古今東西、あの世の恐ろしげな噂は絶えない。血の池があるとか悪魔がいるとか、とにかくなおも結構緊張していた。
 それで、なおと彦丸が向かったあの世、「黄泉の国」はというと。
 その人は朗らかに天に向かって告げた。
「比良神ご一行、ご到着ー」
 なおと彦丸は赤いはんてんを来て「熱烈大歓迎」と旗を持った人に出迎えられた。
 見渡せばあちこちを浴衣姿で歩き回る人たちや動物がいて、町の至るところに足湯が設置されている。雲一つない空は青く、左右には屋台が立ち並んでいた。
 なおはしばし言葉もなく立ちすくんだ後、念のため確認する。
「……ここ、黄泉の国ですよね?」
「あ、がっかりしました?」
 はんてんのおじさんは薄くなった頭をかいて苦笑する。
「もっと大胆に地獄裁判とかやったりする国もあるらしいですけど、どうも私らはそういうのが苦手で。地味ですみません」
「いや、安心感があってとてもいいと思いますよ」
 あちこちから湯気がたっているところを見ると、ここは温泉郷らしい。体感気温も春めいた温かさで、のどかなこと極まりない。
 おじさんは彦丸をみとめると、ぺこりと頭を下げて言った。
「ご無沙汰してます、比良神。お元気ですか?」
「まずまずだよ。君はたぶん忙しいだろうね」
「そうですねぇ、九尾を探すのにまったく人手不足で」
 おじさんはくたびれた顔ながら笑ってみせる。
 なおはその名前に聞き覚えがあって、おじさんに問い返した。
「九尾?」
「おや、ご存じないですか?」
 なおは怪訝な調子で訊いたが、おじさんは世間話のように話してくれた。
「黄泉の国には九尾っていう狐がいるんですけどね。先日その狐が盗まれて、そちらの世界に行ってしまったみたいなんですよ」
 あの世から来た狐。なおはあの青白い狐に向き合ったときの恐怖を思い出して、ぞくりとする。
 おじさんもごくりと喉を鳴らして声を低める。
「黄泉神の大事な飼い狐ですから、早く取り戻さないと……」
 それはあの世の一番偉い神様のものらしい。それって黄泉神がとんでもなく怒りだすんじゃないか。
 なおが天罰を想像して息を呑んだら、おじさんはため息と共に言う。
「……帰ってきてくれないと、黄泉神が働かなくなってしまうじゃないですか」
 それは重大事と認識していいのか。なおには疑問だったが、おじさんにとっては深刻な結果らしかった。
 ところがおじさんはその話を続けるつもりはないようで、朗らかに話題を切り替えて言う。
「それで、比良神。今回のご訪問の目的は観光ですか?」
「観光に来る人いるんですか」
 なおは思わず突っ込んでしまった。
 ところが彦丸もまた朗らかに答える。
「うん。久しぶりに湯治巡りをしようと思っていてね」
「ちょっ……!」
 そんなわけないでしょと言おうとしたなおだったが、おじさんの次の言葉にぴたりと止まる。
「黄泉神の御殿の湯がお勧めですよ。……上からのお客様にもご満足いただいていますし」
 おじさんは無害そうな、人好きのする笑顔で何やら含みのある言葉を告げた。
 彦丸は笑顔を張り付けたままうなずく。
「そう……ありがとう。ではまた、ね」
 微妙に言葉を濁して、彦丸はなおを連れて歩き出した。
 ほかほかの湯気が立ち込める中、彦丸となおの間には冷えた沈黙が下りる。
 なおはおじさんが見えなくなった辺りで、辺りをはばかりながら言う。
「……さっきのおじさんの言葉」
「つまり、確実に黄泉神が罠を仕掛けて待ってるってことだよ」
 彦丸は振り向かないまま、少し不機嫌そうに告げる。
「黄泉神の第一の神使が出迎えに来た時点でおかしいと思ったんだ」
 なおは思わず足を止めそうになって、何とか言葉を続ける。
 あの世では振り向いてはいけない。そんなことを今更ながら思い出しつつたずねる。
「……あのおじさんそんな偉い人だったの?」
「門番に化けてたけど、私より遥かに格上の神だよ。……なお、もう振り向いても大丈夫」
 彦丸に言われてなおはようやく振り向いたが、もうそこにおじさんはいなかった。
 腰の低さと髪の薄さにあっさり惑わされてしまった自分が情けない。
 なおは温泉郷に和んでいた自分を恥じた。ここは死者の国なのだ。
 なおは前に向き直りながらたずねる。
「黄泉神は、そう簡単に康太さんを帰してはくれないってこと?」
 あの世に行ったものを連れ戻すというのは、昔話ではやってはいけないことの代表だ。
 なおが急に寒くなって来て体をさすりながら問いかけたら、意外にも彦丸は首を横に振った。
「いや、黄泉神は単に絡むのが好きなだけだよ。帰したくなったら帰してくれるさ」
「それ、帰したくなきゃ帰さないんじゃ」
 なおが遠い目をすると、彦丸は苦笑してみせる。
「私の上司だよ? 悪い御方じゃない」
 屋台の間をくぐりぬけながら、彦丸は付け加える。
「ちょっと曲者なだけ」
 彦丸は路地裏に入った途端、なおを振り向く。
 腰に手を当ててにやっと笑う彦丸を見て、なおは嫌な予感と少しだけ安心感を覚えた。
 彦丸は黄泉の国にいるという事実に反して、いつも通り楽しそうに言う。
「別行動をしないか、なお」
 彦丸がこういう顔をするときは大抵、人を手のひらの上で転がすようなことを考えている。けれどなおとしては、今は不本意ながらそれが心強い。
 なおを指さして彦丸は言う。
「なおは単身で黄泉神の御殿に入って、適当に黄泉神をひきつけておいてくれ」
 そんな無茶苦茶なとなおは思ったが、よくよく考えると以前にもこんなことがあったと気付く。
 なおは少しむすっとしながら言う。
「平々凡々な僕なら、その辺ふらふらしててもごまかせると?」
「いいや、逆だね」
 彦丸の狐目はにやりと笑みの形を作った。
 彦丸はなおを指さして断言するように言う。
「黄泉神はなおに絡んでくる。絶対に」
「なんで?」
 なおが思わず問い返したら、彦丸は事も無げに笑った。
「だって黄泉神のことだもの。私は、黄泉神のことは自分のことみたいにわかるからね」
 どこからそんな自信がわき出てくるのか。なおは彦丸の頭の構造を覗いてみたかった。
 彦丸はなおを試すように言葉を続ける。
「その間に私が康太を連れてくるよ。なに、黄泉の国から出てしまったら上の神のものに手出しなんてできないからね」
「それ、失敗したらすごく危なくない? 相手は黄泉の国で一番偉い神様なんだろ?」
 なおはそう言ったが、いつも百発百中で彦丸の手のひらの上で転がされた自分を思い返すと、文句をつけられるほど根拠がない。
 それに彦丸はずいぶんと黄泉神のことを知っているようだった。上司だと言うが、その声色はもっと近い存在のことを語るようだった。
 なおに別の策があるわけではない。それになおだって康太を取り戻すために穴に飛び込んできたのだから、その穴が黄泉神の御殿になったとしてどうだろう。
 なおは気に入らないながらも、今は彦丸を信じるしかないと腹をくくった。
「……わかったよ。やろう」
 なおが自分から手を差し出すと、彦丸は狐目を細めてその手を握り返した。 





 黄泉の国で一番偉い神が、黄泉神。だったらその御殿はさぞかしすごいものだと想像できるだろう。
 ところが看板娘らしいお姉さんになおが案内された先は、見慣れた建物があった。
「こちらが黄泉神の御殿です」
 なおはそれを見上げて思わず声をもらす。
「ん?」
 そこには大きな四角の塊がでんと置いてあって、入口の壁にはサイコロのように黒点が並んでいる。
 なおは言っていいのかわからないながらも言ってしまった。
