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「では兼山先生、今日はありがとうございました。また戻ってくるのを楽しみにしてますよ」
久しくその呼び名で呼ばれることがなかった女は、どこか寂しくも懐かしい気持ちになりながらも「ありがとうございます、校長先生」と頭を下げる。
しばらく来なかった学校。そしてもうしばらくは戻ってこられない。
書類をとりにきた女は、すぐに帰ろうと思ったが踵をかえしある場所へと向かった。
女はここ晴葉高校の音楽教師であった。
そして今は子どもが生まれ、育休に入っている。
女が向かった場所は音楽室。
中からはピアノの音が聞こえた。
戸を開ければ音がやむ。
女を視界にいれた男が、目を見開いて立ち上がった。
「あ、」
男は、戸惑ったように声をもらした後小さな声で「お久しぶりです」と言葉を放った。
「ええ。久しぶりね、音代くん」
音楽室に入り、近づけば男は正解の言葉が見つからないのか少し狼狽えながらそれでも女の前から逃げようとはしなかった。今まで何度も今目の前にいる男と直接話すことを願っていた女は、こんなにあっさり会えるとは思わず笑みが溢れた。
「音楽の先生はどう?」
「ぼちぼち、ですかね」
「謙遜しないでよ。色々話題になってるみたいじゃない。ほら、最近の合唱の動画みたよ」
そう言って微笑む女の前で男が少し穏やかな顔になる。やはり、彼に任せてよかったかもしれないと女は思った。
ピアノに目を向けその黒い宝石のような輪郭を指先でなぞる。
「最近はピアノ弾けてないのよね」
「弾きますか?」
男の問いかけに首を横に振った。
「やめておくわ、天才の前で赤っ恥をかきたくないもの」
そう言ってゆっくりとピアノの周りを歩く。
男は「天才」の言葉に少し顔を顰めた。
「俺は、天才なんかじゃないです」
男の手にぎゅっと力がこもる。
女はその様子をみて再びクスリと笑った。
「私と私の夫は何度もあなたを怒らせてるわね」
「っ、そんなことは」
「まだ、先生が憎い?」
男は言葉を詰まらせた。
女は男の前に立ち、その心情をのぞきこむように男の目をまっすぐ見つめた。そして男の口が小さく動く。
「憎いです。だけど、音楽の楽しさを教えてくれたことは感謝しています」
「本人に直接伝えてあげてよ」
「どの面で会えって言うんですか。俺は逃げ出したんです先生からも、音楽からも」
「でも、こうやってまた音楽をやってるじゃない」
「それは」と男は一度言葉を止めて、息を吐いた。
自らを落ち着かせるようにピアノの椅子に腰を下ろす。そしてその黒い瞳で女を見上げる。
「俺はこの場所でいつまでも逃げてばかりじゃダメだって気づきました。でも、先生には会わない。まだ、会えないです」
少しずつだが男も前を向き始めている。それが分かって女は満足だった。
「先生のこと、憎いって言いましたが、俺はそれ以上に自分が憎いです。結局父を死なせたのは俺ですから」
「音代くんそれは、」
女の言葉を遮るように男が言葉を続けた。
「俺は、俺のやり方で罪を償いますよ。俺なりの音を鳴らし続けます」
「音代くん」
「兼山さん、俺、改めて気づいたんです。人の感情はいつだって変わるし、それにそって裏切りや争いも簡単に起こる」
オレンジ色の光が男の姿を照らす。
女は、男の言おうとしていることがなんとなく分かった。男の深い闇を救えるのは結局それしかないのだと悟った。
だからこそ、自分は男にこの居場所をあたえたのだと。