慧は家庭が崩壊した過去の出来事を掘り起こす。

『蒼真……頼むから起きてくれよ……』

弟が亡くなったあの日、幼い慧の心に強烈に焼きついた蒼真の姿。
それまで当たり前のように続けてきた会うことも、触れることも、話すことも、笑い合うことも。
その全てが奪われて、残酷な世界にその家族だけが放り出されたと思っていた。
死というものはそれほどまでに冷たい断絶になるのだと、慧はあの日、絶望的に思い知らされたのだ。





翌朝、それでも慧は現実と向き合うために両親がいる宿舎へと足を向ける。

「慧、おかえり」

扉を開けると、慧の父親が慧を出迎えた。
朝食の香りが漂う宿舎の部屋は今日も明るく、慧を招き入れる。

「父さん、仕事は?」
「今日は午後から出社なんだ。その様子だと朝食はまだだよな? 母さん!」

慧の父親がしきりに名を呼べば、奥のキッチンから出てきたであろう慧の母親が顔を出す。

「あら? 慧、おかえりなさい。すぐに朝食を準備するわね」

慧の母親はキッチンに立つと、手際よく慧の分の朝食を用意する。
テーブルには椅子が『四つ』。
そこに三人分の朝食が並び、慧と慧の父親も腰掛ける。

「今日は蒼真と一緒じゃないんだな」
「蒼真は任務の都合上、しばらく友人のところに泊まる必要があるからな」

蒼真はもういない。
だから、そう言ったところで意味はないのに、慧はそう誤魔化していた。
人間は必ず何かを失う。人生とは喪失だ。
停滞や忘却でそれを免れようとする者は数多い。
慧の両親も蒼真が生きていると思い込むことで息子を失った喪失から免れていた。

「久しぶりに蒼真の顔が見たいな」
「ふふ、もう、あなたったら……任務なんだから仕方ないわよ。ほら、慧も困っているわ」
「慧、困らせてしまってすまないな」

慧の母親の言葉に、慧の父親が慧に向かって謝罪する。

「父さん、母さん……。俺だって、蒼真に傍にいてほしいさ」

慧はそれに応えるように確かな想いを紡いだ。

「もし、この場に奏多を連れてきたら、父さんと母さんはどんな反応を示すんだろうな」

生きているはずの弟がいなくて、そう思い込んでいる家族だけがこの世界で今もどうしようもなく生きている。
過去だけがどこまでも優しくて、どうやったってそこに戻れない現実が悲しい。
それでも虚構の幸せに縋りたい気持ちは痛いほど分かるから。

「なあ、蒼真。一番幸せな時のまま、生きたいと願うことはいけないことじゃないよな」

慧がそう聞いたところで答える者は、この場にはいなかった。