もしかしたら、怠けすぎたのが良くなかったかも。なおはちょっとだけ反省した。
 繕いものとか、掃除とか、愛想とかまで怠けたものだからたまらない。あっという間にさえない十六歳の女子(おなご)が出来上がっていた。
 だから現在、家なし奉公先なし、しかもお金もなし。どこかの田舎町で道に迷っている。
「でも悪いことは何もしてないよ!」
 今日から華の大江戸ライフが幕を開けるはずだった。帰る家すら失くすのは納得いかないと、なおは誰にともなく主張する。
 そんななおをあざ笑うように、大雨が追い打ちをかける。
「えぇ! ここで!?」
 なおの前には見渡す限りの田園風景と山が広がっていた。雨宿りをするような軒下すらない。
 なおは貧相な男物の着物が全身ぬれねずみ、田んぼ道のせいで膝まで泥だらけだ。
 途方に暮れて立ち止まった。頭がくらくらして、倒れそうになる。
 でも可憐な女子のように可愛く倒れられない性格だった。頭は少年みたいに首の後ろの簡単な一つ結び、男物の麻の着物姿でいれば、女子とはばれないのが自分のいいところだと思っている。
 どうしたもんかさっぱりわからないや。なおは田舎道に突っ立って、しばし呆然としていた。
「……ん?」
 そんな折だった。ふいになおの目の前を何かがよぎる。
 大きな動物の尻尾が走り抜けたような感覚。なおがぼんやりと目で追うと、道の端に神社があった。雨宿りができると期待したが、それは赤い鳥居と岩を彫りぬいたようなほこらだけの小さな社だった。
 ただ、立派な黒狐の像が一体、ほこらの中に立っていた。
 ほこらの中には、「比良神」と達筆で書かれた札が掲げてある。なおはなんとなくそちらに足を向けた。
「漢字読めないしなぁ」
 地元の人が手入れしているのか、周りの草むしりもきちんとされていて、お供え物が置いてある。狐の赤い前掛けは昨日洗濯されたみたいに真新しい。黒い狐というのも珍しかった。
 ううんとなおはうなって、手を合わせる。
「……かみさま、質問があります」
 お参りというよりはすがるような思いで、なおは黒狐の像に話しかける。
「僕は何かやったでしょうか?」
 確かに努力はあんまりしていない。でも恨まれるようなことはしていない。
「それとも僕に何か憑いてるんでしょうか?」
 そろそろ怪しい言動になってきたと思いつつ、言葉を続ける。
「僕、たたられる覚えはないので。そっちで引き取ってください」
 捨てる神あらば拾う神あり。そういうのを期待して言ってみたのだ。
「だから……」
「そこの神様に願うときはよく考えて」
 ふいに肩を叩かれて、なおは後ろを振り向く。
 そこに立っていた青年を見て、なおは呼吸を止める。
「……ふぁっ!」
 なおは変な声を出して鼻を押さえる。その人こそ神様と言われても信じられるような男性だった。
 軽く後ろで結んでいる黒髪は雨に濡れて眩しくて、肌にシミなんて無粋なものはなく、黒い瞳は星屑をかき集めたみたいに澄んでいた。
 歌など詠んだこともないなおは一瞬で歌うたいになった。彼は二十歳ほどで、美少年を華麗に重ねた年頃だった。
 ただ女性でないのは一目瞭然で、声も低いし喉仏もある。格好だって、普通の男物の籠目模様の着物だ。
 ……如来さまが服着てたらこんな感じかな。
「げっほげほ!」
「だ、大丈夫?」
 そう思った瞬間、なおは鼻血を出した。顔を背けて鼻をつまむと、鼻声になりながら言う。
