神奏のフラグメンツ

「仕方ないですね。もう一度、説明しますよ」

今の状況を飲み込めない奏多に、結愛が助け船を出してくれた。

「今日は世界会合の日で一族のみんなで重要な話し合いがあったんです。だけど、ほらほら、重要な話し合いって一人だと理解するのが難しいんですよ。でも、お姉ちゃんも同じ年頃の知り合いも誰もいなくて」

それが新鮮なのか、結愛はくっーと胸が弾ける思いを噛みしめる。

「誰も近くにいないのかなと諦めていたら、なんと奏多くんを発見したんですよ。早く話しかけたかったので、おもいっきり跳躍したんです。ていやーって」
「ていやーって急いだせいで、テーブルの下敷きになったのかよ?」
「イケると思ったんですよ! でも、間違いでした。私自身の運動能力の低さを忘れていたのが敗因です」

ひたすら柔和な結愛の微笑に、かすかに苛立ちのようなものが混じる。

「あーあー、いやです。いやです。世の中は運動音痴に厳しいんですよ。テーブルの下敷きになっても誰も助けてくれないんですから。運動音痴ってだけで!」

だから、と結愛の瞳に決意の輝きが見えた。

「奏多くんに説明して、ここから助けてもらおうと思ったんです」
「悪い。今の俺には今までの自分が何をしていたのか、全く把握できていなくてさ……」
「はううっ、なんですか、それ? もしかして先程までの奏多くんって、いつもの奏多くんじゃなくて神様の奏多くんの方だったんですか?」

奏多の戸惑いに元気の良い返事が返ってくる。結愛の食いつきが半端ない。

自分が『破滅の創世』と呼ばれる最強の神の具現である。

その事実は鋭利で、それを知った幼い奏多の心をいとも簡単に切り裂いた。
そして祖先の犯した罪の重さに喘ぎ、罪人の末裔(すえ)であることを呪った。
だが、結愛はその事実を知っても以前と変わらず、奏多に接してくる。『破滅の創世』としての奏多に対しても、気さくな感じで話しかけているのは恐らく彼女くらいだろう。

奏多はテーブルの端に手をかけた。力を込めると僅かに持ち上がる。

「わあっ、ありがとうございます! 奏多くんは命の恩人です! このご恩は一生忘れません! 私が神様なら福音か、恩恵(おんけい)をプレゼントしているとこですよ。ええと、何がいいですかね。この前、奏多くんが気になっていた音楽CDはどうですかね……」
「……早く出ろよ」
「あ、はい」

