「あ、ねえ真琴。今日までの宿題、やって来た？」
「は！？　そんなのあったっけ！？」
「あるある。ほら、このページの……」
「……えっ。こんなの習ったか？　記憶にないんだけど……」
「しっかたないなぁ、優しいライカちゃんが教えてあげよう！」

　昼休み、早めに昼食を食べ終え午後の授業の支度をしていると、隣の席の久住来香から声をかけられた。

　幼稚園の頃から高校に至るまで、人生の大半を同じ学校に通い続ける彼女とは、いわゆる幼馴染みというやつだ。先日の席替えで隣にまでなったのだから、腐れ縁と言ってもいいかも知れない。
　成績優秀スポーツ万能、性格も明るく見た目も可愛らしい彼女には友達も多いが、こうして僕にもしょっちゅう話し掛けてくれる。

　それはほんの少しの優越感。特に秀でたものを持たない普通な僕が人気者の彼女を独り占め出来るようで、思春期特有の異性と話す気恥ずかしさよりも、嬉しさの方が上回っていた。
　けれど、彼女には少し、困った悪癖があったのだ。

「……いや、宿題なんかじゃなかったじゃん！　さっきの今日の授業内容じゃん！」
「あははっ、そうだね。宿題なんて嘘だよ」
「あー、もう！　ったく、また来香に騙された！　貴重な昼休みが……！」
「まあ、いいじゃん。予習になったし、当てられて答えられたんだから結果オーライでしょ？」
「うぐ……それは、そうだけども……」
「真琴が騙され易すぎるんだよねぇ。他の子にも聞けばすぐわかるのに」

　くすくすと楽しげに笑う彼女の悪癖。嘘をついて、僕を騙してからかうこと。
　彼女の性質をわかっていても、つい騙されてしまう巧妙な手口と演技力。決して悪質な嘘ではないから本気で責められないし、彼女の言う通り、確認すれば済む話なのだ。

　それでも、僕はいつも引っ掛かって、それを見て彼女が満足そうに笑うのが、僕らのお決まりのパターン。
　長年続いた僕たちのコミュニケーションの一つだった。

　ある休日には「午後から雨だって」なんて言うから、予定を前倒しして午前中に全部済ませたのに。午後からはうんざりするくらいの快晴で、余った時間買い物に付き合わされたり。

　またある時は「真琴にバレンタインを渡したがってる子が居る」なんて言われて一日中そわそわさせられて、結局誰からも貰えず放課後落ち込んで、帰り道で来香がお詫びにとチョコレートをくれたり。

　騙し騙され、怒って笑って、そんな彼女とのやりとりに、悔しいはずなのに愛しさが増す。幼い頃から、僕は彼女に惹かれ続けていた。

　これからもこんな日々が続くものと思っていたのに、その終わりは唐突にやってきた。

「ねえ、真琴。起きて」
「え……ら、来香！？」

　寝起きに聞こえた声に、一気に目が覚める。ベッドから落ちそうな勢いの僕を見下ろす彼女は、いつの間に部屋に入って来たのだろう。
　いくら幼馴染みにしても、早朝から寝起きどっきりを仕掛けられるなんて、完全に予想外だった。

　一瞬ラブコメ的な展開を想像して、けれど次がれた一言に打ち砕かれる。

「あのね……私、幽霊になっちゃった！」
「……、は？」
「いやあ、うっかり事故で死んじゃってさ」
「いやいや、さすがに今度ばかりは騙されないぞ！？　なんだよ幽霊って。ちゃんと居るじゃん！」
「……、……」
「……え……何その顔……え、マジで？」
「うん、マジで」

　久住来香は嘘みたいにあっさりと、命を落としてしまったのだ。


＊*＊*＊*＊


　誰かに事実確認、するまでもなく、リビングに降りると母さんの泣き声が僕の鼓膜を破かんとした。

「おはよ……」
「ま、まこ……真琴……ら、来香ちゃん……らいかちゃん……っ」
「母さん……？」
「おばさん……」

　母さんは、僕の足音に気付いて一瞬顔を上げたけれど、ぐちゃぐちゃな顔を見られないようにかすぐに机に突っ伏して、大声を上げて号泣していた。
　その光景に疑いようもなく、来香が本当に死んだのだと突きつけられた気がした。

