もっと明るい時間に来る事、と彼女は言っていたので、僕は次の日の放課後、家に帰る事なくそのまま山へ向かう事にした。初めて昼間に訪れたけれど、やっぱりどこか物騒というか、陰湿というか……結局怖い。それでも、今日も一歩一歩踏み締める様に奥へと向かう。

「あ、あの……こんにちは……」

 それは喉からひょろひょろと出てきた様な声だった。恐る恐るでどこへ掛けていいのかも分からない声掛けは、山の隅々まで届くとは到底思えなかったけれど、

「こんにちは」
「! あ、えっと」
「ちゃんと約束守ったのね、偉いわ」

 にっこり微笑む女の人はまた突然目の前に現れて、僕は目を丸くして彼女を見つめた。明るい場所で見る彼女は今までの印象と全然違う。長い黒髪はさらさらと流れ、色の白い肌は透き通る様。そして、まつ毛の長い大きな瞳。

「綺麗な人……」

 思わず呟いてしまった言葉に彼女がふふっと笑った事でハッと我に帰ると、「ありがとう」と微笑みながら、

「でも、人では無いの」
「!」
「それでも一緒に来ますか?」

 そう言って、後ろを振り返った彼女は真っ直ぐに手をかざす。すると、昨晩の様に木々は綺麗に横に避け、そこに一本の道が出来上がった。

「少しお話ししましょうか」

 そして彼女はゆっくりと出来上がった道を歩いて行くので、僕は一瞬戸惑いながらもその背中について行く事にした。今日僕はその為にここにいるのだから、彼女が何者だろうとついて行くだけだったから。
 じっと黙ったまま、少し歩いた先に見えたのは、小さな家。招いてくれたので中に入ると、本当に必要なものしか置いていない、といった感じの少し寂しい感じの部屋だった。

「昔ね、人の真似をして作ったの」

 椅子に腰掛けきょろきょろと探る様に室内を見渡していた僕に気付いた彼女は言う。その手には水の入ったグラスが二つあり、一つは僕の前に置いてくれて、その小さなテーブルを挟んだ向かい側に彼女も腰をおろした。

「残念ながら誰も来た事は無いけれど」
「一人なんですか?」
「そうです。ずっと一人」
「……あの、あなたは一体?」
「私は、この山を守っています」
「山を守る……?」
「そう。その様に人が願ったから。だから生まれたの」
「つまり、山の神様?」
「そうね……そうだったのかもしれません」
 
 遠い目をして、彼女は言う。

「けれど、今はきっと違うわ」
「なんで?」
「だって誰にも信仰されない神様なんていないもの。そんなものは存在しないものと同じ。きっと遠くない未来、私は消えて無くなるのでしょう」
「……それは、必要とされてないって事?」
「……そうね。だって私、幽霊だと思われているし」
「!」

 悪戯っ子の様な笑顔を見せる神様は、「それで?」と、僕に問う。「君はどうなの?」と。

「僕は……僕も、神様と同じです」
「私と?」
「そうです。僕も誰にも必要とされなくて、本当の僕なんてもう、消えてなくなってしまったみたい」

 この先に続くのは僕のつまらない話になる。どうしようかと口籠ると、次の言葉を促す様な神様の優しい瞳に支えられて、ぽつりぽつりと僕の気持ちがこぼれ出した。結局最後には開きっぱなしの蛇口の様にどんどん溢れ出し、家族の事、学校の事、自分の事、今抱えていた辛い思いの全てを神様に向かって吐き出していた。

「僕は、僕はもう誰にも本当の僕を見て貰えないんです。誰にも僕の気持ちが必要とされないのが辛くて悲しくて、寂しくて、怖い」

 誰にも言う事の出来なかった、抑え込む事しか出来なかったそれら。

「……そうね、そう。あなたは小さな身体で一人、頑張っているのね」

 それらを神様は優しい表情でうんうん、と相槌を打ちながら、全て受け入れてくれた。僕の目を見て、僕の心に寄り添って、その温かさで包み込むように。

「でももう大丈夫。私にはちゃんと本当の君が見えていますよ」
「……本当?」
「本当よ。君はとっても真面目で優しくて、頑張り屋で賢い子。感情が見える、綺麗な子。だから私は君とお話がしたかったの。来てくれてありがとう」
「!」
「またお話ししたくなったらいつでもおいで。でもお家の人が心配するから、今度は鞄を置いてからね」

 「さて、そろそろおかえり」と、神様は僕に帰る様促す。窓の外は夕焼けで赤く染まっていた。もう帰らなければ、そんな事を自然と感じた僕は一口水を飲むとお礼を言って席を立つ。

「あの、僕、悠太って言います。明日も来て良いですか?」
「良いですよ」
「迷惑では無いですか?」
「迷惑だなんて。私もずっと寂しかったから、悠太が来てくれると嬉しいです」

 そして、さようならと挨拶を交わして家の扉を開けるとそこは山の入り口に繋がっていて、驚いて振り返った先にはもう神様もあの家も無く、ただ鬱蒼とした木々が乱雑に生えているだけだった。
 『悠太が来てくれると嬉しいです』その言葉がこの時の僕をどれだけ救ってくれた事か。