「僕、この建物見たことあるんですけど」
 それはなおが普段住まわせてもらっているサイコロ屋敷そのものだった。
 看板娘のお姉さんはにこにこしながら返す。
「あ、黄泉からの出張所をご存じですか。国内に数百ありますので」
 お姉さんは観光案内らしく丁寧に説明してくれる。
「昔、黄泉神が通ったところに社を立てて、その守りとして出張所を置いているんですよ」
「それで数百ですか。ずいぶんたくさんあるんですね」
 なおが感心しながら見上げると、お姉さんは拳を握り締めて言った。
「上に負けるわけにはいきませんから! ささ、どうぞお入りください」
 そんな対抗心が必要か否かは置いておいて、とにかくなおはサイコロ屋敷の本家に踏み込む。
 中は懐かしい風合いの家だった。茶褐色の天井に古びた提灯が下がり、壁にはべたべたと歌舞伎のチラシが貼られている。
 なおは辺りを見回しながら誰にともなく問い返す。
「……一番偉い神様の御殿?」
 将軍様の御殿みたいな絢爛豪華な屋敷を想像していたが、そこは実に生活感漂う空間だった。
 確かに広い屋敷ではある。でも偉い人が構えているような敷居の高いところではなくて、どこにでもある作りをしていた。至るところでいたずらっ子たちがお絵描きをしでかしたような、汚れきった柱が天井を支えていた。
 なおが立ち止まっていると、誰かがなおに声をかける。
「わかっとらんな、坊主」
 なおが声に振り向くと、そこにいろりがあった。いろりを囲んでいもを煮ながら、おじいさんたちがうなずく。
「この懐かしさ、安心感。帰りたくなる家とはこういうもんじゃ」
 なおは何か言おうとして、ふいに言葉を忘れた。
 冷えたところからふいに家に帰ったような気持ちに包まれる。
 言葉にするのも今更。そういう安心感がなおを黙らせたように思えた。
 おじいさんたちはうたたねを始めていた。なおはそっと横を通り過ぎる。
 お茶を飲んでくつろいでいる夫婦や昼寝をしている猫、クモの巣の張った天井なんかを見送りながら廊下を奥へと進んでいく。
 どこまでも続いていきそうな廊下だが、おどろおどろしいものが出てくる気配はない。次第になおは忍び込んだことも忘れて足を弾ませる。
 なおはふと声を上げる。
「あれ?」
 なおがふいに興味を引かれたのは天井に伸びるはしごだった。なぜか暗くて狭いところに行ってみたくなる子どもの頃の気持ちが蘇る。
 こういうのって、探検みたいで楽しい。気持ちが踊って、それを止める気もなかった。
 きしむはしごを上って天井裏に続く板を外す。ぶわっとほこりが顔を覆った。
 その瞬間、なおは白い視界の中で不思議な光景を見た気がした。
 屋根裏の隅で、小さな男の子が体を丸めてうずくまっている。服はぼろぼろで何日も洗っていないようで、髪も伸びっぱなしだった。
 不思議と怖い感じはしなかった。ただかわいそうだと思った。外界のすべてを拒絶している子。そんな印象を持った。
 まばたきをしたら、男の子はもういなかった。窓の隙間から太陽の光が差し込んでいて、床へ斜めの金色の線を作っていた。
 なおはぼそりとつぶやく。
「……立花さんだった」
 あれは確かに幼い美鶴だった。なおの中に小さな火のような反抗心が湧く。
 見えない何かに都合のいいものを見せられている気がしていた。そしてそれはおそらく黄泉神のせいなのだろう。
 なおは口だけで笑ってつぶやいた。
「絡まれてやろうじゃん」
 なおは屋根裏の扉をぱたんと閉じる。階段を下りてくると、そこは先ほどとは違っていた。
 室内は立派な屋敷になっていて、力強い梁のある黒い木造の家だった。磨き上げられた廊下を歩きながら、なおは外を見やる。
 小さな美鶴が、生垣の外でそろそろとこちらをうかがっている。
 なおはそれを見て、呼びかけたい思いに駆られた。それも何者かに動かされているようで、不気味な気分だった。
 まばたきをしたら、やはりそこには誰もいなくなっていた。代わりにサザンカの木が赤く咲き誇って、秋のしんとした空気に映えていた。
 見覚えのある生垣だった。なおはそれを稲香町で見た覚えがあった。
 見たのは、確か外回りの仕事で北の方に行った時だった。鳥が翼を広げるような雄大な屋根と垣根のサザンカが見事なその屋敷は、古い時代の高貴な方の隠れ家だったと聞いた。
 人の姿は見えないのに、どこかで誰かが心配そうにささやく。
「美鶴君、まだ来ないのかしら」
「迎えには会えたんだろうか」
 若い男女がざわざわと話していて、その声を聞いているとなおの中に不安が立ち込める。
 もうそこは温泉郷ではなく、なおのよく知る稲香町の光景になっていた。田んぼの金色の稲穂が揺れていて、その向こうで山が鮮やかに紅葉している。
 キンモクセイの香る小道に神社の石段、ゴロゴロと石が転がる河原、けもの道のような草木の間を分け入る道。
 いつの間にかなおは外を歩いている。でもそんな自分に気づいても、なおは立ち止まれない。
 つかみどころのない不安はもう襲い掛かるような恐怖に変わっていた。早く、早くとなおを突き動かして、自分では抑えきれない。
 なおはあちら側の世界と道の通じる山まで来て、向こうに行こうとしている男の子に気づいた。
 危ういほどにたおやかでどこか色香のある不思議な少年、たとえ年齢が幼くなっていても見間違えるはずはない。
 なおの中に、止めなければという思いが襲ってくる。
「立花さん、待って!」
 悲鳴のように叫んで、なおが手を伸ばそうとした時だった。
 視界の隅に、動物の尻尾のようなものが映った気がした。
 ……カラン。
 サイが転がる音がする。それとともに誰かの声が聞こえた。
「間に合わないよ、それはもう終わったことだからね」
 視界は暗転して、なおは意識を失っていた。



 目が覚めたら、なおは実家のいろりの前に座っていた。
 なおの目覚めの声は、懐かしい一声だった。
「こら、なお。いい加減起きなさい」
「ん……」
 なおはそれに怪訝な目を向けて、裏返った声を上げる。
「……母さんっ!?」
 心配そうに眉を寄せてなおを覗き込んでいたのは、遠くに嫁いだはずの母だった。
 なおは混乱して言葉を探す。
「なんでここに? え、いや、あれ?」
 なおはごくんと息を呑んで母に問いかける。
「まさか嫁ぎ先が、黄泉の国だったってこと?」
「何言ってるの。まだ寝ぼけてるのね?」
 母は顔をしかめて、しょうがないわねというように笑った。
「お母さんがそんな遠くに行くわけないでしょ。なおの世話があるのに」
 なおはそれを聞いて、なんだかわからなくなってくる。
 考えてみればそうだ。子どもの頃から過保護だった母が、なおを置いて嫁いだりなどするだろうか?
 母は今帰ってきたようで、立ち上がりながら言う。
「遅くなってごめんね。今ごはん作るからね」
 母がかまどに向かってまもなく、湯気の匂いが立ち込め始めた。
 なおの物心つく頃からの光景だった。なおはいろりで遊んでいて、母は台所仕事をしている。
 いつか母は言っていた。なおはお母さんの一部みたいなものよ。
 その距離感は、きっと近すぎる。二人の人間が一緒のはずがないのだ。なおだって、そんなことはずっと昔から知っていた。
 なおは懐かしさに胸がつぶれるような思いがしながら、でも言っていた。
「母さん」
 なおが呼ぶと、んー?と母が間延びした声で相槌を打つ。
 それ、本気で聞いてないでしょ。……でもいつだって、聞いていてくれたよね?