「あの子が……うう……なんで……来香ちゃん……っ」
「……おばさん、もう泣かないで」

　その来香なら、僕のすぐ隣に居る。
　なんて言える雰囲気でもなく、僕は実感のないまま母さんの向かいに座る。
　突然のことに用意すらままならなかったのであろう朝食代わりに、適当に置いてあった菓子パンを頬張った。

「ここにいます……って言っても、見えないんだよね……。というか、声も聞こえてないよなぁ……」
「そうだな」
「真琴は泣かないの？　のんきにパンなんて食べちゃって」
「いや、だって……実際お前、ここにいるじゃん」
「それはそうなんだけどさぁ……」

　何やら複雑そうな顔をした来香が、今にも過呼吸を起こしそうな母さんを宥めるように背を撫でている。けれど母さんは気付くこともないのだろう。もう顔を上げることなく、変わらずわんわんと子供のように泣いていた。

　来香とは幼馴染みで、親同士の仲も良い。昔から家族同然の付き合いだったのだ。
　母さんは来香を実の娘のように、何なら出来の悪い反抗期気味の息子よりも、断然可愛がっていた。取り乱すのも無理はなかった。

　普段快活な母さんが、こんなにも憔悴して、周りの声も聞こえないほど悲痛な叫びのように泣いている。

　本当に、来香は死んだのか。今もこうして、ここに居るというのに。

　あまりにも実感がわかず、親の号泣と幼馴染みの幽霊なんてどこまでも現実味のない光景が目の前に広がって、どこか呆然としたまま、僕はいつも通り学校に行く支度をした。
　動揺するにも悲しむにも、まだ心が追い付かない。食べたパンの味もよくわからなかった。

「……なあ、ほんと、何で居るの。お前、死んだんだろ？」
「そうなんだけど……んー、なんだろ。あんまり死んだって感じしないんだよねぇ。未練でもあるのかな？」
「未練……？」
「とりあえずさ、うちの両親も私のこと見えないから……今日は真琴と一緒に居させてよ」
「え……」

　血の繋がりのないうちの母さんですらああなのだ。一人娘を亡くした実の両親の絶望は、想像に難くない。
　それなのに、そんな彼女の両親が、こうして確かにここに居る来香に会えないなんてあんまりだ。

「……見えるの、僕だけなのか？」
「そうみたい。だからさ、成仏のしかた、一緒に探してよ」
「……成仏って言ったって……」

　いつも通りの通学路。いつもと違うのは、隣を歩く来香が誰にも見えないこと。
　いつも通りの軽い会話。いつもと違うのは、彼女の声が僕にしか聞こえていないということ。
　いつも通りの近所の野良猫。いつもと違うのは、彼女に懐いていたはずの猫が彼女ではなく、不思議そうに僕の方を見上げること。

「……あ、人通り増えてきたし、私黙るね。空中に向かって話し掛けてたら、真琴いつもよりヤバい奴に見られちゃうし」
「デフォルトでヤバい奴前提かよ」
「あははっ」

　そこからは本当にからかったり悪戯したりすることもなく、彼女は静かについて来た。調子が狂う。しかし学校が近付いてくると、彼女が不意に立ち止まった。

「ねえ……今日さ、サボっちゃわない？」
「……は？」
「未練、思い付いた気がするの！」
「えっ、本当か？」
「真琴について来て欲しいな。……だめ？」
「……う……、今日だけ、だからな」
「やった、ありがとう！　成仏出来るように、頑張るよ」

　来香の言葉に、心臓が跳ねる。今はまだ、幽霊だとしてもこうして見えるし言葉も交わせる。
　けれど未練を晴らせば成仏して、いつものように隣を歩む彼女が、完全に消えてしまうのだ。
　あまりに実感のなかった紛れもない現実が、すぐそこに迫っている。見えない暗闇が、じわじわと日常を侵食してくるようだった。

「それじゃ、れっつごー！」

　僕の複雑な気持ちなんて知りもせず、来香はいつもの明るい様子で笑みを浮かべる。
　けれど、彼女がノリ良く繋ごうとした手は感触もなくすり抜けて、お互い目を見開いて苦笑した。

　もう二度と、触れることすら出来ない。彼女は本当に幽霊なんだと、嫌でも実感した。


＊*＊*＊*＊