結愛は肘をついて、匍匐(ほふく)前進(ぜんしん)でもぞもぞと這い出てくる。彼女が身体を揺する度にふわりと髪が揺れた。
「ふー、ようやく解放されました」

テーブルの端を床に下ろした奏多の前で、結愛は喜色満面に大きく伸びをする。

「んもぉー、皆さん、話し合いに集中していて、私がテーブルの下敷きになっていても知ったこっちゃない状態だったんですよ」
「それだけ重大な話し合いの場だったんだろ」

結愛は一度だけ目を伏せ、そしてまた奏多をまっすぐに見つめた。

「私にとって、奏多くんは奏多くんです。だから、他の神様や『破滅の創世』様の配下さん達には奏多くんを渡しませんよ」

確かに今こうして、間違いなく奏多は『結愛の幼なじみ』としてこの世界に存在している。その事実は途方もなく、結愛の心を温める。

「あなたがこの世界にいなきゃ、嫌です」
「結愛……」

その言葉に奏多の目の奥が熱くなる。体中の皮膚が鳥肌を立てて、感情の全てが震え出す。

「俺にとっても、結愛は結愛だ」

言葉の意味を理解した瞬間、結愛の顔は火が点いたように熱くなった。

「はううっ。……もう一回、もう一回!」

妙な声を上げながら、身をよじった結愛が催促する。

「結愛は結愛だ」
「うわああ、すごい……幸せです……。も、もう一回!」
「結愛は結愛だ」
「きゃーっ」

止まない雨は無い。明けない夜も無い。奏でる音色はきっと美しく響き渡る。
まるで幼子のように微笑んだ結愛の笑顔は甘やかな色彩に彩られていた。





筑紫野学園。
一族の者として生まれた者達はみな、この小中高一貫校に通うことが義務づけられている。

「奏多くん、おはようございます!」

翌朝、学園に登校した奏多は校門前で真剣な表情の結愛と鉢合わせした。
まばゆい朝日を浴びて、透明感のある赤に近い髪が輝いている。

「……ずっと……奏多くんのことを考えていました」
「俺のことを……?」

中等部に向かう途中、結愛はぽつりと素直な声色を零す。

「私、自分で思っていたよりも奏多くんのことが好きだったみたいです」

結愛は幼い頃、臆病者だった。姉に手を引いて貰わねば、歩き出せないほどの。
俯いてばかりいたのは責任から逃れるためだったのかも知れない。
良い子でいたかったのは、その方が愛されると知っていたからだ。

だけど――

小学生の遠足で迷子になった結愛を一番最初に見つけてくれたのは奏多だった。
たった一人で泣いていた結愛に「傍にいる」と笑ってくれた。
――本当は人間ではなくても、たとえ神でも、奏多は紛れもなく『結愛の大切な幼なじみ』だった。

「だから怖いんです、怖いんです! いつか、奏多くんが私の前からいなくなっちゃうのが!」

奏多と出逢い、そこで生まれた数えきれない感情。
何でもないことが幸せだと実感できた。
「あなたがこの世界にいなきゃ、嫌です! あなたが傍にいなきゃ、嫌です!」
「結愛……」

大切だった。結愛を導く光だった。
ただ、奏多が傍にいてくれるだけで強くなれた。
『破滅の創世』の配下達がこの世界から帰還するために何かを置き去りにしないといけないのなら、それは奏多でなければよかったのに。

「だから、私と約束して下さい。どこにも行かないと!」

そう言う結愛の目には、光るものが浮かんでいた。
二人で歩む未来はこれからも続いていくと、甘く確かな約束を求めて。

俺の帰る場所なんて……そんなの……。

大切な人が覚悟を決めて、自分を切望する。その独占じみた想いに、奏多の胸が強く脈打った。

そんなの決まっているだろ……!

大事な何かをなくした心の闇はいつまでたっても明けない。
そこにあるのは無くした過去に縋り、未来を閉ざす停滞。だけど個人の事情なんて置き去りにして、世界はいつもと変わらず明日がやってくる。
これまではそれはひどく悲しいことだと思っていた。個人に価値などないと証明しているように感じていた。
でも、それは残酷なことなんかじゃなくて、前に進むための道標。進むはずだった未来に戻るための基準点。
時間とは個人では受け入れられない悲しみを癒やすために流れていく。そう思うことができるようになったのは結愛のおかげだった。

「ああ、絶対に傍にいる。結愛、約束だ!」
「ふふ、言いましたね、約束ですよ!」

ありふれた何気ない日常こそが救いなのだと他の誰でもない奏多と結愛だけが知っている。
二人でいれば、世界はどこまでも光で満ちていた。





遠くから誰かの叫び声が聞こえる。鋭い刃物同士がぶつかり合う音と銃声。
程なくして爆撃音が弾け、怒号が空気を震わせた。
始まりの事など覚えていない。
光陰矢の如し、神命の定めを受けて生を受けたからには彼らには朝と夜の区別など、さして気になるものでもなかった。
遥か彼方より、望みはたった一つだけだった――。

「神のご意志の完遂を――」

動き出した『破滅の創世』の配下達。
これまでも世界各地で暗躍していたが、ここにきて本格的に『破滅の創世』を取り戻そうという動きが見られる。
人は産まれながらに罪を犯す。だからこそ、絶望も退廃も虚栄もない世界を。
『破滅の創世』の配下達は主が御座す世界を正そうとする。その御心に応えるべく献身する。
つまり、どう足掻いても『破滅の創世』の配下達をどうにかしないことにはこの世界に平穏は訪れない。
彼らを何とかしなくては、奏多はずっと狙われ続けることになるだろう。
いずれにせよ、まずは目下の事態を収拾せねばならなかった。
浅湖家(あさみけ)や此ノ里家を始め一族の冠位の者の役割は、敵である神々と『破滅の創世』の配下の部隊に対して警戒を行うことであった。
彼らもまた、形だけでも整えた急造部隊として、隙を巧妙にうかがう『破滅の創世』の配下への牽制を行う任務を帯びている。