「気にじないでぐだざい。美男によわいんでず、ぼぐ」
「そんな力いっぱい押さえてたら出血がひどくなるよ。ちょっと座って」
 彼が目を移したところを見て、なおは首を傾げた。
 鳥居の横にはひさしのある小屋が建っている。
 ……小屋? なおは首をひねる。さっきまでは小屋なんてなかったと思う。雨の中で周りの景色すらよく見てなかったといっても、ちょっと見てなさすぎだった。
「ほら、これでしばらく押さえてて」
 なおの疑問はともかく、仮称如来さまはその小屋のひさしの下になおを連れて行くと、なおの鼻に手ぬぐいを押しつけようとした。
「受け取れません!」
「大丈夫、昨日洗ったばかりだから」
 そういう意味ではないとなおが言う前に、如来さまが手ぬぐいでそっとなおの鼻をつかむ。
「ひええ……」
 ほのかなせっけんの匂いと手ぬぐいごしに伝わるぬくもりに、なおの体温はぐんぐん上がる。
「す、すみません。お兄さんが里の如来さまにそっくりで、びっくりして。鼻血噴いたのはなんでかわかんないんですけど……」
「気にしないで。慣れてるよ」
 ……鼻血を噴かれるのが? すごいこの人と、なおは改めて尊敬のまなざしで見ようとして、その澄んだ目に照れて目を逸らした。
 とにかく如来さまの御手を固辞して、なおは手ぬぐいで鼻を押さえながらひさしの下に腰を下ろした。
 雨音が響く中、二人ともしばらく黙っていた。なおが横目でちらとうかがうと、如来さまはまだそこでなおの鼻血が止まるのを待ってくれているようだった。
 なおは興奮が静まって来ると、少しだけ言葉を考える余裕ができた。
「あの、さっき……なんでしたっけ。そこの神様……」
 そろそろと彼の言葉を繰り返すと、如来さまは苦笑して振り向いた。
「そこの神様に願うときはよく考えて。ごめん、神様は願いをかなえてくれることもあるけど、因縁をつけることもあるんだ」
 今、苦笑だけど笑った。なおは目から星がこぼれてせき込んだ。
 なんとか顔だけきりっと繕って、なおは会話に戻る。
「えと、はい。因縁というと、がらっぱちがつけるアレ……ではなくて、ああ、そこの狐が呪いをかけるってことですね?」
 如来さまは言葉に詰まって黒狐の石像を見上げた。
「神様だから、呪ったりはしないけど……。何て言えばいいかな」
「あんまり気楽に願い事をしない方がいい?」
「そんなところかな」
 なおはふむふむとうなずく。
 如来さまはふいに眉を寄せて黙ると、心配そうにたずねた。
「それとも神頼みしなきゃいけない境遇なの?」
 問いかけられて、なおはあきらめの心境になった。
 見も知らない他人の方が話しやすいかもしれない。そう思って、なおはなるべく明るく話し始める。
「……はぁ、まあ。今日の不幸の連続は何かにたたられてるとしか思えなくて」
「不幸?」
 如来さまは切れ長の瞳に心配の色を浮かべた。なおは気を遣わせてしまったと手を振る。
「いや、身内の不幸とかじゃないです。今日から家がないんです、僕」
 まばたきをした如来さまに、なおはぽりぽりと頭をかいて説明する。
「今日から江戸に働きに出るつもりだったんですけど、手違いでその話は無しになっちゃって。で、奉公先の家ももちろん住めなくなっちゃったんです」
「ご実家はどこ?」
 苦笑いを浮かべながら、なおはそれにも答える。
