話はするし、秋の後夜祭ではフォークダンスで手をつないだ。
 でもあの春の日のやり取りは、お互い決して蒸し返さない。
 私たちはただのクラスメートだ。一瞬距離が縮まって、またあるべき位置に戻ったのだ。
 マニッシュ・ミューズはギターを入れ替え文化祭に出演した。調理部の実演で、私と環奈はクッキーを手作りし、蓮くんに差し入れた。二人とも視聴覚室には行かなかった。
 三年生に進級し、また颯太くんと同じクラスになった。受験に向けて、選択授業が一気に増える。私は文系、颯太くんは理系だ。あまり顔をあわせない。瞬く間に季節は過ぎた。
 環奈は晩秋、指定校推薦で女子大に合格した。蓮くんは「浪人したら捨てられる」と必死にペンを握っている。刺激され、私も一生懸命頑張った。
 春、志望校の文学部に合格した。蓮くんも補欠の繰り上げ合格を勝ち取った。
 颯太くんは国立の理工学部に進むらしい。勉強もできたんだ。やっぱりすごいな。私なんかの支えがなくても、一人で十分頑張れる。
 卒業式を終えた後、集合写真を撮影した。中庭に列をつくる。気まぐれな春風に、桜の花が舞っていた。
「じゃあな、しおりん」
 振り向くと、颯太くんが笑っている。第二ボタンが外れていた。さっき、一年生の女の子にねだられてるのを目撃した。
「うん、じゃあね、颯太くん」私も笑顔で言葉を返す。
 淡いピンクの花に包まれ、颯太くんが遠ざかる。ギターケースがない肩を、私はずっと見つめていた。
 よかった。最後まで黙っていられた。私は恋を諦められた。颯太くんを幻滅させずに済んだのだ――。
 そう感じた瞬間に、ぽろぽろと涙がこぼれた。
 生まれつき、心臓に異常があった。高校の友だちで、知っているのは環奈ぐらいだ。
 弁が二つ閉じていて、血液がうまく流れない。生後すぐ、チアノーゼと低血圧、頻脈で死にかけた。三歳までに血流の迂回路をつくる手術を二度受けた。正常な心臓には、心室と心房が二つずつある。手術はこれを一つの心室、一つの心房でまかなえるようにするものだ。心臓自体は治せない。
 入院は長引いた。何度か生死の境をさまよった。

「体の音を聴かせて下さい」
 そう言って、女性は深く頭を下げた。拍子抜けする。
 来月が臨月だった。私のお腹ははちきれそうに膨れている。生まれてくるのは女の子だ。命を宿し、震えるほどに感動した。病後の妊娠出産にはリスクもある。看護師が「でも海外には上手くいった事例もありますよ」と勇気をくれた。
「どうぞゆっくり聴いて下さい」
 私は微笑みうなずいた。幸せのお裾分けだ。
 女性は隣に腰かけて、慈しむようにみぞおちあたりに耳を当てる。
 あえて事情は訊かなかった。フードコートで偶然見かけた妊婦が気になったのだ。過去になにかあったのだろう。
 私は自分の病気のことを、ほとんど他人に伝えてない。いたずらに同情されたくなかったからだ。詮索もされたくない。だから私も尋ねない。
 食事には制限がある。お刺身や納豆などは食べられない。服薬も一生必要だ。運動前には入念な準備がいる。人込みでは必ずマスクを着けねばならない。
 でも、それだけだ。全身に管をつながれ寝たきりだった幼い頃と比べれば、なんでもない。
 目を閉じたまま女性がつぶやく。「声がしました」
 私にも確かに聞こえた。でもこれは、いったいどういうことなのだろう。
「本当にありがとうございました」耳を離して再び頭を下げられる。「無事なお産と母子ともの健康をお祈りしてます」
 うっすら涙を浮かべているのに、女性の顔は安らぎに満ちていた。何度かこちらを振り返り、フードコートを出て行った。