「『破滅の創世』の配下に狙われているというのに相変わらず呑気な奴らだな」
「あら、結愛は嬉しそうね」

結愛の――妹の様子に満足げな()(さと)観月(みづき)に、浅湖(あさみ)(けい)は顔をしかめつつ問うた。
まるで甘やかしも時には毒になるということを、彼は理解した方がいいとでも言いたげだ。

「つーか、どうして『破滅の創世』の配下の奴らはあいつを積極的に奪いにこねぇんだ?」
「神の記憶を封じられている状態の今の奏多様の出方が分からないからよ」

説明を一区切りさせてから、透明感のある赤に近い長い髪をなびかせた観月は嘆息する。

「それに神の記憶を取り戻した時の奏多様は記憶を封印されている時の出来事を覚えている。妹を始め、懇意を寄せている者が近くにいれば、周囲に危害を加える可能性は低いわ」

付け加えられた言葉に込められた感情に、さしもの慧も微かに目を見開いた。
戦局を混乱に導きたいなら、確かにそれで事足りるだろう。

「それが神としての記憶を封じ込めた理由の一つってわけか」

この世の悪意を凝集したような一族の上層部のやり方に、慧は、そして居並ぶ浅湖家の者達は激しい嫌悪を覚えたのは間違いない。

「随分と悪辣だな。一族の上層部らしいやり方だけどな」

慧の言い草に、観月はふっと微笑む。
如何に不明瞭な未来でも、儚い安寧に縋る。
それが一族の上層部の最後の矜持だったのだろう。

「まるで幽鬼ね」
「そうだな。まぁ、もっとも俺がここにいること事態、亡霊と話しているようなものみたいだけどな」
「亡霊……?」

そう話す慧はいつものように快活だった。話を聞いている観月だけが目を瞬かせては大きく瞳を開いている。

「そのままの意味さ。俺は本来、生きているはずがないんだよ」

『敵』に見逃がされたのは、あの時点で『揉め事』を増やすつもりがなかったからだろう。それに自分はまだ、利用価値があると思われたのかもしれない。

「どういうこと?」

彼の過去に繋がる話に観月が耳を傾けた、その刹那――

「ようやく、わたしにもアルリットとともに君達を抹殺することの許可が下りたよ」

不意にこの場にそぐわない涼やかな声が響く。
慧と観月が慌てて振り向くと、そこには白い二つの影――二人の少女のような存在がいた。
「『破滅の創世』様に目を付けて、私欲のために利用しようとしている愚か者達」
「ちっ、『破滅の創世』の配下の奴らか。いつの間に接近しやがったんだ……」

銃を構えた慧の反応も想定どおりだったというように、少女達の表情は変わらない。
『破滅の創世』の配下である少女達。
彼女達が『破滅の創世』である奏多ではなく、自分達に接触してきた狙いが何かは分からない。だが、その身の内からは……強大なる滅びの因子を感じる。
その上、先程まで居並んでいた浅湖家の者達の姿がない。
少女達によって、どこか別の場所に転移させられた可能性があった。

「悪いな、観月。話の続きは戦ってからだ……!」

事態を重く見た慧は即座に銃口を前方の少女達に向けて発砲する。
焦りもない。
怯えもない。
正確無比な射撃で、慧はただ眼前の敵達を撃ち抜いた。
『冠位魔撃者』、彼にその名が献ぜられた理由の半分は卓越した銃さばきにある。
だが――晴れた煙幕の向こうで展開していた光景は彼の想像を超えていた。
銃弾は一つとして、まともに標的に着弾していない。

「愚かなものだ。このようなものでわたし達を倒せると思っているとは」

口にすれば、それ相応の苛立ちと嫌悪がにじみ出てくる。
少女達は何事もなかったように慧を見据えていた。

「まぁ、この程度じゃ足止めにもならねえか」

慧は静かに呼気を吐きだした。
この際、少女達に関する疑問は後回しだ。
問題なのは彼女達が周囲の者を無差別に攻撃する可能性が高いという点である。
恐らく誰も彼もを『破滅の創世』を害する者、と認識しているだろう。
もしくは『破滅の創世』である奏多の出方が分からないから、まずは周囲の者を根絶やしにしようと思ったのかもしれない。