「僕の母さん、昨日で嫁いじゃったんです。母さんとは、僕が働き先をみつけたら家を引き払うって約束だったんですよ。……あ、ついでに焦ってどっかに財布落としちゃって」
 で、道なりに歩いてきたら、この見知らぬ田舎町にたどり着いたという。なおは話し終えて、考えてみればこれって一日で起こったんだなぁと遠い目をした。
「それは大変だね……」
 如来さまは深刻な顔になって黙った。ただその端整な横顔を見ていたら、なおは少し気持ちが落ち着いてきた。
「でも話を聞いてもらってちょっとすっきりしました」
 植物から幸せが出ているような気分がするときがある。如来さまは人に元気を与えてくれるのかもしれない。
 なおの中に前向きな気持ちが湧いてきて、そろそろ止まったかと鼻の手ぬぐいを外した。
「とりあえず、村長さんのとこにでも行って財布の行方を訊いてみます。神頼みするにはあきらめが早すぎますよね」
 なおは如来さまの手前だいぶ無理して格好つけたが、案外それは自分のためになりそうだった。
 言霊というのを聞いたことがあった。前向きな言葉を口にしたら、多少前向きになれた気がした。
「……うん」
 如来さまは眩しいような目をしてなおを見上げると、一つうなずく。
「それがいいよ。神様は縁を結んでくれるだけで、幸運を落としてくれるわけじゃないから」
 如来さまはすっくときれいな仕草で立ち上がって、山とは反対の方向を指さす。
「助けになるかはわからないけど、あそこに見える大きな建物がこの辺りで一番大きな商家だよ。君はまだ子どもだし、相談してみたらどうかな」
「は、はいっ!」
 なおは頭を下げて如来さまを見上げる。
「ありがとうございます。親切にして頂いて」
 手元の如来さまの手ぬぐいを見たら、やっぱり血で汚れてしまっていた。なおは緊張しながら口を開く。
「あの、どこにお住まいですか? お金ができたら、必ず新しい手ぬぐいを返します」
 如来さまはなおの緊張した顔を見て優しく返した。
「いいよ。それは君にあげる。……ああ、晴れてきたね」
 如来さまが仰いだ先には、晴れ始めた空があった。
 雨が上がって、雲間から光が差し込んでいた。なおの体はまだびしょぬれだったが、陽に照らされて少し暖かくなっていた。
「じゃあね。幸運を祈るよ」
 如来さまの言葉がなおの心に染みこむように響く。
 光の方に歩き出そうとした彼の背中に向かって、なおは声を上げる。
「ぼ、僕……直助《なおすけ》。直助って呼ばれてます!」
 如来さまはちょっと歩いたところで立ち止って、柔らかく笑い返した。
「僕は立花美鶴(たちばなみつる)。……またね、直助」
 手を振って、如来さま改め美鶴は去って行った。
 なおはしばらくその後ろ姿に見とれて、手ぬぐいを握りしめたままぽけっと突っ立っていた。




 その商家は確かに大きくて、いつの間にかなおはちょっとした町に着いていたらしかった。
 なおは今晩の宿を相談すべく、美鶴の勧めたようにその屋敷を訪ねた。
「まあまあ、びしゃんこじゃない。みっともない」
 ところがその商家、世話焼きなおばちゃんで満ちていた。
 仕切りもない二十畳ほどの部屋に十人ほどのおばちゃんたちがいて、暇なのかわらわらと寄ってくる。
「ほら手ぬぐい。しっかり拭きなさいな」
「誰か、羽織るものとってきて」
「こりゃ駄目だわ。お着物ご臨終ね」
