「いってきまーす!」
それから僕は毎日毎日、神様の所へ通う様になった。あの小さな家の中で二人きりで話す時間は僕にとって特別で、その時間があると思えば僕は、ひとりぼっちだという気持ちや、楽しかったという嘘の様な積み重なっていたそれらが、どんどん軽くなっていくのを感じていた。心がすっと澄み切っていく様だった。神様はいつもにこにこして僕の話を聞いてくれる。
「神様、いつもありがとう。僕、神様に出会ってなかったら本当に居なくなってたかもしれない」
「こちらこそ。悠太のおかげで大分元気が出てきたの」
微笑む神様の頬は始めの頃より血色が良く見える。山の空気もどこかキラキラと輝いているよう。
「悠太が私を信じてくれるからですよ。可愛い悠太。ずっとこのまま傍で見守っていたい」
「本当? ずっと僕の事見守ってくれるの?」
「それがあなたの為になるのなら」
「じゃあ僕も。僕もずっと神様の事を信じるから、ずっと元気で長生きしてね」
「ふふっ、長生きだって。人間みたい」
そう小さく笑って遠くを見つめる神様のその瞳が僕は好きじゃなかった。まるで線を引いてるように僕には見えたから。
違う存在、遠い存在、いつかは離れる存在。それを感じるのがとても怖かった。
「神様だって同じです!」
思わず勢いのまま声を上げる僕に、神様は「何が?」と、落ち着いた様子で首を傾げる。
「ひとりぼっちだと消えちゃう所とか、あと、寂しいとか嬉しいとか感じる所。僕の気持ちを分かってくれる所も。全部僕と、人間と同じ!」
「……じゃあ、私の気持ちも分かってくれますか?」
「分かります!」
「……では、悠太は私を一人にしないでくれますか?」
その問いにもちろん僕は大きく頷いて、二人で指切りげんまんをした。僕と神様の、大切な約束。
——それを、何故忘れていたのだろう。
小学六年生になる頃、迎えに来た両親と共に僕は田舎を離れ、都会へと戻った。新しい生活にバタバタとしている内に中学生になり、僕は祖父母に面倒をみて貰うような事も無くなり、僕があの田舎に預けられる事も無くなった。
その内に変わらず忙しそうな両親同様、僕も部活やらバイトやら受験やらと生活がどんどん忙しくなり、神様との約束も子供の頃の妄想なのだと自分に言い聞かせ、次第に忘れて新しい毎日を過ごす様になっていった。
そう言い聞かせる様になる決定的な出来事があったのだ。僕は一度、曽祖母のお葬式で田舎へ帰った事がある。その時あの裏山へ向かってみたけれど、いくら声を掛けてもあの日の小さな家へ続く道はもう開かれず、そこでようやく受け入れたのだ。やっぱりあれは孤独だった小さな僕の妄想だったのだと。確信をもった僕はついにはすっかり忘れてしまった訳だけど——、
「私を覚えてはいませんか?」
今、天寿を全うした僕の前に彼女は居る。
初めて会った時同様に長く伸びた黒髪の間から青白い顔を覗かせて、僕のお墓の前に立っている。ずっとずっと、僕はお墓の中でそれを感じていた。そして今日この時ようやく意思を持って外に出られた僕は、絶対にこの人に声を掛けると決めていたのだ。
……けれど今、全てを思い出した。
「……僕を、恨んでいますか」
あなたとの約束を守り、あなたと共に生きる身体を持つ人間の僕はもう、この世に存在しない。
「だからここで、ずっと見張っていたんですね」
僕があなたを、裏切ってしまったから。今の僕があるのは全て、あなたと出会い、あなたと共に過ごしたあの時間があるおかげだというのに。
あなたがあの日に本当の僕を見つけてくれなかったら、僕はきっともっと早くここへ来る事になっていただろう。あなたと離れたその先も人生が続き、それが幸せに満ち足りていたのは、あの頃のひとりぼっちの僕にあなたが寄り添い、支えてくれたからの他にない。
それを僕はたった一度会えなかっただけで、忙しさにかまけて記憶の外に放り出してしまった。あなたを信じ、一人にしないと約束を交わしていたはずなのに。
許してくれとは思わなかった。もう全てを受け渡そうと決意して、真っ直ぐに彼女と向き合う。彼女の為に今の僕が出来る事といったら、この魂を捧げる事ぐらいしかなかったから。
彼女は僕を恨み、憎んでいるだろう。だからずっと僕が出て来るのを待っていたのだ。雨の日も風の日も、その瞬間を絶対に見逃してなるものかと——しかし、
「違います」
彼女はまた、きっぱりと否定する。そしてその真っ直ぐな瞳で僕を射抜く。
「ただ、会いたかったの」
「……え?」
「最後にもう一度あなたの顔が見たくて、私のいない所で消えていってしまわないように、ずっとここで見張っていたの」
「……なんで?」
心に引っ張られる様に声が震える。目頭がじんと、熱くなる。