「観月、援護頼むぜ!」

慧は距離を取って、続けざまに四発の銃弾を放った。
弾は寸分違わず、少女達に命中するが、すぐに塵のように消えていく。

「まるで彼女達に触れる前に霧散しているみたいね」

少なくとも観月が畏怖に値する敵ではあった。
躊躇していては危険だと即断させる力を秘めていた。

「慧、加勢するわ!」

『破滅の創世』の配下二人を、慧一人で相手取るには銃だけでは危険すぎる。
だからこそ、観月はカードを操り、約定を導き出す。

「降り注ぐは星の裁き……!」

その刹那、立ちはだかる少女達へ無数の強大な岩が流星のごとく降り注ぐ。
此ノ里家の者は封印する力を持つが、それは何も記憶だけではない。
膨大な巨岩をカードに封印すれば、それを解放して放つことができた。
封印するものによって威力は異なるが、その爆発力は目を見張るものがある。
だが――
「……う……そ……」

視界の向こうで展開していた光景は観月の想像を超えていた。
カードから放たれた無数の強大な岩の弾は少女達を貫こうとするが、全てが通り抜けていく。
まるでそれは少女達が物理的干渉から逃れたようだった。

「リディア、分かってるとは思うけど、今回の目的は――」
「分かっているよ、アルリット」

リディアと呼ばれたくすんだ銀髪の少女は傍らの蒼い瞳の少女――アルリットに微笑んだ。

「今回、わたし達が遂行することは一族の者達が匿っている『破滅の創世』様の『記憶のカード』の確保だ。一族の抹殺は二の次なのだろう」
「うん、頑張ろうね」

リディアとアルリットはカードを手にした観月を見据える。

「……つまり、今回の彼女達の狙いは私達、此ノ里家ということね」

観月は『破滅の創世』の配下である彼女達が何故、自分達に接触してきたのか把握する。
一族の者のうち、記憶を封印する力を持つ此ノ里家の者達が主体となって奏多の神としての記憶を封じ込めた。
そのことは既に『破滅の創世』の配下達は知り得ている。
だからこそ、奏多の――『破滅の創世』の記憶を封じたカードを此ノ里家の者達が管理している可能性が高いとも考えていた。

「リディア。『破滅の創世』様の記憶のカードがどこにあるにしろ、今はあたし達の役目を果たそうよ。それが一族の抹殺に、ひいては『破滅の創世』様の役に立つんだし」
「了解」

それは当たり前だ。リディアにとっての正義とは即ち『破滅の創世』の言葉の完遂である。
アルリットが神の言葉を代弁しているならば、つまり彼女の意志は天の囁きであるのだから。

「相変わらず、『破滅の創世』様狙いで容赦ないな。あの頃と変わっていないみたいで嬉しいぜ、アルリット」
「ケイ……。今度は確実に消滅させるから」

そう告げるアルリットは明確なる殺意を慧に向けていた。

「あなた達、知り合いなの……?」
「前に戦ったことがあるんだよ」

話の全貌が掴めない観月に応えるように、慧は不敵に笑う。

「で、こいつは『破滅の創世』の配下の一人でアルリット。俺が亡霊になった元凶さ」
「……どういうこと?」

観月が促したものの、慧はしばらく考えた様子を見せた。

「さて、どこから話したものか」
「本来、生きているはずがないってどういうこと?」

瞳に強い眼差しを宿した観月は慧を見つめる。

「俺は既に死んでいるんだよ。こいつに――アルリットに殺されてさ」
「なっ……!」

何処か吹っ切れたような顔をして言う慧の顔を観月は凝視した。
「でも、あなた、生きてーー」
「今の俺はアンデット、つまり不死者だ。まぁ、誰かは分からんが、俺を蘇えらせた奴がいるらしいぜ」