 眠りに落ちる直前のように心地よいゆりかごの時間がそこに広がっていた。
 なおは息を吸って母に告げた。
「……知ってるよ。この家はもうないんだ」
 本当のことより幻の方がずっと心地よいのは知っていた。
 でもなおと母が離れて、別々の場所へ発ったのは事実だった。
 なおはゆっくりと立ち上がる。母は……母の姿をした誰かは、なおを静かに見ている。
 なおは彼女に笑いかけて言った。
「半年間、ずっと見たかった夢なんだ。ありがとう」
 夢と口にした途端、冷たい風にさらされる。台風にでも遭ったように、いろりも壁もすべて吹き飛んで景色が塗り替わる。
 なおは何かを壊してでもつかみたいものがあった。それを探して歩いて、稲香町に辿り着いたはずだった。
 そのひとはふうんと言って、いつかの彦丸のように笑った。
「私は意外と面白い拾い物をしたようだ」
 楽しげな女性の声が響いたとき、そこはもういつものサイコロ屋敷のいろりの前だった。
 いろりの向こうには黒い石造りの狐が立っていて、なおをみつめていた。
 サイコロ屋敷の横にある狐とそっくりだった。ただ、何かが違う。それが何かは口に出せないが、まちがいなく彦丸ではなかった。
 なおは緊張で顎を引いてから問いかける。
「あなたが黄泉神ですか?」
「はじめまして。楽にしていいよ」
 黒狐は涼しげな女性の声でなおに答えた。
「比良神の上司というか、親かな」
「親?」
 なおが率直に問い返したら、黄泉神はうーんとうなる。
「それを説明するには、ちょっと長い話になるけどね」
 空中を飛び回るように、その声は上に行ったり下に行ったりする。
 黄泉神はじっくり考えたようで、しばらくしてから言った。
「始まりは、今から千年ほど昔のこと」
「本当に長い話ですね」
 なおは思わず言ってから、よく考えると偉い神様に失礼だったかもしれないと思った。
 なおはぺこりと頭を下げて謝る。
「失礼しました。先を続けてください」
「君のそういうところ好きだよ」
 どうしてなおのことを知っているんだろうと思ったが、神様のことだ。毎年集まって話し合うらしいから、どこかでなおのことも見聞きしているのだろう。
 くすくすと笑って、黄泉神は言った。
「ありがとう、続けるよ。千年ほど昔、私の十代ほど前の黄泉神が君の住む世界をくるっと一周したらしい」
 なおは神様は代替わりするのだと哲知に聞いたのを思い出した。如来さまみたいにずっと長く人間を見ていてくれるのではなく、交代していくらしい。
 だから黄泉神というが、今なおの目の前にいるのは何代目かの黄泉神らしかった。彼女はずっと前の黄泉神のことを親し気に口にする。
「その時の黄泉神は狐神でね、なかなか人々や妖怪に評判がよかった。彼の金色の尻尾を見ると幸運が訪れるとうわさになって、「幸運の神様」といわれた」
 幸運の神様。なおは口の中で繰り返す。
 黄泉神の声はなおのすぐ先、目の前の狐に宿りながら言う。
「その通称幸運の神様が辿った道筋に、今ここにある狐のほこらがたくさん作られて、ついでに黄泉の国の出張所としてのサイコロ屋敷が出来たわけさ」
「なるほど」
 なおはこくこくとうなずいて、はたと手を打つ。
「納得しかけましたが、その話と彦丸の親の話にどんな関係が?」
「あ、ごめん。ちょっと遠回りしちゃった」
 黄泉神はかわいく謝ってみせた。
 彼女は少し話を戻してなおに続ける。
「幸運の神様は黄泉神を引退してからも、そちらの世を渡り歩いていた。これはごく最近まで続いていたんだよ」
 黄泉神はふっと笑って言う。
「あるとき稲香町を通りかかって、麗しい少年をみつけた。美鶴君だ」
「さすが立花さん。神様にも好かれますね」
 なおが何の抵抗もなく相槌を打つと、黄泉神もうなずく気配があった。
「幸運の神様は美鶴君に惚れたんだろうね。彼に自分の力を分け与えようと近づいた」
 この時までは、なおはこれを笑い話なのだと思っていた。
 神様は気まぐれで人間に絡んで縁を結ぶ。それを知っているつもりになっていて、それがどれほどの影響を与えるのか理解していなかった。
 黄泉神は一息分の後に何気なく言った。
「その邪魔をしようとして、一緒にいた彦丸は死んだ」
「……え?」
 なおは稲香町で夏に浴びた、季節を忘れるような冷水を頭からかぶった気分になった。
 なおは恐る恐るその言葉を繰り返す。
「死んでしまった……?」
「そう」
 黄泉神は相槌を打ってなおに言う。
「でないと美鶴君が死んだからね。力のある神が体当たりしたら、命は吹き飛ぶから」
 黄泉神の声はあくまで淡々としている。それが神様の目での事実なのだろう。
 でも人間の目でそれを見ると、美鶴が命を奪われそうになって、それを庇った彦丸が死んだということだ。
 なおは首を横に振って言う。
「……あんまりじゃないですか。彦丸には酷い仕打ちですよ、それ」
「そうだね」
 黄泉神は一応人間の目も持っているらしく、なおに同意して続けた。
「でも美鶴君にとってその縁は幸いだった。美鶴君は十歳まで人の言葉が話せなかったんだから」
「え?」
 息を呑んだなおに、黄泉神が告げる。
「人の世界で美鶴君が知っていたのは暴力だけ。彼を育てたのは妖怪たちだった」
 黄泉神はなおに問いかける。
「美鶴君が幸運の神様と縁を結んだのは悪いことかい? 美鶴君は自分を育ててくれた妖怪たちがいるところ、あちらに行こうとしただけなのに」
 なおは先ほど垣間見た光景を思い出す。屋根裏で体を丸めていたぼろぼろの子ども。生者としては危ういような空気をまとっていた。
 黄泉神の言うことはなおもわかる。きっと美鶴は人の世界で生きられなかった。彼の取った選択は、他に方法がなかったから。
 なおはうつむいて低くつぶやく。
「でも彦丸は死んだ」
 美鶴の選択の代償をなおが口にすると、黄泉神はそれに答える。
「うん、彦丸は神様になった。幸運の神様と強い縁ができたから」
 ある日突然、大物妖怪にぶつかられて縁が出来る。なおも以前聞いたことがあった。
 黄泉神は親しげに彦丸のことを話してみせた。
「彦丸は幸運の神様とぶつかった衝撃で、生きていた頃の記憶が吹き飛んでね。だから私の心を分け与えた。そういうわけで、私は彦丸の親なんだ」
 なおは黙って彦丸のことを考えた。
 彦丸は理不尽に命を奪われた。代わりに神様の地位に座ったが、その原因と言われる美鶴はずっと目の前にいる。
 美鶴はその逆になる。美鶴は彦丸の命を奪ってしまった。神様の地位には座れなかった。でも、その原因の彦丸とはずっと一緒にいる。
 二人は恋人でも友達でもない。お互いの運命を入れ替えた、鏡のようなもの。
 なおがそれを理解したとき、黄泉神が優しく言った。
「みんないい子なんだ」
 黄泉神は愛おしむような声音でなおをさとす。
「最後はみんな私の子になるもの。いつかは全部忘れることさ。もちろんそれが今でもいいんだよ」
 黄泉神の見えない手が、なおの頭にそっと触れたようだった。
「……つらいことは忘れて、私のところに帰ってくるかい?」
 吸い込まれるような懐かしさがなおの胸を衝く。
 眠りに落ちる直前の安息。その中で、ふとなおは思う。
 ……あの家で三人暮らした日々は、そんなに不幸なものだったか?