 大学を卒業後、小さな実用書の出版社に就職した。面接で「体のことを考えて、編集ではなく総務経理に配属しますがいいですか?」と社長に訊かれた。もちろんです、と私は答える。
 環奈はアパレル、蓮くんは不動産に職を得た。二人はずっと続いている。忙しそうだ。就職してから三年で、五回しか会えていない。
 あの人は元気だろうか――。
 時々そんなことを考えた。高校を卒業以来、颯太くんには会っていない。
「遠藤さん、急なんですが明日の午後、著者打ち合わせで第一会議室を使えますか?」
 木下さんが私のデスクにやってきた。書籍第二編集部の編集者だ。男性で三十代だが、うちでは若手に入る。漫画やアニメの考察本で、いくつかヒットを飛ばしていた。
 パソコンのソフトを起動し、会議室のスケジュールを確かめる。本当は希望者が自分で予約を入れて、総務経理の承認後、鍵を取りに来るのがルールだった。「二度手間になる」と悪評で、大抵は木下さんみたいに直接私に言いにくる。
「あいてますよ。金曜日の十三時から一時間で予約と承認しちゃっていいですか?」
「お願いします」
 画面を何度かクリックしながら、何の気なしに私は訊いた。「今度はどんな企画ですか?」
「動画サイトでバズっているギタリストの単行本です」
 マウスを握る手が止まる。
「高校時代に怪我をして、指が二本不自由なのに、すごいギターを弾くんですよ。普通の人には真似できませんから、テクニックを紹介しつつ、人生論に寄せようかと思っています。本職は大手レコード会社のエンジニア。一度Zoomで話しましたが、腹が立つほどイケメンでした。明日はなんとか口説き落として、顔出しOKにしてもらおうと思っています」
「会いたいです!」
 思わぬ私の大声に、木下さんはあっけにとられ、「……遠藤さん、そういうキャラでしたっけ?」と苦笑した。
 
「ごめん、待たせた!」
 フードコートに颯太くんが戻ってきた。肩にギターケースを下げている。またモールの楽器屋さんでお気に入りを見つけたようだ。「駄目なパパでちゅねー。無駄遣いちてまちゅよー」とお腹の娘に話しかける。
「なあ、しおりん。給与は全部渡しているぞ。楽器は動画の収入と本の印税で買っている」
 三年前、七年ぶりに勤務先で再会した。颯太くんは驚いて、しばらく固まり、立ちすくんだまま嗚咽した。「えっ、えっ、どういうこと?」と木下さんがおろおろする。
 お互い仕事を終えたあと、待ち合わせて外食した。話は尽きず、一人暮らしの颯太くんのマンションで飲み直した。翌日は土曜日だ。実家暮らしの私は、電話で母に嘘をついた。
「もう二十五歳でしょ。友だちだろうが恋人だろうが好きにお泊りしてきなさい」と笑われた。きっと嘘は見透かされている。けれども母は深堀りせず「朝夕の免疫抑制剤だけは、飲み忘れないよう気をつけなさい」と釘を刺し、電話を切った。
 その夜、颯太くんは手術の痕を「愛おしい」と言ってくれた。「幻滅なんてするわけない。俺だって、指が二本不自由だ。お互い様だ」と苦笑した。「まったく面倒臭いな思春期は。二人とも完全に自意識過剰だ。青臭く、感傷的で顔から火が出る」
 本当だね、と私はうなずき、自分の胸に手をあてた。
 誰かがくれた心臓が、力強く鼓動している。
 五歳でドナーが見つかった。「あと半年遅ければ、助からなかったかもしれません」と主治医は言った。ルールで誰かは教えてくれない。ただ、移植をコーディネートしている組織を通じ、お礼の手紙をドナーや家族に届けられた。
 心臓は私になじみ、症状は劇的に改善した。病床でサンクスレターを書こうと思い、二通りの便せんを前にして、幼い私は頭を抱えた。どっちにすればいいんだろう。
 見かねたベテラン看護師が「今どき色でわけるのはなんだけど、天国のドナーに宛てるなら、赤じゃなく青いほうでいいと思うよ」と耳打ちしてくれた。

 フードコートをあとにして、駐車場へと並んで歩く。颯太くんの両肩には、右にギターケース、左にベビーグッズの大きな袋がぶら下がっていた。夢のように幸福だった。
 さっきの女性の話を聞かせる。
 黙って耳を傾けて、颯太くんは優しく笑い「うちの長女は立派だな。生まれる前から善行を積んでいる」と膨れたお腹に目を向けた。
 そのときようやく私は気づく。
 女性が耳を当てたのは、お腹ではなくみぞおちだった。
 聴きたかったのは宿った娘の音じゃない。
 あの時、体の中から声がした。あれはそういうことだったのだ。
「どうした、しおりん。具合悪いの?」
 たたずむ私の顔を、颯太くんがのぞき込む。
 大きく左右に首を振った。そして思う。見えない絆が母と子をひきあわせたのだ。
 元気な娘を出産する。命をつなぐ。そろって二人で抱き締める。
 私の中の娘以外のもう一人。声の主は甘えたように「ママ大好き」と言っていた。
 幼い男児の声だった。