そう呟いて空を見上げた慧は風の行く先から目を逸らした。

「何でそんなこと……」
「もちろん、不死者の俺を利用するためだ。『破滅の創世』の配下の奴らは不老不死。それに対抗するためにさ」

慧が苦々しいという顔で語った話に観月は絶句する。
混乱は治まることはなく、むしろ深まっていた。

「利用……?」
「理解できないな。利用されていると分かっていながら、わたし達に歯向かうとは」

観月がさらに疑問を発しようとしたが、リディアが遮る。

「理解に苦しむ行動をするのは一族の者の性か」
「そうかもな」

慧は観月の態勢を整える猶予を作るように発砲した。
絶え間ない攻撃の応酬。だが、弾は全て塵のように消えていく。
決定打に欠ける連撃。
それでも慧は怯む事なく、観月と連携して次の攻撃に移った。

「やっぱり……」

その攻防の最中、浮遊し、中空から戦線の把握に務めていたアルリットは気づく。

「リディア。ケイ達はあたし達に勝つのが目的じゃない。この場に足止めすることだよ」

そう口にしたアルリットはこの数手の攻防だけで、慧と観月の思惑を肌で感じ取っていた。
慧達は今、完全に待ちに徹している。
それは学園にいる奏多達からアルリット達の目を逸らさせることを狙ってのもの。
『破滅の創世』の配下の力は強大だ。その上、不老不死である。何かあれば、勝敗の天秤はアルリット達に傾く。
だからこそ、慧達は焦らない。
二人は敢えて、アルリット達をこの場に留めることを狙っていた。
しかし、その均衡はリディアによって崩される。

「ちっ!」

アルリットが空から慧に肉薄する――その瞬間、リディアは観月の背後に回っていた。

「観月、後ろだ!」
「――っ。降り注ぐは――」

だが、観月がカードを構えようとすると、リディアは驚異的な速さで迫った腕を掴んだ。
慧の掩護射撃すら間に合わない。即座に持っていたカードを奪われ、観月は吹き飛ばされてしまう。

「このカードは違う。これも違う。アルリット、『破滅の創世』様の記憶のカードはここにはない」

リディアはこの場に目的のカードはないことを把握する。

「リディア、あの建物に同じような力の使い手がいるよ」

アルリットの見下ろす先にあるのは人々の抗い。
『破滅の創世』の配下の者によって呼び出された終焉より零れ出た神獣の群れを相手に、学園の教師や生徒達――一族の者達は健闘している。
その中にはカードをかざして奏多を護る結愛の姿があった。

「――うん、あの人間、神獣を相手に『健闘』しているね」

そう、健闘している――あるいは善戦しているとでも言い換えてもいい。
その言葉の裏には『敗北』が決しているという事実がある。

「誰だ? 何故、一族の者はあの人間を逃がそうとする?」

リディアが奏多を見て最初に思ったのがそんな疑問だった。
「あなたは初めて会うんだったよね。あの方が今の『破滅の創世』様なんだよ」
「なっ……!」

突飛な話で何を言っているのか分からない。リディアの思考が掻き乱されていく。

「ど、どうして……? 嘘、だろう……?」

リディアは混乱する頭でどうにか言葉を絞り出す。

「あの者が我が主なんて、そんなはずは……。どう見ても覇気がない。周囲の人間に対して敵意がない」
「『破滅の創世』様は記憶を奪われて、連中に利用されているんだよ。神魂の具現として、ありえざる形の生を受けてしまった存在。それがーー今の『破滅の創世』様の真実」

それは今まで信じてきたものが根本から崩れ去っていくような感覚だった。
だが、激情と悲哀、その他様々な感情が渦巻く無窮の双眸。
アルリットのその瞳が告げていた。
これらは全て、(まが)うことなき事実であると。

「……嘘だ。では、わたし達が探し求めていた主は……」
「今も連中に利用され続けているだけなんだよ」

かって三人の神のうち、最強の力を持つとされる神『破滅の創世』が記憶を封じられ、ただの人間に成り果てている。
かっての『破滅の創世』の姿が、唐突にリディアの脳裏を掠めた。

