次の日は土曜日で学校も休みだから、私はお姉ちゃんを見送りに、近くのバス停まで一緒に歩いた。
お父さんもお母さんも玄関先で大泣きしてしまって、とても一緒に来られる感じじゃなかったから、置いてきた。
甥っ子ちゃんはお利口にベビーカーに座って、道行く車を指さして、ブーブー! と声を上げている。
歩きながらのスマートフォンの操作は危ないので、会話ができない。でもコウちゃんの様子を見てるだけで楽しい。
信号を渡れば、すぐバス停だ。信号待ちの間、昨日の彼氏との会話を思い出した。
『最近、事故多いよね』
『ほんと、怖いよね』
『だから、なるべく交差点でも端っこには立たないようにしてて』
『大事だね』
青信号を渡る。甥っ子ちゃんとももう少しでお別れだ。
つきたくないな、お姉ちゃんはもっともっとつらいんだろうな。そうしんみり思っていた。
――ガンガンガンガンガン!
突然、どこかで爆音が鳴り響いた。
どんどん近づいてくる。クラクションの音が響く。
足を止めて音の方を見ると、白い車が、車線の上を突き進んできていた。赤信号で停止している弾きながら。
血の気が引いた。暴走車だ。こっちにくる。しかも――
少し前を歩いているお姉ちゃんを見る。
「危ない!!」
思わず叫んだ。
喉がカッと痛んだ。火を噴いたみたいに熱い。
お姉ちゃんが、慌てて足を強く踏み出したのが見えた。それから、ベビーカーを強く前に押し出す。
直後、目の前を白い塊が猛スピードで通り過ぎた。お姉ちゃんと私の間を突き抜けていった。
そしてすぐまた轟音が響く。歩道のガードレールにぶつかって、車の前半分はひしゃげて潰れてた。
私は震えて立ち尽くしていた。
何が起こったのか、よく分からなかった。
暴動なのか、ただの運転ミスなのか。どっちかわからないし、今はどっちでも関係ない。
お姉ちゃんが、地面に倒れている。どんどん血が流れて、地面に広がっていく。
「お姉ちゃん」
思わず声が出た。再び喉が焼け付くように痛む。息苦しさに恐怖がよぎるけど、すぐにどこかに行った。そんなことよりも、赤い色が目に焼き付く。
駆け寄ると、お姉ちゃんは、虚ろな目で空を見上げていた。瞼が震えている。――生きてる。
「救急車! 誰か!」
力いっぱい叫ぶ。発語するたびに、どんどん傷みが増す。これがあまりにも続くと、やがて喉がはれあがり、呼吸ができなくなるらしい。
息が苦しいのは、喉の腫れのせいなのか、動揺のせいなのか分からない。
遠巻きにしてる人たちはうろたえながら、スマートフォンを操作しだした。メッセージを打ってる風な人、撮影してる様子の人。
女の人がひとり駆け寄ってきて、スマホの画面を見せてくれた。
パトカーと救急車の絵が表示されて「事故です」にチェックが入っている。位置情報送信済、の文字も見えた。
他の人が、大泣きしている甥っ子ちゃんに駆け寄って、抱き起こしてくれた。見た感じ、血が出たりはしていない。ベビーカーは車に当たらなかったんだ。倒れた時にどこかぶつけたりしてないといいけど。
「……あの子は」
お姉ちゃんは、力なくつぶやく。
「コウちゃん大丈夫だよ」
言った瞬間、涙があふれ出した。
私は甥っ子ちゃんを助けてくれた女の人から受け取って、 抱きかかえてつれてくる。甥っ子ちゃんは泣きながら身をよじり、「ママ、ママ、ママ」と泣きながら私の腕から逃げようとした。
涙と一緒に嗚咽が漏れそうになって、懸命にこらえる。
――チャンスは残り三回です。
頭のどこかで、楽しげに声は告げた。笑っちゃう。ほんと、笑うしかない。
実際にはどれくらい残ってるかもわからないけど、いつもあと三回くらいかも、それどころか一回かもしれないって思ってる。恐怖を抱えて生きてる。この嗚咽で、終わりかもしれない。
たったあと数回で、何を言えばいいっていうんだろう。何が言い尽くせるっていうんだろう。
でも、それは私だけじゃない。私の周りの人たち、みんながそうだろう。
そしてお姉ちゃんが一番、リミットに近い。甥っ子ちゃんにあんなに話しかけていたし。それなのに今も。
「光輝(こうき)」
お姉ちゃんは、泣いている甥っ子ちゃんに手を伸ばした。真っ赤な血に濡れた手を、小さな手が強く握りしめる。
しゃべらないで。お願いだから、しゃべらないで。
私はスマートフォンをタップした。
『黙って!』
怒ったイラストカードと一緒に、登録してた私の声が叫ぶ。
お姉ちゃんは、力なく微笑んだ。
「大丈夫よ」
息子の頬にふれて、姉は微笑む。
どうせもうすぐさようならだから、と思ってるのかもしれない。でも、それって一時的なものじゃん。ずっとじゃないじゃん。ウイルスがどうにかなったら会えるじゃん。
今すべてをかける必要ないじゃん。
――でも、お姉ちゃんの血が止まらない。
お姉ちゃんは、吐息のように囁いた。
「大好きだよ」
言葉を発すれば死ぬかもしれない。
でも何も言わなくても、もしかしたら死ぬかもしれない。
それなら、声と言葉を残したいと思うのだろうか。
救急車のサイレンが聞こえてくる。甥っ子ちゃんの泣き声が響く。
世界は閉塞感に満ちていて、病気でなくたって、こうやって不意のことが起きる。
『黙って』
私はお姉ちゃんの手を握って、もう一度イラストカードを見せる。それから震える手でスマートフォンを操作した。
『将来に期待なんでしょ、黙って』
お姉ちゃんは微笑んで、うなづく。
唇だけ動かして、「ありがと」と、つぶやいた。