 おばちゃんたちはなおの泥だらけの着物姿にあきれて、手ぬぐいやら着替えやらを持ってきてくれる。
「はぁ」
 なぜおばちゃんたちが働いているのかはわからないが、美鶴が言うにはここが一番大きな商家なのだ。
 なおはいくら雑な性格でも公衆の面前で脱ぐほど乙女を捨てていない。有難く裏方にさっと引っ込んで一瞬で着替えてくると、懸案事項を口にする。
「それで、あの、お金は江戸に出て働いて返しますから。今日泊まる費用だけでも貸してもらえるとありがたいんですけど」
「雨がよく降るわねぇ」
「おせんべい食べる?」
 世の常として、おばちゃんたちはあまり人の話を聞かない。身の上話をする暇もなく、なおはせんべいを渡された。
「ご当主さまがもうすぐ帰ってくるから、お金の話はその時すればいいわよ」
 結局のんきな感じで言い含められて、なおは部屋の隅でせんべいを食べていた。
 外はまたどしゃぶりの雨になっていた。ご当主さまとやら、こんな雨の中で足元は大丈夫かなと思いながら、なおは窓の外を見やる。
 ふっと灯りが消えた。風が部屋に入り込んだのだろう。辺りは真っ暗になる。
 雨に当たって体温が下がったのか、なおはやけに体が冷えた。羽織りの上から体をさすって、誰かが灯りをともしてくれるのを待つ。
「なお」
 誰かに呼ばれて、なおはぎくりとする。
 暗闇でよく見えないが、誰かが横に座っている気配がする。
「当主は君を助けてくれるだろう。それでいいのかい?」
 さっき、こんな若い声の男はいただろうか? なおの中で違和感が膨れ上がる。
 妙に低くつやめいた、役者じみた色っぽい声が言う。
「そうしたらお母さまが呼ばれてしまうね。せっかく新しい家になじもうと一生懸命なところなのに」
 なおは青ざめて、隣を見ることもできずに硬直する。
 なおはここに来て誰にも、母が女手一つでなおを育ててくれたことを話していない。ましてや母が嫁いで新しい家に行ったことなど、打ち明ける必要もなかった。
「君の願い事は、今年から働くことなんだろう?」
 ……なおが今年の初詣に近所の神社で願っただけのことを、どうして他人が知っている?
 いい加減、母さんと一緒っていうのはやだもん。二月前のなおの言葉だ。
 なおの母は子どもっぽくて頼りないくせに、惜しみなくなおを心配する人だ。だからなおはぶっきらぼうに言って、母の嫁ぎ先に一緒に行かないと決めたのだ。
 家を離れて一人で暮らす。生活費は自分で稼ぐから、行きの旅賃だけ出して。甘い理屈と精いっぱいの強がりで母の労わりを蹴り飛ばして、なおは家を出てきた。
 ちょっとだけ、母の幸せというのも考えた。母は三十台で、これから子どもだって生まれるかもしれないし、自分がついていったら新しい家になじみにくいかもしれないと思った。
「せっかくサイを振ったのに、やり直しをするのかい?」
 男の声は子どもが興味津々に訊いているような調子で、なおはむっとする。
「何が言いたいのかわかりません」
「この際とことん転がって、出たとこ勝負をしてみないかい?」
 言ってることが怪しくなってきた。なおは恐れを捨てられないまま、意を決して横を振り向く。
 そこで異変に気付いた。まだ刻は昼過ぎで、天気が悪くても灯りが消えたとしても、窓から入り込む光で室内は明るいはずだ。
 ……それなのに、隣の男の輪郭すらわからないほど真っ暗なのはなぜ?