「わたしは我が主の無念を晴らしたい」
「あたしもそれは同じ」

リディアの宣誓に呼応するように、アルリットは一族打倒を掲げる。
そんな彼女達の前に、慧と観月は立ち塞がった。

「アルリット。今度は確実に俺を消滅させるんだろう?」
「ケイ……」

それは最初の一手から賭けとなった。
水を向けたアルリットから即座に距離を取って、慧は自らの得物を直ちに発砲する。
このただ一度の打ち合いにおいても、敵方であるアルリットが本気で攻撃した場合、慧が為す術もなく倒れてしまうことは想像に難くないと予測された。

「消滅。それはあたし達に今すぐ殺されたいって言うの?」

問題は――。
その本気に至る以前の攻撃ですら、慧と観月、そして学園内で戦っている結愛達にとっては致命打になりかねないものであったということだった。

「あたし達、『破滅の創世』様のためなら何でもするよ」
「それが何を指していようともな」

絶望的な力の差だった。
圧倒的な力量差だった。
それでも慧は握る銃の柄に力を込める。視線を決してアルリットから外さずに。

「……あいつらを見捨てる。それは、きっと。俺にとって、死よりも恐ろしいことだからさ」

強大な敵の前に死した慧にとって、それは最早揺るがない決意だった。
大切な人達を。大切な人達との未来を。最早この手から欠片も零すまいと決意した彼は、全霊を以てアルリットに弾丸を撃ち込む。
たとえ敵わずとも、その果てにある未来を手にするために――。
――その瞬間、大地が震えた。

鳥が飛び立つ。小動物が逃げ出す。逃げれぬ花は死を悟りて枯れ始めた。
大地が嘆いている。空が啼いている。世界は軋むように雷雨という涙を零す。
彼方を見据えれば、天の色が端より紅とも紫ともに染まり始める。
これは――まるで彼の存在が世界を滅ぼせと謳っているかの如くだ。
襲い来る神獣の群れを相手に、結愛はカードを操り、約定を導き出す。

「行きますよ! 降り注ぐは氷の裁き……!」

その刹那、立ちはだかる神獣の群れへ幾多の氷の柱を敵の群れの直下から突き立てた。
しかし、神獣は自在にその身を硬化する。カードから放たれた氷の刃は神獣を捉えることはなく、左右に受け流された。

「また、カードの力を無効化したのか……?」
「ほええ、最悪です。全く効いていないですよ!」

奏多と結愛がじわじわと押し込まれていく中、神獣の群れの連携攻撃は徐々に苛烈さを増していく。

「もう一度、降り注ぐは氷の裁き……!」

結愛は氷塊を連射し、生ずる氷柱で神獣の直撃を阻む。さらに放たれた強固な一撃を辛くも躱すが、巨体に反して神獣の動きは決して鈍くない。

「……くっ」
「はうっ……」

次撃は避けられず、奏多と結愛は壁に叩きつけられた。
神獣の群れは圧倒的な攻撃力と速度で、四方八方から攻勢をかけ続ける。
対する奏多と結愛は防戦一方だ。 

「多勢に無勢なら、それに対応するまでだ」

奏多は不可視のピアノの鍵盤のようなものを宙に顕現させると軽やかに弾き始めた。
川瀬家の者は魔楽器使いと呼ばれている。
魔楽器――それは演奏することで魔術的な力を発揮する不思議な楽器だ。
奏多はピアノの魔楽器奏者である。
研ぎ澄まされた表情で迅速に、かつ的確に鍵盤を弾いていく。
赤い光からなる音色の猛撃を次々と叩き込む。それは治癒の反転、その彼なりの極致は神獣の群れをたじろがせた。

「結愛、上空から新手だ!」

と、その時だ。眼前の神獣の群れとは別の方角から……奏多は殺意を感じ取る。
――直後に飛来するのは『雷』だ。この地を荒れ狂うように降り注いでいる。
奏多がふと気が付くと、目の前に人影が立っていた。
くすんだ銀髪のまだ、幼さの残る少女。

誰だ?

その姿が目に入った瞬間――奏多は呼吸すら忘れたように少女を見入った。
彼女を見ていると、まるで意識が吸い込まれそうになる。
なのに何故か、この少女から目を離すことができない。

でも、どこかで会ったことがあるような気がする……。

疑問に思う中、奏多は周囲の変化に気づいた。神獣の群れの動きが突如、統率のとれたものに変わったのだ。