 そうじゃなかったはずだ。なおは自分の中にある確かな自分の声を聞いた。
 なおは顔を上げて狐を見る。そのとき、なおに黄泉神とは違う声が響いた。
「いつまでその御仁に絡まれてる気だい、なお」
 なおはため息をついてその名前を呼ぶ。
「……彦丸」
 彦丸の声はからかうように応える。
「私たちはこの世に生み出されて、黄泉神の手から離れた。人生、母親のところを離れてからが楽しいんだよ?」
 ぱたん……とふすまの一つが倒れた。
 ぱたぱたと、いつかのように辺り一面のふすまが倒れて風通しが良くなっていく。
 その中で組み上がるものもあった。部屋の上に向かって、紙の階段が伸びていく。
 パンパンと彦丸が手を打つ音が聞こえる。
「おいで、手の鳴る方へ」
 なおは思わず立ち上がって叫んでいた。
「……わかってるよ! いっつも馬鹿にして!」
 なおが一歩を踏み出したのなら、もう早かった。
 なおは紙の階段を駆け上がる。螺旋を描きながら、上へ上へ。
 彦丸のことはいつまで経っても腹が立つ。いつもなおを上から見ていて、見下ろされるなおは劣等感だらけだ。
 けれど腹を立てながら見上げるというのは、生きている実感に近いのかもしれなかった。安息に落ちるには、なおはまだまだ人間が出来ていなかった。
 黄泉神は昔話のように追ってくることなく、ぽつりと告げた。
「親心がわからない子たちなんだから」
 彼女は遥か下で、苦笑交じりにつぶやいただけだった。



 たぶん黄泉神は追う必要がなかったのだろう。
 なおも彦丸もいつか年を取って、生きる力をなくす。そうしたらおのずと黄泉神のところに帰って来る。
 なおは走りながら、この道を先に行った彦丸の気持ちがなんとなくわかった。苛立つように飛び出てきても、やっぱり心の中に居座るのが母。母を嫌いになる日はきっと来ない。
 まあ、嫌いになんてならなくていいのかな。もうちょっとだけ一人で進んでみよう。その程度の決意で階段を上り続けた。
 どこからが黄泉の国でどこからがこの世なのか、たぶん誰も決められない階段を上って、なおはいつの間にかこの世に帰って来ていたらしい。
 見覚えのある円い穴をのぼっていろりの前に出ると、なおは顔をしかめる。
「万次郎?」
 なおを待っていたのは実に湿っぽい男だった。
 サイコロ屋敷のいろりの前で泣きじゃくっているのは、今年の春に縁結びに協力した天狗の万次郎だ。
 万次郎はほろほろと泣きながら言う。
「お待ちしていました……」
 気弱そうな顔がますます弱りきっているので、なおはさすがに心配になって言う。
「何があったの?」
「九尾が……」
 万次郎が口にしかけた言葉に、なおはうっと引いて問い返した。
「まさかまた誰か黄泉に連れて行かれた?」
 なおが慌てて口を挟むと、万次郎は軽く手を振って答える。
「いや、僕はお山の外のことはどうでもいいんです」
「よくないよ」
 なおは力を入れて万次郎をにらんだが、彼はそれすら反応せず泣いている。
 なおが首をひねったら、すとんと隣に腰を下ろした影があった。
 なおが隣を見ると、彦丸が座布団にあぐらをかいて座っている。
「とりあえず万次郎の話を聞こうじゃないか」
 彦丸が何事もなかったかのようにそこにいるので、なおは慌てて問いかける。
「彦丸! 康太さんは?」
「上だよ」
 指を天井に向ける彦丸に、なおは首を傾げる。
「屋根裏?」
「いや、本当に上に返してきた」
 なおは彦丸が言うこの場合の「上」は屋根裏ではなく、上の神様のことらしいと気づく。
 康太さん、黄泉神から取り戻せたんだ。なおは案外しっかり仕事をした彦丸を、珍しく感心の目で見下ろした。
 そういえば彦丸は万次郎に縁結びを依頼されたときも、結果だけを見ればちゃんとこなしていた。
 なおは今まで見えていなかったことをちょっと見たような心地がして、彦丸をしみじみと眺める。
 彦丸はそんななおに気づいて声をかける。
「座りなよ、直助も」
「……ん」
 なおは屋根裏を見上げたが、康太が無事戻って来たならひとまずよしとする。
 落ち着き払ってあぐらをかく彦丸にならって、なおも仕方なくその隣に腰を下ろした。
 なおは仕切り直すつもりで万次郎に問いかける。
「で、九尾がどうしたって?」
 一度息をついてから、万次郎は口を開いて答えた。
「九尾を黄泉から連れてきたのは、こまりちゃんだったんです」
「こまりちゃん?」
「えんさんの娘さんです」
 なおはその名前を思い出す。そういえば万次郎とえんの縁結びの時、えんは前の旦那さんとの間に生んだ娘が万次郎たちとうまくやっていけるか心配していた。
 彦丸はうなずいて言う。
「こまりは今十六歳だったかな。末恐ろしい才能だね」
「……ん?」
 三歳の子なのにすごいね。そういう調子で彦丸が言ったので、なおも一瞬うなずきかけた。
 一拍黙って、なおは目をみはる。
「僕と同い年じゃないか! 万次郎、そんな年の女子のために子どものおもちゃ用意したのか?」
 なおの追及に、万次郎は困ったように応えた。
「だって知らなかったんですよ。こまりちゃんは祝言のとき家出してて」
「黄泉の国まで家出して九尾を盗んできて? 黄泉神が怒って這い出てくるよ」
 なおが混乱のままに言うと、万次郎はきょとんとしてそれにも答えた。
「まあ、九尾を盗んだのも、黄泉神が出てくるのも、僕はどうでもいいんですけど」
「万次郎にとっての大変が何かさっぱりわからない!」
 この天狗、言葉の端々がいらっとする。なおは万次郎の変わらぬ能天気さにあきれながらうなった。
 なおが言葉をやめると、万次郎はまた涙を落として言う。
「僕にとって大変なのは……」
 万次郎はぐすっと涙を呑んでぼそぼそとつぶやく。
「えんさんが、「私の娘がそのような罪を犯して家の名を汚したのは申し訳ない」と言ってですね……」
 万次郎はみるみるうちに目に涙をためて、滝のようにあふれさせる。
「……実家に帰ってしまわれたことです!」
 なおは一瞬黙って、万次郎を見た。
 一息分だけ万次郎のその大変さを考えようとして、何気なく答える。
「それが一番どうでもいいよ」
「酷いっ! 最近の人間の男児には血も涙もないんですね!?」
 目をうるうるさせて訴える万次郎に、なおは愚痴っぽくぼやく。
「うーん、万次郎にとっては大変なんだろうけど。事の大きさが違わないか?」
 なおがうなったら、彦丸が口を挟んだ。
「でも願い事には違いない」
「そうなんです!」
 彦丸が一応神頼みを認めると、万次郎は大きくうなずいた。
「比良神、えんさんと再び縁を結んでください!」
 なおはその頼み事を横目で見て、何だかんだでたぶん彦丸はさらっと叶えるんだろうなと思っていた。
 ところが彦丸はきっぱりと首を横に振って言う。
「残念だけど、今回の縁結びは引き受けられない」
 万次郎の目が驚きに見開かれる。なおも慌てて口を開いた。
「ひ、彦丸。大変じゃないっていうのは言いすぎたよ。相談に乗るくらいは……」
 なおが先ほどの言葉を撤回しようとすると、彦丸は静かに告げた。
「……そろそろ分をわきまえないとね。今回の縁結びを機に、私は比良神の座を美鶴に譲る」
 息を呑むなおの前で、彦丸は宣言したのだった。
 


 翌日の日曜日、なおは万次郎に連れられて再び彼の自宅を訪れた。
 とりあえず自分が話を聞くと言ったら、万次郎は「わらにもすがりたい思いなんで助かります」と彼らしい不用心な本音を告げてきた。
 僕はわらなのかい。そう笑うか怒りたいところだったが、今はどちらもできない。
 彦丸は本気で比良神をやめてしまうつもりなのだろうか。それが気になって、水底に映る月をぼんやりみつめてしまった。
 なおが上の空だったのは、万次郎にも気づかれたらしい。彼はなおを見ながら苦笑して言った。
「わかりますよ。僕もずっと、今の比良神を頼りにしてきました」
「え?」
 万次郎はうなずいて言う。
「今の比良神は、いい神様です。なかなか出会えるものじゃありません」
「……そう思う? 思い返すと、彦丸は出来た奴だったなって気づくんだ」
 なおが心を打ち明けると、万次郎はそうですねと答えた。
 万次郎は少し黙った後、複雑そうな顔で切り出す。
「でも時々は、生きた人間が神様になることに意味があるんですよ。道を開いて、お互いに行き来するために」
 水の中に浮かぶ月を眺めながら、万次郎はつぶやく。
「こちらとあちらの行き来ができなくなると、酷い状態になるんです。妖怪同士が互いに傷つけあって、弱い誰かがいつも泣くことになる」
「今はそんな風には全然見えないけど」