「あいにくと、賭け事は嫌いなんです」
「じゃあ勝負事は?」
「嫌いです。勝てたことなんてないから」
「若いのに消極的だなぁ」
 男はくすくすと喉を鳴らすように笑った。
「私と勝負しないか。きっと楽しいよ?」
 気配が近づく。なおがびっくりして身を引いたら、誰かがぱっと灯りをともしたようだった。
 おばちゃんたちのおしゃべりの声が戻ってくる。そういえば部屋にはおばちゃんたちがいるのに、先ほどまではその声さえ聞こえなかった。
 なおがまぶしさに目をくらませながら、もう一度隣を見やったときだった。
「ねえねえ、半分ちょうだい?」
 そこには三歳くらいの小さな男の子が、ちょこんと座っていた。
 椅子に座って足をぶらぶらさせながら、なおのせんべいを覗き込んでくる。なおはぽかんとして、何を言われたのかわからなかった。
「あらあ、彦丸(ひこまる)君じゃない。一人なの?」
「雨がたくさん降ってるのに、よく来たわねぇ」
 おばちゃんたちは男の子のことをよく知っているようで、口々に声をかけてくる。
 なおは周囲を見回すが、おばちゃんばかりで若い男なんていない。一番近いところにいるのは、つやめいた声など無縁な幼な子だけだ。
「飴玉取る? どれがいいかしら」
「どれも大好き! 僕、好き嫌いしないもん。えらい?」
「えらいわぁ。でも一個だけよ」
「もう、わかってるよ!」
 なおが動揺している内に、おばちゃんたちは彦丸君とやらに群がって来る。間違いなくなおよりも集客率が高いようだが、おばちゃんの集客率はこの際なおもあきらめる。
 彦丸という男の子は、確かにおばちゃんたちが集まるのがわかるほど見目麗しい子だった。薄い茶のさらさらの髪をしていて、ぷにぷにしたほっぺたが愛嬌たっぷりだ。
「じゃあこれ。やった、黒蜜だ!」
「彦丸君は黒蜜が好きねぇ。目隠ししないで取ればいいじゃないの」
「どれが出るのかわからないからいいの! ふふ!」
 今すねていたかと思うと、もう笑っている。コロコロと変わる表情は、サイコロの目のようだった。
 彦丸が現れてからというもの、なおは完全に放置されていた。まあ愛らしい幼な子と勝負してもなぁと、なおは言い訳しながらちょっと空しい思いでせんべいを食べることに専念する。
 ふいに帳簿台の向こうから声が聞こえる。
「みなさーん、今日は当主さま、帰らないそうですよぉ」
 その声は若い男だったが甲高いのんきな声で、先ほどなおが聞いたものとは全然違う。
「土砂崩れが心配なので、隣町で一泊してから戻るって」
「そうねぇ、この雨だものね」
「いいじゃない。急ぎの用なんてないし」
「……えっ?」
 皆はあっさりとうなずき合っていたが、なおは顔をしかめる。
「いや、僕は急いでますよ?」
 当主が帰ってこないと、なおは今夜の宿を相談できない。思わず不満を口にしたが、誰も聞いていない。
 ただ一人、彦丸だけはなおの方を見ていた。
 涼やかな狐目を細めて、くすっと笑った……ように見えた。
「ああ、そういえばあんた今夜はどこに泊まるの?」
「だから、それがないから困ってるんですってば」
 おばちゃんに言葉を返したら、彦丸はきょとんとして言葉を挟む。
「お兄ちゃん、おうちがないの?」
「うん、まあ……」
「じゃあ僕んちに来るといいよ!」
 彦丸はぴょんと椅子から飛び下りて、なおの袖をぐいぐい引く。
「ね、遊ぼ、遊ぼ!」
「あのね、兄ちゃんは遊びに来たわけじゃなくて……」
 なおがたしなめようとしたら、おばちゃんたちがあきれ調子で言う。
「大人げないわね、あんた。暇そうなんだから遊んであげればいいじゃないの」
 この人ら、僕が一文無しで来たことを忘れているんかい。なおは心の中で突っ込んだが、ふいにおばちゃんたちはひらっと手を振った。
「当主さまが来ないと帳簿を触るわけにはいかないから、今日は彦丸君ちの人に頼んで泊めてもらいなさいな」
 さすがおばちゃんたち、実に落ち着いている。自分より二十も三十も年下のひよっこに動じる神経など持ち合わせていないようだった。
 なおの手を取って、彦丸ははしゃぎながら言う。
「さ、行こ!」