「だって、あなたとの約束を信じていたから。可愛い悠太。きっと心に私を残してくれているって、ずっと信じていました」
「!」
「あぁ、これでもう満足です。私ももう消える事にします。私の役目ももう終わり」
「役目……? 山を守る事?」
「いえ。あなたをずっと見守る事です。私はあの日からその為だけに存在してきました」
「……もしかして、約束したから?」
「はい」
「ずっと僕の傍に居てくれたの?」
「はい」
「だからあの時、山に居なかったの? なんで傍に居るって教えてくれなかったの?」
「その方があなたの為になると思ったから。立派にあなたの人生をやり遂げましたね」
疲れた顔で微笑む神様は先程の言葉の通り、本当に成し遂げたのだと充実感を得ている様子だった。僕は……僕は、そんな事知らなかったのに。
あの時の言葉のやり取りにこんなに大きな意味があったなんて。あの約束を、ずっとずっと、一人で守ってきてくれていたなんて。そんなの僕は知らなかった。知りたかった、もっと早く。僕の傍にあなたが居た事。あなたの返事の無い山の中、どれだけ僕が喪失感に苛まれたと思っているのだろう。本当はずっとずっと会いたかったのに、忘れないと辛すぎたから、だから忙しさに身を任せ、妄想だったと言い聞かせ、無理に前を向いたのに。あの時の僕には忘れる事でしか乗り越える事が出来なかったのに。
それなのに、あなたは僕の傍に居た。死んでしまった今もずっと、あなたは僕を、僕の事を、
「大好きですよ、悠太」
「ま、待って!」
キラキラと輝きながら透けていく彼女の手を取り引き留める。するとにっこり微笑む彼女が首を傾げて、その懐かしい仕草にどっと涙が溢れて来た。
「最後に少しだけ、少しだけ時間を下さい。もう一度、僕達の話をしませんか?」
「…………」
「僕はあなたと話しがしたい。あなたに伝えたい事も、あなたに聞きたい事も沢山あります。だからお願い」
「…………」
一瞬、ぐっと泣きそうな顔で目に力を込めた神様は薄っすら微笑むと、「そうですね」と頷いた。
「では最後に少しだけ、私達の話を」
彼女が手をかざした先には光の道が出来上がっていた。きっとあの小さな家に続いている、そんな気がして僕は彼女の手を取り横に並ぶ。
家に着く前にまず一つ、伝えたい事があった。
「僕も大好きです。待っていてくれてありがとう」
僕の神様は美しく、優しく微笑んだ。
それから僕は毎日毎日、神様の所へ通う様になった。あの小さな家の中で二人きりで話す時間は僕にとって特別で、その時間があると思えば僕は、ひとりぼっちだという気持ちや、楽しかったという嘘の様な積み重なっていたそれらが、どんどん軽くなっていくのを感じていた。心がすっと澄み切っていく様だった。神様はいつもにこにこして僕の話を聞いてくれる。
「神様、いつもありがとう。僕、神様に出会ってなかったら本当に居なくなってたかもしれない」
「こちらこそ。悠太のおかげで大分元気が出てきたの」
微笑む神様の頬は始めの頃より血色が良く見える。山の空気もどこかキラキラと輝いているよう。
「悠太が私を信じてくれるからですよ。可愛い悠太。ずっとこのまま傍で見守っていたい」
「本当? ずっと僕の事見守ってくれるの?」
「それがあなたの為になるのなら」
「じゃあ僕も。僕もずっと神様の事を信じるから、ずっと元気で長生きしてね」
「ふふっ、長生きだって。人間みたい」
そう小さく笑って遠くを見つめる神様のその瞳が僕は好きじゃなかった。まるで線を引いてるように僕には見えたから。
違う存在、遠い存在、いつかは離れる存在。それを感じるのがとても怖かった。
「神様だって同じです!」
思わず勢いのまま声を上げる僕に、神様は「何が?」と、落ち着いた様子で首を傾げる。
「ひとりぼっちだと消えちゃう所とか、あと、寂しいとか嬉しいとか感じる所。僕の気持ちを分かってくれる所も。全部僕と、人間と同じ!」
「……じゃあ、私の気持ちも分かってくれますか?」
「分かります!」
「……では、悠太は私を一人にしないでくれますか?」
その問いにもちろん僕は大きく頷いて、二人で指切りげんまんをした。僕と神様の、大切な約束。
——それを、何故忘れていたのだろう。
小学六年生になる頃、迎えに来た両親と共に僕は田舎を離れ、都会へと戻った。新しい生活にバタバタとしている内に中学生になり、僕は祖父母に面倒をみて貰うような事も無くなり、僕があの田舎に預けられる事も無くなった。
その内に変わらず忙しそうな両親同様、僕も部活やらバイトやら受験やらと生活がどんどん忙しくなり、神様との約束も子供の頃の妄想なのだと自分に言い聞かせ、次第に忘れて新しい毎日を過ごす様になっていった。