 なおが出会った妖怪たちは、ほとんどが温厚で争いごとを嫌う気質だった。そんな激しい世界を生きてきたようにはとても思えない。
 万次郎は欄干に手を置いてため息をついた。
「閉じられた世界の中、馴れ合うんですね。そういうときは悪いことをしても平気でした。……甘えてしまうんですね」
 万次郎は目を伏せて、ふいに明るく言った。
「だからあちらの世とつながりが出来るようになると、ちょっと優しくなれました。だって努力しないと好かれないんですもん。それで結ばれた縁はまた、格別の喜びでした」
 万次郎は言葉を切ると、苦笑して付け加えた。
「って、これ、全部兄さんの受け売りですけどね」
「ああ、駆け落ちした天狗の兄さんだっけ」
「……え、ええ。根は悪い人じゃないんですけど」
 万次郎はちょっと目を不自然に動かして、なんだか無理やり話を戻した。
「話がそれましたね。こまりちゃんなんですが……」
 瞬間、水底の月がうねって消えたように見えた。
 何が起こったのかわからず、なおは遅れてつぶやく。
「え?」
 なおが風で吹き飛ばされたとは、なかなか気づけなかった。まるでふすまにでもなったように、なおは気づけば畳に仰向けに転がっていた。
 なおの頭の辺りに誰か立っていて、なおをのぞきこんでいるようだった。
 なおが呆然としていると、男は軽快な笑い声を響かせて言った。
「まどろっこしいなぁ。私が話すよ、万次郎」
 男が声をかけた先には、困り顔の万次郎が立っていた。
 よかった。霊道に引っ張り込まれたとかそういうわけじゃないみたいだ。なおはそう思って、二人を見比べながら体を起こす。
 なおが落ち着いて見ると、その男は例によってなおの苦手な美男だった。
「……う」
 黒い翼を背に持つ山伏装束で、ずいぶん背が高い。しなやかな眉の下、すらっとした作りのいい鼻をしていた。偉丈夫という言葉がぴったりだった。
 なおが言葉に詰まっていると、万次郎が助け船を出すように言う。
百太郎(ももたろう)兄さん。順を追って話さないと理解してもらえませんよ」
「それもそうか。見たところ平凡な男児のようだからな」
 男を見てなおは苦手意識と少し腹立たしさを覚える。
 言葉の端々が苛立つというか、見栄えがいいがために余計に許しがたいというか、そんな感覚を持たせるのは、さすが万次郎の兄だ。
 なおはうさんくさそうな目をして万次郎に問いかける。
「……駆け落ちした兄さん?」
「そうです。こまりちゃんと駆け落ちした僕の兄さんです」
「なっ!」
 予想もしなかった方向からの事実を聞いて、なおは震える。
 云百歳の天狗の駆け落ち相手は十六歳の女子だった。その事実を飲み込もうとして、なおは慌てて首を横に振る。
「いや、だめだ! それ誘拐だよ!」
「少年、愛に年齢は関係ないのだよ」
 なおは百太郎の方を見ないようにしながら言う。
「ちょっとでいいから黙ってて。今大事な話してるから」
 さすが万次郎の兄、人をいらっとさせる天才だと思いながら、なおは万次郎に向き直る。
 なおは嫌な予感がしながら二人にたずねた。
「兄さんが帰って来たのはわかった。……もちろんこれから、こまりちゃんをえんさんのところに帰すんだろうね」
 二人はそろって目を逸らす。あまりに同じ仕草でなおはうさんくさそうに見やる。
「……百太郎とこまりちゃんの縁結びもしてほしいとか言うつもり?」
「意外と理解が早いじゃないか」
 百太郎が感心したようにうなずくので、なおはかみつくように言う。
「できるもんか! 僕も捕まるだろ!」
「もう遅い」
 なおが百太郎の方を振り向くと、彼の後ろにふすまが戻っていた。
 ふすまが勝手に開いて、なおはそこに女の子が座っているのをみとめる。
 さらさらの長い黒髪に小柄でふんわりした雰囲気。子ウサギのように危なっかしい繊細さをまとう女子だった。
「……えんさんにそっくりだ」
 あでやかな美女のえんとは雰囲気は違うが顔立ちはそっくりで、二人が親子なのは疑いようもなかった。
 なおは犯罪の片棒を担いでしまったと、がくりと肩を落とす。
 なおが納得してくれたと思ったのか、万次郎は先を続ける。
「こまりちゃんが、九尾を使って僕とえんさんの縁を切ったんです」
 なおはまだ衝撃から立ち直れないながらも顔を上げる。万次郎はただ困ったように言った。
「こまりちゃんは、えんさんと僕の結婚に反対でしたから。……仕方ないです。僕は頼りないですしね」
 初めて会ったときのようにしょげている万次郎に、なおは眉を寄せる。
 なおにとっても、確かに万次郎の欠点は大声で言いたいくらいたくさんあった。ただそれも見ようによってはいいところもあると思い直す。
 なおはうなりながら万次郎の弁護をしようとした。
「……あの、こまりちゃん。万次郎は悪いとこばかりでもないよ」
 なおはもどかしい気持ちで言葉を探したが、こまりは首を横に振ってうつむいた。
 膝を抱えたこまりは、きっとまっすぐみつめられたら見とれるような面差しなのに、その表情には感情の色がなかった。
 万次郎はそんなこまりを見て心配そうに言う。
「こまりちゃん、もうずっと何も話してくれないんです」
 百太郎もうなずいて首をひねった。
「何を考えてるのか、教えてくれない。今すぐ私と結婚なんて、私も無理だってわかってるが」
 百太郎は願うようになおに言った。
「友達でも家族でもいい。こまりと私の縁結びをしてくれないか?」
 軽そうな態度に反してその言葉は優しくて、なおはどうしたものかと思ってうなった。





 夕食後、なおはいろりの前で横になってぼんやりと天井を仰いでいた。
 何だか頭の中がごちゃごちゃだった。彦丸の引退宣言と、天狗一家のほどけた縁。次の比良神である美鶴に任せておけばいいのかもしれないが、なおだって関わった縁結びなのだから放っておくことなんてできやしない。
 考え事をしている内に、少しうたたねをしていたらしい。
 目を開くと、側で美鶴が座っていた。なおをそっと見守ってくれていた。
 こんなに近くにいるのに、今日は鼻が過剰反応する気配がなかった。しばらく無言で美鶴を見上げていた。
 黄泉の国から帰ってきて、気づいたことがある。
 優しさを降り注いでくれる人を、嫌いになんてなれない。温かい人の膝元に来たら、その人を抱きしめたくなる。
 美鶴は惜しげもなく優しさをくれる人だ。だからあっちもこっちも上も下も、美鶴を次の比良神にと望む。
 なおもこの感情が恋なのか憧れなのか、それらとは全然見当違いのものなのかは、今はわからない。
 ただ、なおは母と離れて思った。大人になるのは離れるばかりじゃなくて、大人になって近づけたこともあるじゃないかと。
 この一年でちょっとだけ大人になった。自分にだって彼にしてあげられることはある。
 なおはそっと美鶴にたずねた。
「立花さん。今も比良神になりたいですか?」
 心は静かだった。なおを見下ろす美鶴のまなざしも、窓の外にのぞく三日月のようにひっそりとしていた。
 美鶴は少し考えて答える。
「昔ほど切実じゃないかな。今は人の温かさも感じられるようになった。僕は幼い頃のように妖怪だけの世界で生きてるわけじゃない」
 でもねと、美鶴さんは水に浮かべるように言葉を重ねた。
「ある狐神が僕に言ってくれたんだ。君のように妖怪と縁の強い人間なら、きっと幸運の神様になれるって」
「その狐神が幸運の神様でしょう?」
「「この世に幸運を操る神様なんていない」と、彼は言った」
 美鶴は首を横に振って言う。
「神様は縁を結ぶだけなんだ。幸運を落とすわけじゃない。幸運は自分でつかむしかないんだよ」
 なおの頭をぽんと撫でるように言って、美鶴はほほえむ。
「でも、誰だって幸運をつかめる。ほんの少し、勇気さえあれば。それを与えられる存在がいたら素敵だと、彼は考えたらしい」
「勇気をくれる神様ってことですか」
「うん。君はそれになるといいよって、彼は笑った」
 美鶴はそこでうつむく。
「……僕と彦丸は、友達だった」
 美鶴は懐かしそうに目を細めて続ける。
「人の世界から目を背けられていた僕に初めて気づいてくれた友達。それが彦丸だった」
 優しい声で、美鶴は彦丸を語る。いつものようにつっけんどんではない。それが本来の彦丸への思いなのかもしれなかった。
「僕たちは遠い親戚でもあった。彦丸の両親は、僕を養い子にしてくれようとしてた。でも僕は……人が怖くて」
 黄泉の国で見た彦丸の記憶が思い出される。
 幼い彦丸は不安でたまらなくなりながら家を出た。
 美鶴はまぎれもない後悔の色を見せて言った。