 おばちゃんたちはそれを見ながら、しみじみとした口調で呟いた。
「しかし、なんだってあんたみたいなさえない子をねぇ……」
 さりげなく失礼なことを言われたが、一応今晩の宿を手配してくれた人たちである。なおがお礼を言って外を見ると、また雨が上がっていた。
 今日は雨が降ったりやんだりと忙しい。なおの行く末も見えたり消えたりと落ち着かない。
 自分はどこへ行こうとしているんだろう。なおのぼんやりとした不安が見えたわけではないだろうが、おばちゃんたちは顔を見合わせて苦笑した。
「まあこれも縁だよ。行ってらっしゃいな」
 そうして彦丸に手を引かれて、なおは大商家を後にすることになった。




 彦丸はなおの手を引っ張って、山の方に歩き出した。
 この辺りで一番目立つのはこんもりと緑のしげる大きな山だ。そして見たところ、山の方に行くにつれて民家は少なくなっている気がする。
 次第にけもの道のような細いむき出しの道を歩き出して、なおは不安になってきた。
「ええと、彦丸君。まずは君のおうちに連れて行ってくれないかな?」
「やーだ。僕と遊んでくれる約束でしょ?」
 そんな約束しとらんがな。なおはそう思ったが、無下に切り捨てるのは幼な子相手にあまりに大人げない。
 なおは仕方なく深呼吸して、長く息をついた。彦丸の手を離して腰に手を当てる。
「だめ。さっきのお屋敷に戻ろう。兄ちゃんは急いでるんだ」
「つれないなぁ、なお」
「え?」
 ふいにまた、例の低いつややかな声が聞こえた。
 この声を聞くと体がひきつる。どこからだとなおは辺りを見回したが、周囲に若い男などいない。
 彦丸はまたなおに言葉を続ける。
「お兄ちゃん、いじわる」
 姿がみつかるのはただ無邪気に見上げてくる少年だけ。彦丸は上目遣いでかわいく首を傾げると、なおの手を離してたたっと走っていく。
「じゃあ僕もいじわるしちゃう」
 そう言って彦丸が掲げたのは、見覚えのある安っぽい財布だった。
「……なんで!? 僕の財布!」
「それっ、行くよぉ」
 血相を変えたなおの手をすりぬけて、彦丸は笑いながら駆けだす。
 どうしてとなおはつかみどころのない不安を持て余す。
 なぜこの子が失くした自分の財布を持っているのか、さっきからつきまとう違和感は何なのか、何もかもわからない。ただ汗を流しながら追いかける。
 彦丸はまるで地に足がついていないような身軽さだった。草木の間を小動物のように駆けて、なおの視界に映っては消えることを繰り返す。
 パンパン。手拍子が聞こえてなおは顔を上げる。
「おいで、手の鳴る方へ」
 木々の間を手拍子が木霊する。
 気づけば山の深い場所にまで入って来ていた。なおは狐に化かされたような気分になりながら、木々に木霊する手拍子を頼りに彦丸を追いかける。
「こらぁ、怒るよもう!」
 口汚く叫びながらも全然追いつけない。せっかく貸してもらった羽織りも、雨上がりの草むらを駆け回ったせいでまた泥だらけ。それでも手の鳴る方へ、子どもの姿の見える方へ向かう。
 財布があれば一人で生きていける。子どもにとってはおもちゃでも、なおにとっては最初の一歩。替えることのできないものだった。
 ふいに彦丸が木の上から飛び下りてくる。じゃれるように、なおの前でくるりと回転した。
「大人を馬鹿にするなぁ!」
 なおが息を切らしながら手を伸ばした時だった。
 彦丸の腕をつかんだその瞬間、なおは宙に投げ出される。
 目の前に底なしのような谷がぱっくりと口を開いていた。
「あ……!」
 凍るような恐怖がなおを包み込むのと同時に、落ちていく彦丸の姿が目に焼き付いた。
 考える暇などなかった。なおは彦丸を引き寄せて胸に抱きかかえていた。
 ……大人はちびっこを、庇わないと。
 たぶん後付けで理由を考えたけど、本心だった。
 目をきつく閉じて体を丸めて、やって来る恐怖の瞬間をこらえる。
 ……カラン。
 なおの耳に、何か固いものが転がるような音が木霊した。
「ふうん。私は意外と面白い拾い物をしたようだ」
 鈍る意識の中で誰かの声が聞こえて、なおは世界が反転したような気がした。