そう言い聞かせる様になる決定的な出来事があったのだ。僕は一度、曽祖母のお葬式で田舎へ帰った事がある。その時あの裏山へ向かってみたけれど、いくら声を掛けてもあの日の小さな家へ続く道はもう開かれず、そこでようやく受け入れたのだ。やっぱりあれは孤独だった小さな僕の妄想だったのだと。確信をもった僕はついにはすっかり忘れてしまった訳だけど——、
「私を覚えてはいませんか?」
今、天寿を全うした僕の前に彼女は居る。
初めて会った時同様に長く伸びた黒髪の間から青白い顔を覗かせて、僕のお墓の前に立っている。ずっとずっと、僕はお墓の中でそれを感じていた。そして今日この時ようやく意思を持って外に出られた僕は、絶対にこの人に声を掛けると決めていたのだ。
……けれど今、全てを思い出した。
「……僕を、恨んでいますか」
あなたとの約束を守り、あなたと共に生きる身体を持つ人間の僕はもう、この世に存在しない。
「だからここで、ずっと見張っていたんですね」
僕があなたを、裏切ってしまったから。今の僕があるのは全て、あなたと出会い、あなたと共に過ごしたあの時間があるおかげだというのに。
あなたがあの日に本当の僕を見つけてくれなかったら、僕はきっともっと早くここへ来る事になっていただろう。あなたと離れたその先も人生が続き、それが幸せに満ち足りていたのは、あの頃のひとりぼっちの僕にあなたが寄り添い、支えてくれたからの他にない。
それを僕はたった一度会えなかっただけで、忙しさにかまけて記憶の外に放り出してしまった。あなたを信じ、一人にしないと約束を交わしていたはずなのに。
許してくれとは思わなかった。もう全てを受け渡そうと決意して、真っ直ぐに彼女と向き合う。彼女の為に今の僕が出来る事といったら、この魂を捧げる事ぐらいしかなかったから。
彼女は僕を恨み、憎んでいるだろう。だからずっと僕が出て来るのを待っていたのだ。雨の日も風の日も、その瞬間を絶対に見逃してなるものかと——しかし、
「違います」
彼女はまた、きっぱりと否定する。そしてその真っ直ぐな瞳で僕を射抜く。
「ただ、会いたかったの」
「……え?」
「最後にもう一度あなたの顔が見たくて、私のいない所で消えていってしまわないように、ずっとここで見張っていたの」
「……なんで?」
心に引っ張られる様に声が震える。目頭がじんと、熱くなる。
「だって、あなたとの約束を信じていたから。可愛い悠太。きっと心に私を残してくれているって、ずっと信じていました」
「!」
「あぁ、これでもう満足です。私ももう消える事にします。私の役目ももう終わり」
「役目……? 山を守る事?」
「いえ。あなたをずっと見守る事です。私はあの日からその為だけに存在してきました」
「……もしかして、約束したから?」
「はい」
「ずっと僕の傍に居てくれたの?」
「はい」
「だからあの時、山に居なかったの? なんで傍に居るって教えてくれなかったの?」
「その方があなたの為になると思ったから。立派にあなたの人生をやり遂げましたね」
疲れた顔で微笑む神様は先程の言葉の通り、本当に成し遂げたのだと充実感を得ている様子だった。僕は……僕は、そんな事知らなかったのに。
あの時の言葉のやり取りにこんなに大きな意味があったなんて。あの約束を、ずっとずっと、一人で守ってきてくれていたなんて。そんなの僕は知らなかった。知りたかった、もっと早く。僕の傍にあなたが居た事。あなたの返事の無い山の中、どれだけ僕が喪失感に苛まれたと思っているのだろう。本当はずっとずっと会いたかったのに、忘れないと辛すぎたから、だから忙しさに身を任せ、妄想だったと言い聞かせ、無理に前を向いたのに。あの時の僕には忘れる事でしか乗り越える事が出来なかったのに。
それなのに、あなたは僕の傍に居た。死んでしまった今もずっと、あなたは僕を、僕の事を、
「大好きですよ、悠太」
「ま、待って!」
キラキラと輝きながら透けていく彼女の手を取り引き留める。するとにっこり微笑む彼女が首を傾げて、その懐かしい仕草にどっと涙が溢れて来た。
「最後に少しだけ、少しだけ時間を下さい。もう一度、僕達の話をしませんか?」
「…………」
「僕はあなたと話しがしたい。あなたに伝えたい事も、あなたに聞きたい事も沢山あります。だからお願い」
「…………」
一瞬、ぐっと泣きそうな顔で目に力を込めた神様は薄っすら微笑むと、「そうですね」と頷いた。
「では最後に少しだけ、私達の話を」
彼女が手をかざした先には光の道が出来上がっていた。きっとあの小さな家に続いている、そんな気がして僕は彼女の手を取り横に並ぶ。
家に着く前にまず一つ、伝えたい事があった。
「僕も大好きです。待っていてくれてありがとう」
僕の神様は美しく、優しく微笑んだ。