「僕は狐神に神様になりたいっていう願い事を叶えてもらおうとして、彦丸は僕の代わりに死んでしまった」
 なおは黙る。あの日、二人の関係は兄弟になるはずだったのだ。
 美鶴も少し黙って、やがて口を開く。
「彦丸のご両親はそれでも、僕を立花の家族にしてくれたけど。僕はすぐにその家も出て、江戸に行ってしまった。……五年経って稲香町に帰って来て、彦丸と再会して」
 美鶴は気落ちした声でつぶやく。
「比良神になった彦丸は、もう僕のことを覚えていなかった」
 うつむいたまま、美鶴は首を横に振った。
「それでいいんだ。もう僕は彦丸の何者にもなれなくていい。……いろんなものをくれた彦丸から、これ以上何も奪いたくない」
 なおはようやく理解した。だから美鶴は彦丸に冷たい態度を取って、遠ざけようとしていたのだ。自分は比良神の地位をもらうまいと。
 もどかしい思いがこみあげて、なおは問いかける。
「立花さんは神様になりたかったんでしょう。その願い事はあきらめてしまったんですか?」
 美鶴は黙ってうなずく。
 なおは起き上がって正座すると、美鶴を正面から見据える。座って待っていたら、美鶴は迷った末にぽつりとつぶやいた。
「だって、誰かを傷つける願い事はしてはいけないでしょう?」
「立花さんが比良神になったら、彦丸は傷つくんですか」
「どういうこと?」
「彦丸は生きていた頃の記憶はないんですよね。じゃあ彦丸じゃなくなったんですか」
「……それは」
「怖がらないでください、立花さん」
 なおはじっと美鶴をみつめて言う。
「彦丸は今だって、立花さんと縁を結んでます。立花さんが比良神になりたいって願ったのなら、きっと」
「駄目だよ」
 美鶴は泣きそうな顔をして首を横に振った。
「それは彦丸の分だ」
 この話は終わりとばかりに、美鶴は立ち上がって自室に引き上げる。
 その後ろ姿にかける言葉をみつけられないまま、なおは考えた。
 妖怪たちが自分たちをいさめるためによく使う、「分」という言葉が哀しく響く。
 願い事は、幸せになるためにするものじゃないか? 分を欲しがったら、どんな願い事も引っ込めるしか解決方法がないのだろうか。
「どうした、直助」
「お前の悩み顔を見ても誰も幸せにはならんぞ」
 なおはしばらくいろりの前でうなっていた。そうしたら、家中のつくもがみが集まってくる。
「ご機嫌斜めじゃな」
「歌ってやろうか、それとも踊って見せようか」
 彼らはなおが落ち込んでいるといつもそうするように、周囲でやんややんやと騒ぎ始める。
 なおは首を横に振って言う。
「笑い事じゃないんだって。真面目に悩んでるんだ」
「そうは言ってものう。暗い顔をしておる者と一緒に暗い顔をしても、誰も喜ばんぞ」
 彼らの一人が何気なく言う。
「阿呆らしく馬鹿騒ぎをしておれば、暗い顔も晴れるかもしれんじゃろ?」
 なおははっと息を呑んで、その言葉を思った。
「……馬鹿騒ぎ?」
 なおはまじまじとつくもがみたちを見返す。
 いや、待て。一瞬よぎった考えに、なおはうなる。
 なおは口の中で「馬鹿騒ぎ」という言葉を繰り返した。
 そんなことをしている場合ではないと思う。万次郎とえん、百太郎とこまり、美鶴と彦丸。みんなそれぞれ願いがあって、誰かを傷つけないために悩んでいるところで、何を馬鹿なと考える。
 でも誰も憎しみ合ってそうしているわけじゃない。みんな幸せを望んで、あと一歩の勇気が出ないだけ。
 そう思った時、なおはひらめいた。
「ああ、そっか」
 単純で、馬鹿馬鹿しくて、笑われてしまうような計画だったけど、なおはやってみようと思った。
 数刻後、なおは彦丸の部屋を訪ねた。彦丸は顔を上げて問いかける。
「何だい、なおから来るなんて珍しいね?」
 不思議そうな彦丸に、なおは立ったまま告げる。
「彦丸、誰かに遠慮して願い事を引っ込めなくていい」
 彦丸は怪訝な目をした。なおだって突然こんなことを言われたら何事かと思うだろう。
 なおは彦丸を見据えて問いかける。
「立花さんは次の比良神になりたい。でも彦丸だって、比良神でいたいんだろ?」
「ふうん」
 彦丸はからかうように首を傾げて言う。
「仮にそうだとしても私には選べないしね。みんな美鶴を望んでいるし」
「選べる」
 なおがきっぱりと言った言葉に、彦丸はぴたりと止まってまばたきをする。
 なおはうなずいて続ける。
「ずるいことはしちゃだめだよ。恨みっこなしだよ。お祭りなんだから」
 なおは彦丸を指さして告げる。
「……馬鹿騒ぎで、正々堂々と勝負さえすれば」
 今度こそ、彦丸は大きく目を見開いた。



 稲香町では、冬の直前に幸運の狐祭りがある。
 昔この地を走り抜けた幸運の神様にあやかって、町の人たちみんなで狐役の鬼を探しながら町を一周する。
 みなさんの目当ては今や狐じゃない。出店で買い食いをしながら町の名所をぐるりと回るというのどかな祭りだ。
 だが今年は一味違う。縁結び祭りで協賛したあちら側の社持ちたちが、狐役の本物の妖怪と豪華賞品を出してくれることになった。
 提案したのはなおだが、実現したのは田中家のおばちゃんたちだった。なおのようなひよっこは喧嘩を怖がったが、おばちゃんたちは「妖怪のどこが怖いのよ」とばっさりだった。
 まあたぶんおばちゃんたちは豪華賞品につられたのだろうが、町の人たちも田中家の前に飾られたそれ、疑わしいほど輝かしい景品に目を輝かせていたのでよしとする。
 なおは万次郎たちのお家騒動もこの機に決着をつけることにした。
「では、勝負内容を発表します」
 祭りの始まるほんの数刻前、なおはあちら側の万次郎の屋敷にいた。
 かっこつけて覚えたての漢字を書こうかと思ったが、そんな自信はないので美鶴に頼んで書いてもらった巻物を広げる。
 万次郎の家の者たちが勢ぞろいして、あちら側の妖怪たちも興味津々でみつめる中、なおは声を大にして発表する。
「こまりちゃんと手をつないでここに帰って来た方を、こまりちゃんのお父さんとして縁結びします!」
 巻物を見た瞬間、百太郎はふうんと笑って、万次郎は難しい顔をした。
 万次郎は愚痴っぽくその条件に文句をつける。
「ちょっと、これ僕が不利じゃないですか? 兄さんはこまりちゃんを誘拐したほどのこまりちゃん推しですよ」
「娘の支持を得るのがえんさんの夫の条件だ」
「……ということは」
 万次郎は恐る恐る、静かに立って様子を見ている女性を見やる。
「えんさんが決めた条件なんですか?」
 えんが静かにうなずくと、万次郎は表情を和らげた。
 万次郎は息をついてうなずく。
「……じゃあ、勝たないといけませんね」
 二人の間に流れた空気に、なおはちょっとくすぐったいものを感じた。
 ただしと、なおは意地悪く付け加える。
「こまりちゃんが祭りの終わる前に円城寺に入ったら、縁を切ります!」
「ちょっ!」
 なおはあらかじめ、こまりへ勝利条件を話してあった。
 百太郎も万次郎も父親にしたくないなら、円城寺に駆けこめばいい。黄泉の国まで一人で往復した力を持つこまりなら、それは大して難しいことではなかった。
 なおは腰に手を当ててこまりに声をかける。
「こまりちゃん、用意はいい?」
 こまりはこくんとうなずいただけだった。勝負に無関心なようにも見える。なおにも結局、こまりが何を考えているのかはわからなかった。
 けど勝負には乗ってくれる。ならば誰にだって勝つ機会がある。なおはうなずいて手を叩いた。
「はい、こまりちゃんどうぞ!」
 万次郎が、慌てて声を上げる。
「えっ、ずるい!」
「女子が優先! がんばって、こまりちゃん! 応援してるからね!」
 動揺している万次郎は放っておいて、なおは走り出すこまりに声援を送った。
 辺りは見物する妖怪たちでにぎわっていた。なおはその間をすりぬけて、出発点にまでやって来る。
 そこには美鶴と彦丸が待っていた。なおと目が合うと、美鶴は腰に手を当ててくすっと笑う。
 なおたち三人も、この祭りで勝負をする。
「勝者が次の比良神。いいね?」
 なおは出発点を足で確かめながら彦丸に言う。
「僕か立花さんが彦丸の尻尾をつかんだら、比良神を譲ってもらう」
 なおは彦丸と二人で勝負をしようとしていたが、美鶴がそれを聞いていて言った。
 僕にも選ばせてよと、美鶴は笑った。
 僕は確かに神様になりたかったけど、先に選ばれたのは彦丸なんだからね。彦丸にあきらめたように譲られたって、うれしくないよ。そう言って、美鶴は続けた。
「僕と勝負しようよ、彦丸」
 美鶴は笑いながら、真剣な調子で彦丸に告げたのだった。
 なおたち三人の勝負は、しっぽつかみ勝負だ。一足先に彦丸が出発して、円城寺で折り返したら今の出発点に戻って来る。
 なおと美鶴はそれを追いかける。彦丸が逃げ切ったら、彦丸の勝ちだ。彦丸が普段するように、自由自在に空を往くのも、霊道を通って近道するのも無しだ。
 こちらからあちらへつながった一本の道を抜けたら、円城寺までひたすら走ってまたこちらに帰って来る。
 それでも神様である彦丸が一番有利かもしれないが、走ることならなおは挑んでみたかった。勝つ自信まではなくても、負けるつもりはこれっぽっちもない。
 彦丸は何も言わなかった。彼にしては珍しく、緊張した面持ちでなおと美鶴をみつめているだけだった。
 万次郎と百太郎はこまりを追いかける。なおと美鶴は彦丸を追いかける。そして稲香町の人たちは豪華賞品を狙って狐を追う。あっちへ行ったりこっちへ行ったり、到達点は人それぞれ違う。
 真剣勝負なのか、馬鹿騒ぎなのか。でもみんな知っての通り、どちらでもある。
 町の誰もが駆け回る一日が始まった。




 走りに走り、なおは田中家の前で田中家名物の田中園のお茶を受け取った。
 なおはそれを一気にあおって数回呼吸を繰り返してから、ちらと横を見る。
「……何してんですか」
 給水所でお茶を配っていたのは康太だった。
 今日もきっちりと全身に黒い着物を着込んで、一人一人に応援の声をかけながらお茶を手渡している。
「仕事です。私は今出向中の身ですので」
「そうじゃなくて。次の比良神っていうなら、康太さんも挑戦すると思ってましたが」
 上から来た自称美鶴の犬だって、神使に挑戦する権利はあるはずだった。
 ところが康太はさらりとなおの言葉を否定した。
「今回は辞退しました。黄泉神の飼い狐に下へ連れて行かれたうえに比良神に救出された件は、概要も含めて始末書五十一頁を提出しましたからね」
 首を横に振って、康太は眉の辺りに苦渋の色を浮かべる。
「それに交渉も難航しているんです。九尾は下に帰したんですが、上の役人の私が九尾を捕まえてしまったので、下に文句をつけられてまして」
 この人、いつの間にかそんな仕事してたんだ。複雑な話になおが目を回していると、康太はふいに笑った。
「……まあ、仕事は無い方が困るというものです」
 康太は顔をきりりと引き締めて告げる。
「神使でなくても、私は美鶴さんの犬ですしね。あなたもでしたっけ?」
「僕、康太さんから初めて冗談を聞きましたよ」
 なおがぷっと吹き出すと、康太は真剣な顔のまま首を傾げる。
「違うのですか?」
「いや、心は犬ですけどね」
「中途半端ですね。身も心も犬におなりなさい。愉快な人生になりますよ」
 犬に人生を教えられてしまった。でも不愉快でない自分がおかしくて、なおはまた笑った。
 息を整えて、なおは再び走り出す。
 町は狐役探しでにぎわっていた。みな片手に串焼きとか綿あめとかを持ってはいるが、目はらんらんと輝かせて沿道を練り歩く。
 なにせ景品が豪華だったからな。でも本当に人が増えているので、縁結び祭りの効果もまんざらじゃなかったな。なおはそれにちょっと関わったことを満足気に見ていた。
 もう少しで円城寺……というところで、なおは後ろから軽やかに追い抜かれる。
 狐の面をつけたすらっとした青年だった。なおは通り過ぎ際に、彼に眉がないのを見て取った。
「鏡矢さん、みつけた!」
 振り向くと、一生懸命哲知が走って追いかけてくる。どうやら先を走る狐役は鏡矢らしい。
 しかし圧倒的に先を往く鏡矢の方が速い。哲知は運動は苦手だと聞いている。一方で鏡矢は鍛え方が違うのか、どんどん差がついていく。
 そういえばとなおは思い返す。
 田中家の前に飾られた豪華景品群の中に、鏡矢が役者を務める鏡座からも提供があった。「鏡座特製、役者の手鏡」というのが用意されていた。
 鏡矢の手鏡だとすると、哲知にとっては婚姻届に等しいかもしれない。追いかけられる鏡矢は不憫だが、熱狂的な哲知には見逃せない景品だ。
 とはいえ差は広がりこそすれ、縮まることはない。結果は明らかのように思えた。
「哲知!?」
 けれどなおは知っている。勝負は最後までわからない。ふいに哲知が派手に転んで、鏡矢が動揺しながら足を止めた。
「大丈夫か! 変なとこ打ってねぇか!?」
 稲香町はでこぼこ道が多く、転んだ場所によっては大けがになる。
 鏡矢は振り向いて急いで戻って来る。お面を上げて、心配そうに哲知に近づいた。
「……さっさと先行ってください!」
 ふいに哲知が普段では考えられないような激しい声で鏡矢を拒絶する。
「自分で立ちますから!」
 鏡矢は足を止めた。哲知は言葉通り自力で立ち上がって、鏡矢を見た。
 哲知はにこっと笑って言う。
「子どもって馬鹿にしてると後悔しますよ? 安心してください。じきに追いつきますから」
 鏡矢はそれを聞いて、ふうと息をつく。
 お面を下げて、鏡矢はみとれるような流し目を送る。
「十年早えな。……まあ、十年なんてすぐだけどよ」
 なおは確かに鏡矢の口元が笑っているのを見た。
 走る鏡矢とそれを追う哲知。二人を見送る前に、視界の端を誰かが走り抜ける。
「……あ」
 くすっと笑みをこぼして、美鶴が通り過ぎた。彼はもう円城寺の折り返し地点を通過したらしい。
 自分も急がないと。なおは気持ちを引き締めて走り出す。
 円城寺の門をくぐりぬけて、頂上目指して石段を駆け上がる。
 石段を登り始めると、滝のように汗が流れる。先ほど見た美鶴は息一つ切らしていなかった。今更だが勝算の薄い勝負をしたかもしれない。
 頂上で旗を取って石段を下りてくると、哲知の祖母のとわにそれを渡す。
「折り返し地点到達おめでとう」
 とわはなおの胸に丸紐をつけてくれた。美鶴も先ほどつけていた、折り返し地点到達の証だ。
「はっ、は……! 彦丸は、もう来ましたか……!?」
「ううん。まだ見てないわ」
「え?」
 なおは首を傾げる。彦丸は出発したときは当然なおの先を走っていった。あっという間に見えなくなって、もうとっくに折り返したと思っていた。
 とわの側でほうきを片手に座っていた勇雄も、なおに言葉をかける。
「近くに比良神の気配は感じるんだけどね。……あ」
「あ」
 勇雄の視線の先に目を向けて、なおも声を上げた。
 円城寺の門からおずおずと顔をのぞかせたのはこまりだった。門から中には入らないまま、何か言いたげにこちらをみつめている。
 とわは立ち上がって優しく声をかける。
「入っていらっしゃい。あなたが望むなら、すぐにでも縁切りはできるわ」
 おそらく数えきれないほどのねじれた縁を見てきたとわは、少女の澄んだ瞳をみつめて微笑む。
「でもまず、あなたの話を聞かせてほしい人たちがいるみたいよ?」
 とわはこまりの後ろに向かって声をかける。そこに、いつ引き返してきたのか美鶴が立っていた。
「一刻だけ休戦しない? 直助、それと」
 美鶴はなおに声をかけて振り向く。なおもその視線の方向を追う。
「彦丸も。縁結びは神々のたしなみだろ?」
 円城寺の奥から彦丸が歩いてくるところだった。
 こまりに歩み寄った彦丸は苦笑して、少し屈みながら問う。
「……まずは話を聞かせてくれるか、こまり?」
 こまりは下を向いて黙ったが、神様の一声は聞こえていたようだった。
 




 こまりは母に似て優秀な子だと言われるのが大好きだった。
 だから手習いは常に一番を走り、穏やかな性格もあってか友だちと衝突することもなかった。父は仕事の都合で遠くに行くことになって、お互い側で助け合える人が必要ということで母と離縁したが、それは両親が話し合って決めたことだからと素直に受け入れた。
 なおはこまりの話を聞いたとき、自分と違うようで共感するところもあった。なおはあまり優秀ではなかったが、別に友だちと過ごすのに困ったことはなかった。父は病気で亡くなったので、時々寂しくなることはあっても今更どうしようもないしなぁと事実を受け入れていた。
「でもお母さんが遠くに行っちゃうと思ったら、どうしようもなく悪い子にしかなれなくて」
 こまりの転機は、母の再婚だった。
 母のえんはこまりに、子どもの頃自分が見た不思議な世界を見せてあげると言った。そこには水の中に月があって、宵闇がとてもにぎやかなのよと。
 こまりはあちらの世界を、何度か寝物語として聞いていた。私も行ってみたいなと笑ったこともある。
「いや! そんなのいや! お母さんを連れていかないで。そう思ったの」
 けれど再婚という言葉を聞いて、こまりの目の前は真っ暗になった。
 急に怖くて仕方がなくなった。母が少女のように微笑んで語るあちらの世界は、母を自分の手の届かない場所に連れて行く地獄に思えた。
 もう十六歳でしょう。今までみたいに穏やかに笑って、お母さんの好きなようにしたらいいよって、どうして言えないの? こまりは何度も自分に言い聞かせた。
 いいよって、笑って……笑って。そう何度も何度も自分を従わせようとして、結局こまりにできたのは猛反対だった。
「……「お母さんに再婚なんてさせないから」。聞き分けの悪い子どもみたいに叫んで、百太郎さんと駆け落ちしたの」
「実行できちゃったのがすごい。……あ、ごめん」
 なおは感心したように言った後、でも本人は必死だったんだと自分のうかつな言葉を反省した。
 こまりの話を聞き終えた美鶴は、ぽんぽんとこまりの頭をなでる。
「つらかったね」
 目に涙をにじませているこまりに、美鶴は優しく告げる。
「話してくれてありがとう」
「うん。僕もこまりちゃんの気持ちが知りたかったんだ」
 なおもうなずいたが、彦丸はこまりに何も言わなかった。
 けれど彦丸もずっとこまりの話を聞きながら考えこんでいる。
 なおは万次郎とえんの縁結びのときを思い出す。あのときも彦丸はほとんど口出ししなかったが、じっと話を聞きながら考えていたのだろう。ひょうひょうとして見えて、彦丸は案外慎重らしかった。
 なおは思ったままこまりに言葉をかけることにした。
「僕は反対のままでもいいと思うよ」
 なおは自分の経験を振り返って告げる。
「そりゃこまりちゃんと同じことをしたかはわからないけど、僕も母さんが再婚するって言ったら、同じように思ったよ」
 こまりの行動は多少乱暴だったかもしれない。でもなおだってそうしたくなる気持ちはわかる。
 ずっと一緒にいたじゃないか。どうして自分の手の届かないところに行くんだ。……いやだ、そんなのいやだと、思ったに違いないのだ。
 美鶴はなおとは違う意見を持ったようで、少し口ごもったようだった。
「一本だけの縁を頼りに生きるのは、まだ早いんじゃないかな」
 美鶴はこまりに優しく声をかける。
「たくさんの人と縁を紡いで過ごすのは、いいことがたくさんあるよ。きっと思っていたより……こまりちゃんを囲む人たちは優しいと、気づくんじゃないだろうか」
 美鶴は孤独だった幼い頃の自分と、そこから変わって来た自分を両方持っていたから、そう言うことができたのだろう。
 こまりは首を横に振って言う。
「でも、怖いよ……」
「そうだね。全然知らない人だし、しかも天狗だもんね」
 美鶴は瞳を揺らしたこまりに、屈みこんでのぞきこみながら言う。
「だから説明してもらおうよ。二人に」
 美鶴がにこやかに振り向くと、しげみの中でびくっと肩を跳ねさせた男がいた。
 いつからいたんだ。なおがうさんくさそうに見ると、万次郎はわたわたして頭を下げた。
 美鶴は万次郎に歩み寄って紹介する。
「こちらが万次郎さん」
「あ、改めまして、こまりちゃん」
 万次郎は口ごもりながら赤くなっていた。
 一方で樹の上から百太郎が軽やかに降りてきて、彼も言う。
 整った顔立ちに甘いほほえみを浮かべて、百太郎は告げる。
「私はこまりが望むなら、何度でもこまりと駆け落ちしてあげるよ」
 もじもじと言葉に迷う万次郎とは対照的に、百太郎は聞きほれるような声で告げる。
「えんと結婚してほしくないなら、そうする。君に惚れちゃったから」
 なおは聞いていて頬がかゆくなった。この色男め、相手は自分より云百歳年下だぞ、しかも小動物のような女の子だぞと内心で突っ込む。
 しかし一度、家を捨ててまでこまりを連れ出したのは百太郎の方だった。愛に賭けた熱意は確かに押しどころだ。
「ゆ、誘拐はよくないと思います」
 万次郎はまっとうだがいまいち女性には受けない文句で切り出す。
「僕でも近所の甘納豆の店くらいなら連れて行って……」
 お前の方が誘拐犯っぽいぞとなおは思った。こういうところが、万次郎は格好よくない。
 なおは何か万次郎の推しどころはないものかと思ったが、とっさに出てくるのは万次郎の情けない数々の言動ばかりだ。
 そのとき何かが彦丸の懐から飛び出して、なおの血の気がいっぺんに引く。
 青いしっぽを見て、体の芯を貫くような恐怖が蘇る。
「う……!」
 ……九尾がなんでここに。なおは思わず目を閉じた。
 けれどなかなかあのときのような冷気は襲ってこなかった。
 くんくんと子犬のような声が聞こえて、なおはそっと目を開く。
 見ると、こまりの足元に小ギツネがすり寄って青いしっぽを振っていた。
「九尾……じゃない」
 こまりを片腕で抱きしめて、百太郎と万次郎がもう片方の腕で棒を構えていた。
 抱きしめられたこまりは目をぱちくりとしていた。何が起こったかわからないようで硬直したままだった。
 彦丸は小ギツネを抱き上げてあやしながらこまりに言う。
「黄泉神からこまりへの贈り物だよ。九尾はあげられないけど、九尾が最近生んだ七十匹目の子どもならいいよって」
 彦丸が言うと、百太郎と万次郎は警戒を解いてこまりを包んでいた腕をほどく。
 こまりは小ギツネをそっと彦丸から受け取る。親ギツネにするように頬にすり寄る小ギツネに笑って、ふいに目を陰らせる。
「でもこの子、大きくなったら霊力を持つんでしょう? 人に迷惑をかけちゃう」
「まあここでは飼えないかな」
 彦丸は悪戯っぽくつぶやいて、ちらりと万次郎を見やる。
 その意図するところに気づいたのか、万次郎が慌てて言った。
「大丈夫だよ、こまりちゃん! あっちなら霊力のある狐はいっぱいいるよ」
「え?」
「任せて! 妖獣を危なくないように躾けるのは慣れてるから。だから、その」
 だんだんと万次郎の言葉は尻すぼみになる。
 そこでやめるなとなおはもどかしさが喉からあふれそうだったが、いやいやと首を横に振る。
 ……そういうところが万次郎のいいところなんだ。
 なおはこまりにもそれが伝わってほしくて何か言おうとしたが、その前にこまりは万次郎を見ていた。
 こまりはまばたきをして万次郎をみつめた。初めてきちんと見たような顔だった。
 ひとときの沈黙の後、こまりは万次郎を見上げてぽつりと問う。
「今すぐじゃなくていい?」
 こまりは何をとも、どちらとも言わなかった。
 けれど百太郎と万次郎はお互い苦笑し合って、こまりへ目を戻す。
「うん。待ってる」
 その約束を、なおは確かに聞き届けた。



 なおは十五歳の夏、隣町の長距離競争に出場した。
 何もかも適当に過ごしてきたなおにとって最初で最後の、朝も夜もそればかりに打ち込んで挑戦した出来事だった。
 結果は六位。よくやったともいえるし、一番になれなかった中途半端なものともいえる。
 なおはその中途半端さ加減に嫌気が指して、その後勝負から逃げ始めた。
 僕は適当でいいんだ。それが分相応なんだ。そう自分に言い聞かせていた。
 今もう一度走ってみると、そんな言い訳では少しも納得していない自分に気づいた。
 何をふてくされてる。一回であきらめて、何が分相応だ。道は長くて、まだ終着点の気配さえ感じないじゃないかと。
 走るのはやっぱり苦しかった。その苦しさに折れた自分は覚えがあった。
 でも、走りたいだろう? 馬鹿みたいに到達点を目指す自分は、そんなに嫌いじゃなかっただろう?
 思えば、結果は終わった後についてくるただの勲章だった。なおは勲章のために走ったわけではなかった。
 ふいに風がやって来るような願い。それに背中を押されて、立ち止まるのも忘れただけだった。
 なおの元に、また願いの風が来た。美鶴の支えになりたい。そう思いつきのように願っただけで、足は飛ぶように前に進んでいく。
 ずっと前方、届きそうにないところを彦丸が走っている。そして視界の端、追い抜いたり追い抜かれたりしながら、美鶴も走る。
 沿道の妖怪たちも風の匂いも何もかも、なおは一瞬忘れる。
 視界に映ったのは金色のしっぽだった。初めて稲香町にやって来た時もそれを見た。
 神様は縁を結んでくれるだけで、幸運を落としてくれるわけじゃない。その言葉の意味が心に飛来したように理解できた。
 幸運は神様が持っているものでも人が持っているものでもない。
 行きたい方向が出来た時に、そこに向かって走り出す。触れられるかどうかなどわからなくても、行く手に見えた目標に向かって駆け抜ける。
 幸運というのは、目標のしっぽがちらりと見えたことを言うのだと思う。
 そうしたら、後は挑むだけだ。


 指の先に、金のしっぽが掠めた。